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『いいとも』『タモリ倶楽部』開始から40年 カルト芸人から国民的タレントになったタモリの「戦略」

てれびのスキマライター。テレビっ子
1981年にリリースされたLP「ラジカル・ヒステリー・ツアー」のジャケット

今から40年前の1982年10月4日、その後、約31年半にわたり日本の昼を彩った『笑っていいとも!』(フジテレビ)がスタートした。そのわずか4日後の10月8日深夜、現在も続く深夜の超長寿番組『タモリ倶楽部』(テレビ朝日)も開始した(本日、同番組では珍しく『タモリ倶楽部 ユーミン初登場で空耳やっちゃいましたSP』と題した特番も放送される)。

1982年のタモリ

1982年は、タモリにとって極めて重要なターニングポイントになった年だといえるだろう。

拙著『タモリ学』文庫版(文庫ぎんが堂)に収録した「大タモリ年表」の中から、1982年の項を引いてもその充実っぷりがうかがえる。

1982年(37歳)

▼1月1日、『元旦早々タモリで最高!』(TBS)放送。ビートたけし、竹下景子、大空真弓らが共演。

▼1月2日、『今夜は最高!』で女性パートナーに吉永小百合を迎え正月スペシャル。男性ゲストは沢田研二。スケッチでは眠れる美女(吉永)と王子(タモリ)、吸血鬼(沢田)を演じた。翌週の男性ゲストは野坂昭如。どちらが吉永小百合をより好きかで競っていた。タモリは憧れの吉永小百合とデュエット。

▼1月、「BRUTUS」2月1日号で吉行淳之介と対談(『吉行淳之介エッセイ・コレクション4 トーク』[筑摩書房]に収録)、日本航空の機関誌「Winds」で深田祐介と対談(『男のホンネ』[三笠書房]に収録)。

▼1月21日、『タモリスペシャル 今夜ときめきスペース』(テレビ朝日)放送。

▼1月23日、映画『水のないプール』公開。若松孝二監督、内田裕也主演。タモリはカメラ店主役で出演。

▼1月30日、『今夜は最高!』のゲストにトニー谷が登場。その後タモリはヴォードヴィリアンを継ぐ存在と見込まれたからか、晩年のトニー谷にかわいがられていた。「あの人の晩年のほとんど仕事をしていなかった時期に、俺、可愛がってもらったの。それで、あの人と何回か会って言われたことは、『ボードビリアンってのは音楽だよ。音楽わかんないと、ボードビリアンはできない』って」。なお、タモリとトニー谷の類似性については小林信彦も『日本の喜劇人』の中で指摘している。ちなみにトニー谷は赤塚不二夫のマンガキャラ「イヤミ」のモデルでもある。

▼2月、ガブリエル・ウッシー(本名・内堀尚)著『ぼくはタモリの運転手』(ライフ社)刊行。序文はタモリ。

▼2月11日、『ミュージックフェア』(フジテレビ)出演。タモリはデューク・エイセスをコーラスに従えて歌い、トランペットを演奏。

▼2月12日、「GORO」3月25日号で糸井重里と対談(『話せばわかるか 糸井重里対談集』[飛鳥新社]に収録)。急速に世間から自分が受け入れられつつある状況に自ら「おかしいと思うよ」と語り、この頃から既に「国民のオモチャ」を自称している。

▼2月20日、『今夜は最高!』のゲストに、デタラメ外国語の元祖ともいえる藤村有弘。「デタラメ外国語の応酬がアドリブでできる人は初めて」と藤村に喜ばれる。ちなみにタモリの中国語芸のイントネーションは中国・海南島のそれに近いという。

▼3月、書籍『現代用語事典 ブリタモリ』(講談社)刊行。赤塚不二夫、加藤芳一、長谷邦夫との共著。

▼3月、「新潮45+」創刊号で井上ひさしと「吉里吉里語VSハナモゲラ語」対談。

▼3月、昭和56年度 第19回 「ゴールデン・アロー賞」芸能賞を受賞

▼4月、書籍『タモリと賢女・美女・烈女』(世界文化社)刊行。黒柳徹子、吉永小百合、田辺聖子、吉田日出子、中村メイコら11人の女性との対談本。吉永小百合との対談では「タモリさんって、とってもイカしてる感じなんですよね」と褒められ「うわあー、駆け回ろうかな、オレ」と舞い上がっている。

▼4月3日放送分『今夜は最高!』第52回から、タモリ所属事務所の田辺エージェンシー・田邊昭知社長発案により半年間の休止。その前段として、田邊は髙平に「止めるわけじゃない。半年休むんだ。その間に、別のタレントが仕切るバラエティを半年やる。それでまたタモリに戻る。つまり、二人のタレントを看板にした二つのバラエティ番組を作り、最初は交互に、評判になれば、一度に週二本の強力なバラエティ番組が流れるわけだ」と説明、「番組を長生きさせるため」「タレントを大事にするため」と語っている。

▼4月8日、『夢のビッグスタジオ』(テレビ朝日)放送開始(~5月27日)。西田敏行とともに司会を担当。しかし低視聴率によるプロデューサーの交代に伴い、自ら申し出てわずか6回で降板。番組も8回で打ち切られた。

▼4月10日、『今夜は最高!』に代わり、桃井かおりメインの『日曜はダメ!!』がスタート。ディレクターはドラマ畑の吉野洋、構成は伊集院静ほか。しかし半年を持たず8月で打ち切られ、9月4日から『今夜は最高!』が再開。シーズン制のバラエティ番組の構想は失敗に終わる。

▼4月25日~7月28日、全国ツアー「ラジカルヒステリーツアー’82」開催

▼5月29日、糸井重里司会の『YOU』(NHK教育)第8回に、山下洋輔とともにゲスト出演。

▼5月、「中央公論」(82年6月号)で筒井康隆と対談(『筒井康隆スピーキング 対談・インタヴュー集成』[出帆新社]に収録)。冒頭から「ベルグソンでも(テーマに)やりますか」とムチャぶりされるが、即座に「ベルグソンっていうのは結局、『バナナの皮理論』でしょう」と負けずに返している。

▼6月2日、『オールナイトニッポン』にLP「ビッグな気分で唄わせろ」のプロモーションでビートたけしがゲスト出演。たけしはアナウンサーに局部を押し付けスタジオ内がパニックに。

▼7月31日~8月1日、「第15回びわ湖バレイオールナイトジャズフェスティバル」(びわ湖バレイ:山麓特設野外ステージ)に参加。

▼8月21日、『24時間テレビ』(日本テレビ)で「最高一座“狂奏”旗揚げ公演」(日本青年館)を深夜に1時間中継

▼「パーソナル」82年9月秋号で加賀美幸子と対談(『やわらか色の烈風』[筑摩書房]に収録)。加賀美は対談の中で共演した『テレビファソラシド』や一緒に行った首相官邸パーティでのタモリの様子を通じて「タモリさんて、テレビの内側からものを見ている人じゃなくて、外側からテレビをごらんになっていらっしゃる」と評している。

▼9月、面白グループによる書籍『野球のない夜は英語でひまつぶし いたずら英語教室』(ベストセラーズ)刊行。

▼9月5日、ラジオ『タモリと理恵の音楽専科』(文化放送)放送開始(~84年9月30日)。パートナーは中原理恵。

▼10月4日、『笑っていいとも!』(フジテレビ)放送開始。10年2月4日の『いいとも』によると、当日の新聞の番組面に「即興のエンターティナー、タモリが毎日、新しい笑いに挑戦する生バラエティショー」という広告が掲載される。一回目は、「『タモリの世界の料理』のフランス編。フランス人コックに扮したタモリがその腕前を見せる。アシスタントは斉藤ゆう子。『ふんいき劇場タモリ+1』の今日の相手は坂本あきら。ふたりのかけあいが見もの。ゲスト・桜田淳子」とあった。

タイトルの由来は諸説あるが、「ジャズマンは朝の予定が早いと嫌な顔をする。しかし中村誠一は『いいとも』と即答しており、このフレーズが採用されたという髙平哲郎説が有力。横澤によれば、番組のコンセプトは「何かをバカにする」というものだったという。横澤は「会議は短いほうがいい」と5時半には終わらせ、6時半頃から始まる芝居や映画を見に行くのが常。ディレクターには小劇場を積極的に勧めた。「ウキウキWATCHING」の作曲は伊藤銀次。「タモリといいとも青年隊が踊りながら歌うテーマ曲を書いてくれ」と横澤に依頼され、既にできあがっていた詞に、わずか20分で曲をつけた。当初は3カ月で終わると思ってタモリは渋々オファーを受けた。開始時のレギュラーは斉藤ゆう子・斉藤清六・村松利史・高田純次・桂文珍・松金よね子・田中康夫・井手ひろし(現・井手らっきょ)らで、『笑ってる場合ですよ!』の司会陣は起用されなかった。番組開始以来30年以上の長きにわたり、タモリ発案の企画はほとんどないという。

▼10月8日、『いいとも』テレフォンショッキングに和田アキ子が出演。当時、ゲストが歌手の場合、歌を歌うことになっていたが、歌詞が飛んでしまい号泣。なお、和田アキ子は同コーナー22回出演で最多記録。ちなみにテレフォンショッキング中のタモリとゲストが座るテーブルが長年にわたって端にあり、真ん中に移動した後、タモリが「なんであんな端にあったのか?」とよく言っているが、歌手が歌ったり、タモリやゲストが自由に暴れることができる「なんでもできるスペースを作りたい」という初代ディレクター・永峰明による発案だったという。

▼10月8日、『タモリ倶楽部』(テレビ朝日)放送開始。田邊昭知のコンセプトは「今のテレビはピシーッと隙間のない番組ばかり。だからこの番組だけは隙間だらけにしてくれ」。スポンサーも社長自ら探してきたという。「毎度おなじみ流浪の番組」というとおり、低予算でオールロケというスタイル。初期は中村れい子とのメロドラマ「愛のさざなみ」、窪田ひろ子による「夜の英会話」、“お尻評論家”山田五郎による「今週の五ッ星り」、久住昌之・滝本淳助の「東京トワイライトゾーン」、「怖いですねアワー」など各回でのコーナー企画も多かった。「Short Shorts」(The Royal Teens)に合わせて「お尻ギャル」(一部男性も)が下着姿でお尻を振るオープニングも有名。「お尻ギャル」はお尻のみのオーディションで選ばれている。

▼10月9日、タモリ主演の映画『キッドナップ・ブルース』公開。小学生の少女が隣の部屋の男と行方不明になり、その1年数カ月後、ふたりが自転車で全国を旅しているところを発見されたという実際の事件をヒントに、浅井愼平が企画・制作・監督・撮影を務めた作品。淀川長治はパンフレットで「タモリ氏と一度テレビでごいっしょしたことがあるが、それまではヤモリのかいぶつのよぅなねんえきてきグロ味を感じたこともあったのだが、さてごほんにんにお逢いするやまるで違った。スタヂオの出番20秒まえ、このひとがセットとライトの横で何やらうつろな目で立たれているプロフィルにわたしは思わずマンハッタンを感じたのであった。ブロードウェイ人種。くろおとのエンタテイナァー。」と語っている(原文ママ)。しかし「この映画はヒットすまい」と。

▼10月24日、『笑っていいとも!増刊号』(フジテレビ)放送開始。平日の昼間に放送した番組の総集編、さらに番外編や放送終了後のトークを放送するのは画期的だった。また、「編集長」という名目で編集者の嵐山光三郎を起用。文化的な側面を押し出しフジテレビの「軽チャー路線」を牽引した。

▼11月17日、坂本龍一が出演。JALのいわゆる「鶴丸マーク」の話題になり、坂本がジェスチャーでそれを表現しながら「あれは『世界に広げよう、友だちの輪』っていう意味なんだ」と語る。タモリが「それは知らなかった」と自分もジェスチャーをして「世界に広げよう、友だちの輪」と言うと、会場から「輪!」という声が一斉に起こった。ここから恒例の掛け合いが生まれる。

▼11月、「Studio Voice」Vol.84で「タモリのタベリとダベリ」と題したインタビュー。

▼12月4日、映画『E.T.』公開。“お涙頂戴”にハマってしまうことがあるというタモリ。「俺は世の中に対してスゴい偏見持って、対決心とかで世の中否定してるんだけど意外なところでコロって泣くことがあるんだよね」「俺がものすごく泣いたのは『E.T.』」

▼12月27日、『笑っていいとも!特大号』(フジテレビ)放送。曜日レギュラーが一堂に会す特別番組。以後、毎年末に放送されている。オープニングのタモリ牧師の挨拶(90年以降)、テレフォンショッキングダイジェスト、最後の「ものまね歌合戦」(89年以降)が恒例企画。

▼「スイングジャーナル」誌上の「日本ジャズメン人気投票」、男性ボーカル部門で1位。(84年まで3年連続で獲得)

▼高橋惠子・高橋伴明の結婚式の司会を務める。

▼「週刊TVガイド」20周年、象印マホービン、片岡物産「アストリアコーヒー」などのCMに出演。

(※戸部田誠:著『タモリ学』より)

興味深いのは、前年に開始し、好評だった『今夜は最高!』(日本テレビ)を所属事務所の田辺エージェンシー社長・田邊昭知の発案により半年間の休止していることだ。現在ではNHKを中心に比較的多く見られるシーズン制をこの頃に試しているのだ(結果的には『日曜はダメ!!』が苦戦したため成功はしなかったが)。

さらには、「僕はあの当時、テレビにほぼスレスレに出ちゃいけない人間だった……。ヤバイやつだったんですよ、今で言うと江頭2:50。あんな感じのイメージですからギリギリですよ」(NHK『ブラタモリ』11年12月8日放送)と本人が語る通り、「夜」のイメージの強かったタモリが、お昼の帯番組の司会を引き受けるという英断に加え、そのアナーキーな芸を損なわさせないために、田邊自身がスポンサーを見つけてきて『タモリ倶楽部』を立ち上げたというのが“定説”だ。

実に戦略的に「国民的タレント」タモリの基礎が1982年に作り上げられていったことがわかる。

1981年のタモリ

さらに興味深いのは、その1年前の1981年のタモリの動向だ。

近藤正高が著した 『タモリと戦後ニッポン』(講談社現代新書)では、1981年こそがタモリにとって「タモリ・イヤー」だったというのだ。

本書によると1981年のタモリを起用した千趣会の新聞広告でこんな秀逸なコピーが掲載されたという。

1年前、女性たちがいちばん嫌い、に挙げた人。なのに、ことしはいちばん好きな人、です。

タモリが『いいとも』開始前のこの年で既に、好感度が高まっていたことが示唆されている。

この年のタモリの活動をやはり「大タモリ年表」で振り返ってみるとこうだ。

1981年(36歳)

▼正月に軽井沢、2月には箱根で、書籍『Sono・Sono』(アイランズ、5月刊行)の編集会議。当時ベストセラーだった、女子大生たちの性の告白本『ANO・ANO』のパロディで、おじさんたちの性の失敗談を綴ったもの。しかし編集会議とは名ばかりの宴会で、赤塚らはお尻にビンを入れるなどした。

▼2~3月、東洋水産「一醤麺」のCMに、寺山修司・野坂昭如のモノマネで出演。タモリによれば寺山の真似のコツは、「青森は寒い。だから首が肩にうずまる。唇も寒い。だからあまり口を開かない。その姿勢で『…ということは問題ではなくて』と相手の言い分を一度否定してから、難しいことをしゃべる」

▼2月21日、「戦後歌謡史」を改めてリリースすることが決まったが、やはり著作権の問題で延期。4月9日に『オールナイトニッポン』で全曲放送。これが評判を呼び、9月10日にLP『タモリ3-戦後歌謡史-』(アルファ)として新星堂チェーンで限定発売され、1カ月で3万5000枚(推定)を売り上げたが、老舗レコード会社からの発売停止を求める抗議が。アルファはパロディの是非をめぐって法廷で争う覚悟を決めていたが、「なぜ新星堂だけで売らせるのか」というレコード店からの反発があり、レコード店を敵にまわすわけにもいかず、程なく発売中止になった。

▼4月、『オールナイトニッポン』の「思想のない音楽会」で2月以降毎週のように流していた、さいたまんぞうの『なぜか埼玉』がシングルで再販され約12万枚を売り上げる全国的なヒットに。この「思想のない音楽」に感銘を受けた井上陽水が「ボクの歌は、今まで思想がありすぎました。それに、暗い。これからは過去を断ち切って、思想のない歌をうたいます」とわざわざスタジオを訪れ宣言したという。陽水は番組の大ファンで、鶴瓶ら友人に「つぎはぎニュース」などのテープを配っていたほど。

▼4月4日、『今夜は最高!』(日本テレビ)放送開始。表紙があってグラビア(コント→番組ではスケッチと呼んでいた)があって座談会(トーク)があって読み物があって音楽欄(ゲストが歌う)がある、雑誌のような番組を目指して制作。基本的に女性ゲスト=パートナーは2週続けて出演し、男性ゲストは毎週変わる。タモリは歌とトランペットを披露していた。「この番組のゲストは絶対に歌を歌わなければいけない」という原則があった。

▼5月1日、LP『ラジカル・ヒステリー・ツアー』(CBSソニー)発売。収録曲の「狂い咲きフライディ・ナイト/スタンダード・ウイスキー・ボンボン」(作詞作曲:桑田佳祐)がシングルカット。それに伴い4月29日~8月27日まで中野サンプラザを皮切りに初の全国縦断コンサート「ラジカル・ヒステリー・ツアー」開催。髙平哲郎によると、名古屋批判全盛の時期だったため当地では「公演中、突如、若者が舞台にかけ上がり、タモリの脇腹を刺す。会場から女の悲鳴とどよめき。ステージ上は血の海。舞台下からタモリを抱きかかえるために走り込む我々と、犯人にタックルしようとする数名のガードマン。実はこれ、タモリと話していて本当にやろうとした」が実現はしなかった。

▼5月~、国鉄(現JR)「新幹線」のCMに起用。タモリにとっては念願の鉄道関係の仕事が意外に早く実現した。

▼5月、「広告批評」1981年6月号で「タモリとはなんぞや」特集。ロングインタビューの他、永六輔・江藤文夫・城悠輔らが寄稿。山藤章二・吉行淳之介・加賀美幸子・中村誠一・ビートたけしらがコメントを寄せる。

▼5月2日、『今夜は最高!』のゲストにビートたけし。パートナーの檀ふみはツービートとB&Bの区別がついていなかった。たけしとタモリでブルース・ブラザーズ風にサングラスをかけ「ローハイド」を歌うがふたりとも歌詞を知らず「ローレンローレンローレンローレン」と繰り返していた。なおタモリは、お忍びで来日していたジョン・ベルーシの希望により、六本木のバーで呑んだことがある。彼が亡くなる1年ほど前だったという。「面白い話合戦になって。2時間くらい飲んでましたかね……」

▼5月16日、ライブ「タモリ&ニューハード」(埼玉会館大ホール)開催

▼7月、書籍『超時間対談』(集英社)が刊行される。故人と語り合うというコンセプトで、複数の著名人が参加。タモリは哲学者アンリ・ベルグソンと架空対談。ベルクソンはタモリの“片目”をイジるなどし、「差別的」笑いなどについて“語り合って”いる。他に、田中小実昌×ハンフリー・ボガード、山下洋輔×ベートーヴェン、唐十郎×シェイクスピア、寺山修司×ランボー、赤塚不二夫×ウォルト・ディズニーなど。

▼7月2日、『オールナイトニッポン』でRCサクセションとスペシャルライブ。

▼8月5日、ラジオドラマ『ピットインでヤマシタ・トリオをディグしていると妙な話が浮かんできた』(NHK‐FM)放送。

▼8月9日、ライブ「ジャズ大名セッション ザ・ウチアゲ」(日比谷野外音楽堂)。筒井康隆・山下洋輔・中村誠一・坂田明・小山彰太・武田和命・ペッカー・吉野弘志・平岡正明・相倉久人・糸井重里・河野典生・堀晃・かんべむさし等が参加。タモリは「だれにでもできるバロック音楽」「中国人ブルース」などを披露。音楽コント「ペニスゴリラアフリカに現る」にも参加。「ペニスゴリラ」は『まんがNo.1』に付録レコードとして収録されたもの。

▼8月23日、『24時間テレビ』(日本テレビ)内で「タモリの素晴らしき今夜は最低の仲間達」放送。日本青年館からの深夜(0:45から75分間)の生中継。ディレクターは『金曜10時!うわさのチャンネル!!』の棚次隆。チャリティ番組にもかかわらず、タモリと赤塚がロウソクを垂らし合うSMショーや、背の低いタモリと赤塚が猫背になり、お尻に座布団を入れ小さいレスラーに扮し、180cm以上あった景山民夫がレフリーをするミゼット(小人)プロレスのパロディなどを披露。苦情が殺到した。

▼9月5日、12日、『今夜は最高!』に桜田淳子が出演。タモリが彼女を気に入り土居甫や坂田明、髙平哲郎らと「桜田淳子を守る会」を結成。三宅恵介によれば、その流れで『いいとも!』テレフォンの初回ゲストになったという。

▼9月13日、『わが旅・わが心』(フジテレビ)で香港から中国国境まで電車の旅。

▼10月1日、五輪招致で名古屋大敗。IOC総会の約1時間後タモリは『オールナイトニッポン』で、押しかけるマスコミを冷笑しつつ「決まっていればあと7年このネタでつなげれた」「両者にとって不幸」などと発言。

▼10月4日、『夕刊タモリ!こちらデス』(テレビ朝日)放送開始(~翌3月)。ニュースをネタにしたコント番組。タイトルは同局の筑紫哲也司会『日曜夕刊!こちらデスク』のパロディ。『タモリ倶楽部』の前身番組と位置づけられている。

▼11月、第10回「ベストドレッサー賞」スポーツ・芸能部門受賞。この頃、タモリが急速に世間に受け入れられてきたことを示すように、この年の千趣会の新聞広告にタモリが起用され「1年前、女性たちがいちばん嫌い、に挙げた人。なのに、ことしはいちばん好きな人、です」というコピーが踊ったという。

▼11月、平岡正明 著『タモリだよ!』(ソニー・マガジンズ)発売。最初の本格的「タモリ論」というべき作品。

▼11月1日、ライヴドキュメント『わが心のインディオ』(NHK‐FM)放送。この作品は昭和56年度文化庁芸術祭に参加。

▼「婦人公論」で檀ふみと対談(82年刊行『逢えばほのぼの』[中央公論社]に収録)。「まだ『モリタ』だったころ」と題され、タモリのデビュー前の話を中心にしながら、寺山修司と実際に会った時のことなどを語った。

セカンドシングルLP『タモリのワークソング』発売。ソニーのAudio & Video TAPEのCMソングで、タモリ本人がさまざまな職種の労働者に扮して出演。

▼この頃、杉並の自宅に1000万相当のオーディオを設置。「日本一音が良い」と言われるジャズ喫茶「ベイシー」のマスターで、オーディオマニアの菅原正二も認めるほど。

(※戸部田誠:著『タモリ学』より)

先出の『今夜は最高!』に加え『夕刊タモリ こちらデス』(テレビ朝日)もスタート。既にレギュラーだった『テレビファソラシド』(NHK)やラジオ『だんとつタモリ!おもしろ大放送』(ニッポン放送)もあった。これらの番組で主婦層にも急速に支持を広げていった。

また、名古屋五輪招致失敗を機に名古屋人批判を控えるようになり、さだまさし批判も終結を宣言。「毒舌」イメージからの脱却をはかっている。

さらにLP『ラジカル・ヒステリー・ツアー』をリリースし、全国ツアーも行っている。

『タモリと戦後ニッポン』では1981年のタモリをこう評している。

八一年がタモリ・イヤーとなったのも多分に戦略的なものであった。田辺はその前年に「来年はやれる仕事は何でもやろう、内容を考えてやる年ではないと決めてかかった」という。「当然疲れもするだろうし、問題も出てくるだろう。だが、そこで整理されるはずだ」という考えがそこにはあった。

(※近藤正高:著『タモリと戦後ニッポン』より)

事実、この戦略が功を奏し、主婦層への人気拡大と『ラジカル・ヒステリー・ツアー』ライブで見せたアドリブ力を買って横澤彪はタモリを『いいとも』に起用したと言われている。

加えて、国鉄や民放連、朝日新聞などのCMにも出演している。

民放連のCM制作にあたっては、タモリがいかにイメージチェンジをはかろうとしたか、象徴的な話が残っている。このCMは、九月で日本における民間放送開始から三〇年になることから、その記念事業の一環として八月に放送された。その内容は、「今まで、これから、ずうっと長い友だち」というキャッチフレーズのもと、タモリが往年の民放の番組主題歌をメドレーで歌うというものだった。(略)

じつはこのときもう一種類、タモリではなく、親子二代のタレントを起用した「ラジオ・テレビ新世紀」という企画が用意されていた。しかしこれに対し、タモリの所属事務所から一種類だけに絞ってほしいと出演交渉中に申し入れがあったという。これというのも、すでに朝日新聞のCMに出演が決まっており、事務所側としては、《活字と電波、つまり、マスコミを制覇したタレントとしてタモリを印象づけたいというのが(中略)戦略のようだった》と小田桐は書いている。

(※近藤正高:著『タモリと戦後ニッポン』より)

国鉄のCMでも、当初、中洲産業大学風のプランが用意されていたが、タモリ側から「堅っ苦しく、律儀にやりましょう」と提案されたという。

CMにおいても事務所とタモリは一体となり、アクの強い芸風から洗練されたイメージへと転換が試みられたのである。

(※近藤正高:著『タモリと戦後ニッポン』より)

さらに付け加えると、82年に公開された映画『キッドナップ・ブルース』の撮影もこの年に行われている。

こう並べてみると、1981年がタモリにとっていかに重要だったかが分かってくる。

しかも、それを極めて戦略的に行っていたという事実に驚かされる。

1981年――。

それはタモリが「カルト芸人」から「国民的タレント」になるスタートの年だったのだ。

ライター。テレビっ子

現在『水道橋博士のメルマ旬報』『日刊サイゾー』『週刊SPA!』『日刊ゲンダイ』などにテレビに関するコラムを連載中。著書に戸部田誠名義で『タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か?』(イースト・プレス)、『有吉弘行のツイッターのフォロワーはなぜ300万人もいるのか 絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』、『コントに捧げた内村光良の怒り 続・絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』(コア新書)、『1989年のテレビっ子』(双葉社)、『笑福亭鶴瓶論』(新潮社)など。共著で『大人のSMAP論』がある。

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