長野県の中核寺院はなんといっても定額山善光寺(長野市、無宗派)だ。1998(平成10)年の長野五輪の開会式では、平和の祈りを込めた鐘が打ち鳴らされたことでも知られ、信州のシンボルになっている寺だ。実は善光寺は、全国でも珍しい無宗派の単立寺院だ。そのため、万民を分け隔てなく受け入れてきた。どこの宗派にも属さないのは日本仏教の「原点」とされる一体の仏像が善光寺に祀られているからだ。

 この善光寺信仰の中核こそが6世紀、朝鮮半島の百済国から日本に初めてもたらされたと伝えられる仏像、一光三尊阿弥陀如来像だ。同像は「絶対秘仏」とされており、1300年間以上、厨子の扉が開かれていない。その身代わりとして鎌倉時代に造られた前立本尊を、数え年で7年に1度、御開帳する。現在、善光寺の管理・運営を任されているのは山内にある天台宗の「大勧進」と宿坊25院、および、浄土宗の尼寺「大本願」と宿坊14坊だ。善光寺住職は、大勧進と大本願のトップの双頭体制をとっている。

百済の聖明王が送った日本最古の仏像がある

 「一生に一度は善光寺詣り」

 古くからそんなキャッチコピーが生まれるほど、庶民の憧れの聖地が信州の善光寺であった。近年でも長野市を訪れる多くの観光客が善光寺詣りを目的としている。年間600万人程度が訪れるが、数え年で7年に1度の御開帳の年には参詣者は倍増する。前回の2015(平成27)年の御開帳では期間中だけで707万人を数えた。2021(令和3)年に予定された御開帳は、新型コロナウイルス感染症蔓延のために2022(令和4)年に延期されるというイレギュラーな対応を強いられている。

 古くから善光寺に参詣者が集うのには理由がある。ここには日本最古とされる仏像が祀られているからだ。この仏像は、一光三尊阿弥陀如来像(善光寺式阿弥陀三尊像)と呼ばれている。文字通り、ひとつの光背を背にして、中央に阿弥陀如来が立ち、向かって右脇に観音菩薩、左脇に勢至菩薩が並ぶ独特のスタイルをとる。

 この阿弥陀如来像はインドから朝鮮半島へと渡り、6世紀半ばに百済の聖明王から日本に贈られたもの。渡来した直後は蘇我氏によって恭しく祀られたが、折しも疫病が流行った。そこで排仏派であった物部氏は、

「外来の神などを祀るから、疫病が流行るのだ」

 として、如来像を奪い、難波の運河に投げ捨てた。

 最終的には蘇我氏が勝利した。そして、いよいよ仏法が根付くことになる。7世紀に入って信濃の国司本田善光が運河から仏像を救い出し、信濃に持ち帰った。644(皇極天皇3)年、現在の地に伽藍が造営され、国司の名をとって善光寺と名付けられたのが寺のおこりである。

 厨子に入れられた本尊は654(白雉5)年以来、開けられていない。つまり「絶対秘仏」としていて、文化財調査はおろか、歴代住職の目にも触れていない。しかし、鎌倉時代に身代わり(模造)として造られた前立本尊がある。この前立本尊を数え年で7年に一度、御開帳するのだ。模造の仏像を拝みに数百万人が信州を訪れるのだから、善光寺の持つ宗教性は計り知れない。

長野五輪での善光寺
長野五輪での善光寺写真:ロイター/アフロ

天台宗と浄土宗の2僧侶が「住職」

 善光寺の創建時の詳細は不明である。発掘調査では、往時の善光寺の中心伽藍の位置は現在の三門の南側あたりであったとされている。白鳳期の瓦も出土しており、そのデザインから善光寺は飛鳥の川原寺様式の巨大寺院であった可能性が高いという。

 善光寺は日本に仏教が根差すきっかけとなった仏様を祀る寺、という特別な歴史的背景があるため、特定の宗派の枠組みに組み込まれてこなかった。この理念は、仏法を根付かせた聖徳太子が建立した大阪の四天王寺に似ている。中世、善光寺信仰と聖徳太子信仰は互いに影響し合う形で盛り上がっている。

 そのため、分け隔てなく万人を救いとるのが善光寺の役割になってきた。その際たるものに、女性に開かれた寺院である点が挙げられる。奈良時代以降、中世における全国の寺院は女人禁制であるところが多かった。しかし、善光寺は常に女性の参拝を受け入れてきた。善光寺は女人救済の寺としても知られる。

 熊谷直実の娘玉鶴姫や、徳川家光夫人春日局、吉原の高尾大夫など、歴史上の女性の墓や供養塔が境内に散在している。室町時代には遊女や夫と死別した女性が善光寺に詣り、そのまま出家するケースが見られた。次第に尼僧の養成道場の機能も持つようになった。

 その精神は現在まで受け継がれている。善光寺は寺院運営上、天台宗の「大勧進」と浄土宗の「大本願」という両本坊の住職が、善光寺の住職の地位にある。つまり住職が2人いるのだ。そして、大勧進の傘下には宿坊(塔頭)25院、大本願は宿坊14坊がある。大勧進は天台宗の高僧(男僧)が推挙されて貫主をつとめている。

 一方で、大本願住職は代々、公家出身の尼僧が法灯を継承している。歴代、五摂家(一條家、二條家、九條家、近衛家、鷹司家)の子女が住職に迎えられるしきたりになっていて、前住職は第120世上人(法主)にあたる一条智光尼、現在は第121世上人の鷹司誓玉尼である。

 男僧が絶対的優位の仏教界において、浄土宗の7つの大本山(増上寺、金戒光明寺、百萬遍知恩寺、清浄華院、善導寺、光明寺、善光寺大本願)の一角の法主の地位を女性が占めていることは稀有なことである。

 江戸時代には、江戸では徳川の菩提寺である浄土宗増上寺と天台宗寛永寺がツートップの座にあったが、奇しくも善光寺も浄土・天台の双頭体制であるのは興味深い。

天台宗の大勧進 (著者撮影)
天台宗の大勧進 (著者撮影)

善光寺はフランチャイズの最初

 平安時代末期、善光寺は火災で伽藍の全てを焼失。この時、善光寺への信仰を深めていた源頼朝によって再建を果たしている。頼朝は、しばしば善光寺詣りをしていたとの記録が残っている。焼け野原になった善光寺を見て心を痛め、再建に尽力したと考えられる。

 鎌倉時代には北条家によって庇護され、さらに寺領を拡大。善光寺信仰は全国に広がり、善光寺の名前を借りた「新善光寺」があちこちにつくられ、善光寺式阿弥陀三尊像が祀られる。善光寺の調べでは、全国には119の「善光寺」があり、443の善光寺如来が存在するという(有珠善光寺の章を参照)。うち4割ほどの寺が信州善光寺同様に秘仏にしているという。いわば、善光寺のフランチャイズが各地にできていったのだ。

 このような「寺院のフランチャイズ」の例は、東大寺を筆頭とした国分寺、全国に別院という形で教線を拡大してきた東西本願寺などがある。

 善光寺は、被雷などによる火災に度々見舞われている。創建から数えれば十数回、江戸時代だけで3度、本堂が燃え、その都度、再建されている。現在の本堂(国宝)は1707(宝永)年に建てられたものだ。

 善光寺は、多額の再建資金を捻出するために「出開帳」という手段を用いたことでも知られる。前立本尊を地方寺院に出張させ、善光寺詣りができない人々に、ご利益を手向けることで布施収入を得るという斬新なアイデアである。

 最初の出開帳は1692(元禄5)年、江戸・両国の回向院にて55日間実施された。回向院は明暦の大火の身元不明遺体を供養する寺院として、宗派に拘らない理念の寺として開かれた。その理念は善光寺と相通ずるものがあり、善光寺の出開帳の場として相応しかった。

 出開帳は、さらに京都の真如堂や大阪の四天王寺など全国の古刹で実施され、大成功を収めた。明治に入り、出開帳はストップしたが、2013(平成25)年、東日本大震災の復興支援を目的として回向院で実施され、話題になった。

 善光寺に魅せられた著名人も多い。江戸時代には伊勢の神宮と比肩するほどの知名度を誇り、著名人も足繁く通った。松尾芭蕉は善光寺を訪れ、

「月影や 四門四宗も 只一つ」

との句を残している。

 近年では明治天皇の巡行が実施され、岩倉具視や大隈重信ら700人が随行した。ロシアの宣教師ニコライは1893(明治26)年に長野を訪れた。ニコライは日記に、信州の人々の善光寺にたいする信仰力はとても強く、キリスト教に改宗させることは困難、と感想を綴っている。善光寺の威光の大きさを物語るエピソードのひとつだろう。

 善光寺では毎朝、本堂で実施される「お朝事法要」の往復の際の、「御数珠頂戴」の列が名物になっている。御数珠頂戴とは、大勧進貫主と大本願法主が参道でひざまづく信者の頭を、数珠で撫でていく儀式である。時には何百人も列をなし、頭を垂れる姿は壮観である。

 善光寺のように「知られざる名刹」の縁起を、1都道府県につき1か寺を紹介したのが拙著『お寺の日本地図 名刹古刹でめぐる47都道府県』だ。併せてご覧いただければ幸いである。