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出版物の軽減税率適用と「自主規制」 言論表現機関としての出版社は生き残るか?

植村八潮専修大学教授(出版学)
「悪書」「有害図書」「発禁」をめぐっては、たびたび議論となってきた(撮影筆者)

言論・表現・出版の自由と責任

 出版の自由と責任の観点から政府・行政による「有害図書」指定と、対抗手段としての出版界による自主規制について、振り返ってみよう。

 戦後新しく制定された日本国憲法の21条では、「言論、出版その他一切の表現の自由」を保障し、「検閲は、これをしてはならない」と定めている。戦前・戦中に厳しい出版規制や弾圧を受けた出版界は、戦後、たがが外れたかのような出版物も刊行した。いわゆる「カストリ雑誌」と呼ばれた扇情的な雑誌が多量に出版され、しばしば警察の摘発を受けている。

 このような過激な性表現への摘発が背景にあって、警察による伊藤整訳『チャタレイ夫人の恋人』の押収・発禁という事件が起こり、結果的に文学作品への有罪判決をまねいたともいえる。この判決の判断は、『悪徳の栄え』裁判や『四畳半襖の下張』裁判の有罪判決にも適用されることになった。

 チャタレイ裁判では、30人を超える作家・文化人が証言台に立ち、刑法175条に規定されたわいせつ文書に対する規制を、日本国憲法第21条で保障する表現の自由に反するという論陣を張っている。同様に、『悪徳の栄え』裁判や『四畳半襖の下張』裁判でも、出版界は言論出版の自由を守るために一丸となって戦ったのである。

 本来、表現の自由は、公権力が国民の言論を弾圧することから守り、自由を保障したものである。行き過ぎた表現が広がったことで、規制の強化を目指す社会的、政治的動きが活発化し、結果的に、文芸作品に対しても公権力の介入をまねくことになったのである。

 1957年に雑協と書協は共同で「出版倫理綱領」を公表し、「著作者ならびに出版人の自由と権利を守り、これらに加えられる制圧または干渉は、極力これを排除するとともに、言論出版の自由を濫用して、他を傷つけたり、私益のために公益を犠牲にするような行為は行わない」と記している。

 相前後して、各県で図書に関する青少年保護条例が制定され、1963年には、東京都も「青少年条例」制定への動きが始まっている。出版界は、青少年条例制定や図書類の条例による規制に対処するため、出版倫理協議会(出倫協)を結成し、条例制定反対運動に取り組んだ。

 以来、出版界は、出倫協を中心に、内に対しては自主規制の運用を行い、外に対しては一貫して出版の自由を束縛する法的規制に反対してきたのだ。

 一方で、政府、行政からの規制とともに、PTAを中心とした市民活動からの規制要請も高まっている。当時の代表的な運動として、漫画を対象とした「悪書追放運動」があり、手塚治虫の『鉄腕アトム』も、ロボットなど「荒唐無稽だ」と批判されたという(ウィキペディア「悪書追放運動」)。

 何が有害図書かは時代ごとの考え方にもよる。現に、1996年に『チャタレイ夫人の恋人』、1995年に『悪徳の栄え』の完全な無削除版が刊行されている。また、刊行以来33年間、子供たちに未だ読み継がれている人気シリーズに『ぼくらの七日間戦争』がある。この作品も大人への反抗を描いたことで、当初は「悪書」と言われ、学校から「読まないほうがいい」と言われたことがあるという(朝日新聞6月25日朝刊)。

政府の意向を受けて作られた初の「自主規制」

 『日本雑誌協会日本書籍出版協会50年史』には、出版界の戦後史を「言論・報道・出版の自由の獲得に向けての闘いの歴史であり、また一方で、行きすぎた表現の自律をはかる自省と努力の歴史でもあった」と書いている。

 同書は、「言論・表現・出版の自由と責任」という章を設け、出版界の自主規制が、「言論・表現・出版の自由」を守る闘いのためにあったことを詳らかにしている。「自主」の名の下に行われた政府・行政からの要請をはねのけ、あくまで自主的な活動としての「規制」にこだわってきた歴史であることが、よくわかる。そのどこにも政府の要請による「規制」もなければ、軽減税率適用といった、およそ表現活動とかけ離れた理由による「自主規制」もないのだ。

 「有害図書」を分けるコードは、各出版社の自主判断に任せるのだろうか。であれば、誰もが軽減税率適用を求めてコードを付けたりはしないのではないか。その結果、「こんな本が軽減税率の対象になってよいのか」という批判が高まり、自主規制は破綻しかねない。その結果、法規制の動きをまねくことになるだろう。政府の意向を受けて作られた「自主規制」は、本来の自主規制ではない。

 もとより「有害図書」を分ける明確な基準や外形的要素はなく、恣意的な判断が介入しやすい。出版界は刑法や条例に基づく出版規制を避け、言論表現の自由を守るために、自主規制を行うとともに悪書や有害図書というレッテルが拡大することに徹底的に抗戦してきたのだ。

 

 出版界は、軽減税率適用を餌にして「自主的に有害図書」を選ばせるという、政府与党の巧みな戦略に、まんまとはまったのである。出版物の腑分けは、出版界の分断にもつながる。

 出版物に二つの税率を業界自ら認めることは、蟻の一穴となって、出版活動を窮屈なものにしていく。繰り返しになるが本の価値は一人一人の読者が決めることであって、そこに税の差による区分を持ち組むべきではない。一枚岩でなくなった活動ほど、脆いものはない。内部分裂を繰り返し衰退していった組織の例など掃いて捨てるほどある。

 願わくは、この動きが、言論表現機関としての出版界の終わりの始まりにならないことを。

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専修大学教授(出版学)

専修大学文学部教授。博士(コミュニケーション学)、納本制度審議会会長代理。東京電機大学工学部卒業。東京経済大大学院博士課程修了。東京電機大学出版局勤務、同局長を経て、2012年より専修大学文学部教授および出版デジタル機構代表取締役に就任。2014年6月出版デジタル機構取締役会長を退任し、現在に至る。専門は出版学で日本の電子書籍の研究・普及・標準化に長らく携わってきた。近著として『図書館のアクセシビリティ:「合理的配慮」の提供に向けて』(樹村房、2016年、編著)、『ポストデジタル時代の公共図書館』(勉誠出版、2017年、共編著)。

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