日和らない?フィヨルドCPJというジャズの選択肢【コンサートレポート】
♪ はじめに
松井秋彦については、すでにYahoo!ニュース個人でも7回取り上げているが、その特異性については語り尽くせていないと思っている。
今回レポートするCPJフェスティバルは、“フィヨルド”という名称を付け足す前から10回も続いているもの。
そろそろ“人口に膾炙”してもいいのではないかと思うのだけれど、11年前にスタートしたフェスのほとんどを観ている自分でも“語り尽くせていない”だなんて“逃げ”を打っているのだから、とてもとてもそんな状況には至っていないと言わざるをえない。
ということを踏まえて、当日に演奏を観ながら書き留めたメモをもとにまとめた原稿を読んでいただきたい。
♪ コンサートレポート
CPJは、“記憶に引っかからない音楽”ではないか──そんなフレーズが、2曲目の演奏が始まったときにボクの脳裏に浮かんだ。
1曲目が「ファンキー・ジャンク」。CPJを主宰する松井秋彦が初期に発表している、彼の代表作ともいうべき楽曲だ。
すでにライヴでは何回も(というかおそらくはほとんど毎回)演奏されているから耳なじみの、記憶にあるはずの曲なのに、いつも感じるのは“初めて聴いたような”という印象なのだ。
それは、“記憶に残らない”といった“駄作”を意味するのではなく、なにかの加減でシナプスをスルリとすり抜けて、脳細胞のどこかに紛れ込んでしまい、自らの意志では探し出せない状態に陥ってしまっている──としか説明のしようがないことなのではないかと、半ば諦めているのだ。
ところが、そのどこへ隠れたのかわからない記憶が、曲の骨格である超変則的リズムや無謀なコード進行の一端に触れたときに、突如としてその存在感を主張し出したりするものだから、現実の音はいきなりパラレル・サウンドにトランスレートして、眠っていた脳細胞内の記憶をグシャグシャと攪拌してしまう。
こうして塗り替えられた記憶は、再びCPJのサウンドとの出逢いを求めて脳細胞内に寄宿するのである。
CPJの世界に触れるということは、この感染力をもって聴く者の脳細胞を変異させ、再びその特異なリズムやコード進行に巡り会いたいという“依存性”を受け容れる、ということだ。
くれぐれも要心と覚悟をもって臨んでほしい……。
♪ CPJの扱い方(これから)
と結んではみたものの、音楽って“要心と覚悟をもって臨”むものなのかという疑問が湧くのは当然だろう。
というのも、ジャズはもともとかなり近い過去にポピュラリティを得た“成功体験”をもつ音楽ジャンルなので、“大衆の共感”という判断基準というハードルがまだまだ大きな影響をもっているから。
つまり、“要心と覚悟をもって臨”むことに抵抗があるのも仕方がない──のだけれど、ポピュラリティに対して“引っかかり=違和感”がある部分を大切にしたからこそ生き残って変異を続けているというのも事実ではなかろうか。
ということで、11回目のCPJフェスを観終わった総括としては、まだまだ追いかけなければいけないのだろうな、というものだったということなのです。