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【追悼】俵山昌之はさまざまな音楽が乗降する“駅”を仕切る名人芸を見せてくれたベーシストだった

富澤えいち音楽ライター/ジャズ評論家

「あるときは大野雄二&ルパンティック・ファイヴの初代ベーシスト、またあるときは納谷嘉彦率いるサムライ・ビバップの“俵之ノ丞”などなど、いろいろなユニットに引っ張りだこの人気ベーシストである俵山昌之」というリード文で、彼のリーダー・バンドのインタヴュー記事を書いたのが2013年春のことでした。

その訃報が届いたのは先週のこと。

2000年前後から多くのライヴ出演でその演奏に触れ、前述のインタヴューの機会も得て、同世代の牽引役的な活動に注目し続けていた演奏者の一人だったのに……。

哀悼の意を込めて、インタヴューの文字起こしのなかから、彼らしい発言をセレクトして捧げます。

『タワー・ステーション』のジャケット写真(筆者撮影)
『タワー・ステーション』のジャケット写真(筆者撮影)

ギター小僧が先輩の誘いでベースに出逢う

──俵山さんの音楽的な経歴をおうかがいしたいんですが。音楽との出逢いというのは?

小さいとき、小1か小2だったかな、半年ぐらいピアノを習っていたことはあったんですけど、でもぜんぜんできなかったし、サボってばっかりで……。だから、音楽的経歴とは呼べないですね(笑)。

意識して始めたのは、中1くらいのときに、4つ上の姉がビートルズを聴いていた影響で、といっても、もう(ビートルズは)解散してましたけど。アルバムが5〜6枚あって、それでギターを始めた。最初はフォークをやってましたね。かぐや姫とか。井上陽水とか。これ、実は、あんまり言ったことないんですよ(笑)。そのうちだんだん、ロックですね。ツェッペリンとか、ディープ・パープルとか、ジェフ・ベック、サンタナ、ジミヘン……。バンドはやってないけど、ギター小僧っていうか。自分でギター・パートをコピーして、ギター・オタクかな(笑)。

──ベースとの出逢いというのは?

ベースを聴いたのは、ジャコ(・パストリアス)がアルバムを出したとき、僕が12歳くらいかな。でも、それでベースをやろうとは思わなかったんですけど。

──そのころはまだギター少年だったわけですね。

そうですね。だから、都立の武蔵丘高校に入学したんですけど、アルトの池田篤が1個先輩にいて、彼がピアノの人と一緒にバンドをやっていたんだけど、ベースを探しているという噂を聞いて、僕は僕で「ギターでジャズをやりたい」って思っていたんですね。池田篤が吹いているのを聴いたら、すごくかっこよく感じちゃって、一緒にやりたい、と。それで、「ギターでやりたいんです」って言いに行ったら、「ギターはいるからベースをやってくれ」って。しかも、文化祭のコンサートが来週あるんだけどって言われて(笑)。

それで、友だちからベースを借りて、あ、借りたんじゃなくて買ったのかな。5,000円で売ってくれた、そんな記憶が……(笑)。

それで一週間後に、渡辺貞夫さんの曲と、「処女航海」。「処女航海」といっても、コードがよくわからないから、Dminorイッパツみたいな(笑)。あと、「黒いオルフェ」もやったかな。なんか、それがベースとの出逢いですね。

──そのころはジャズは聴いていたんですか?

いや、ぜんぜん聴いてないですね。ベースとか興味ないし(笑)。ちょうどフュージョンが流行ってましたけど、プリズムとかカシオペアとかラリー・カールトンとか。そっちが好きになりはじめていたので。だから、まだジャズは聴いていないというか、聴かせてもらったけどぜんぜんわからなかったかな。最初は。

で、高校3年くらいになってやっと初めて、近所の図書館で、まだCDはなかったから、LPアルバムですね。それを借りてきて録音して聴いてました。でも、最初はぜんぜんわからなかったですね。ベースがどうのこうのなんてぜんぜんわからなかったけど、モンクとかパーカーとかはおもしろいなぁと思いましたね。そのへんからだったかもしれないですね。

──文化祭で「処女航海」やってみて、そのあたりを聴こうとは思わなかった?

そのときはぜんぜん興味なかったですね。与えられたからしょうがないからやったという感じです(笑)。

──じゃあ、しかたなくベースをやってるけど、俺はベースじゃないなぁと思っていた?

そうですね(笑)。

そのころ、ギターもちょっと習いに行ってたんですよ、ジャズ・ギター。高校3年のころに。岡村誠史さんって、レコーディングしないで有名な。強力に上手いんですけど、レコーディングはしないらしいんですよ。だから、知る人ぞ知る大名手。半年ぐらい習ったんですけど、あまりにも難しくて、もう無理と思って、ベースだったら簡単そう、できるかもしれないと思って(笑)。それでベースに転向したという……。こんな話は誰にも、あんまりしたことがなかったですね(笑)。

──そのときはエレベだったんですか?

最初はエレキからでした。それで、高校3年のころに確か、ウッド・ベースを買ったんですね。買ってもらったのかな、おばあちゃんかなんかに。十何万円かの安いやつ。それでまた、池田篤なんですけど、国立音大に入っていて、ベースがいないからって。あ、そうだ。ベースがいないから買ってくれって言われたのかもしれないです(笑)。なんかちょっとごちゃごちゃになっちゃってすみません(笑)。

──でも、そういうきっかけがないと、なかなかああいう大きな楽器って、買えないですよね(笑)。

確か、そういう経緯があったんだと思います。最初はエレキの、ジャコ・パス・モデルを買って、真似ごとをして。でも、大学でビッグバンドをやりはじめたんですね、池田篤さんが。そこでベースがいないって。でも、やっぱりウッド・ベースじゃないとって言われて、「はい!」っていう感じですね(笑)。まあ、ちょっと興味はあったので。そこから始めた感じですね。それで国音のビッグバンドをやったり、軽音楽部に行ったり、あとは日大のジャズ研とかにも出入りしたりして……っていう感じですかね。

──目標にするスタイル、アーティストというのはいましたか?

最初に好きになったのはエディ・ゴメスさんなんですね。すごい聴きやすかったので。でもだんだん、最初ぜんぜんわからなかったチェンバースが好きになったり。あと、スコット・ラファロとか、やっぱり1950〜60年代がすごく好きになりましたよね。

──プロのメドというのはどのくらいから?

プロになろうと思ったきっかけは……、19歳くらいのころからジャム・セッションとかに行きだして、その流れで、広島にライヴハウスがあって、そこでベースを探しているという話、ハウス・ベーシストですね。どういう経緯で来たのかは忘れましたけど、若くて下手でもいいからって言われて、「仕事になるんだったら」って思って、それで広島に、半年間くらい住み込みというか、アパートに住んで、毎日そのライヴハウス、店の手伝いもしながらベースを弾いてという、ちょうど20歳のときにそうなって、それがたぶん、プロになったといえる感じですね。そのときはもう、これで行くぞと思っていたので。

当時、そのライヴハウスは有名で、広島でコンサートをやったあとに大物ミュージシャンが来るんですよ。ブレイキーも来たし、フレディ・ハバードも来たし。ウォルター・デイヴィス・ジュニアとか、そういう人たちと一緒にプレイできた記憶があって……。

「ヒゲ野郎」っていう、もうとっくにない店なんですけど。マスターがサックスを吹く人で、そのマスターがバンマスをやっていたんですね。そのマスターもその数年後に亡くなっちゃったんですけど。

日本のミュージシャンだったら、峰純子さんとか、大野えりさんとか。あとジミー竹内さんとか、川上修さんとか、いろんな人が来てくれて、とても勉強になったという記憶がありますね。

そのあたりから、半年やって東京に戻ってきて、バイトしながら、当時は、銀座とか赤坂にいろいろ店があったんですよね、下手でもいいから雇ってくれるような店。ホステスがいる片隅でピアノとベースが演奏しているという仕事が山ほどあったので。若くてたいしてできなくてもまあ、仕事にはなったというか……。なんとなくこれだったらやれるかなぁっていう時代だったかなぁと思いますね。

ルパンティックで学んだ“聴きやすさ”へのこだわり

──名前が出る転機というのは?

やっぱり、きっかけは益田幹夫さんに誘われたときかな。24歳だったと思います。アルバムを出す数年前に、アルフィーで1回出演したときに気に入ってもらって、使ってもらえるようになって。

──益田さんのバンドだと、セッション的な参加とは違う意識になったりしましたか?

そうですね。自分のグループっていうか、セッションじゃないというのはありました。でも、けっこう気楽な感じの人でしたけど(笑)。ぜんぜん厳しいことを言う人ではなかったので。

それとは別に同世代、池田篤、椎名豊君とか岡淳とか、五十嵐一生とかとも一緒にやってました。

──学生時代から知っている仲間ですね?

そうですね。国音とか、岡くんは一橋ですけど。だいたい同じあたりでみんな同世代でやっていて。大坂昌彦は3つ下なんですけど、ちょうど僕が益田幹夫さんのトリオをやっていて、ドラマーが見つからないというときに誰かいないかって言われて、ちょうど彼がバークリーを終わってニューヨークから帰ってきたばかりですごい勢いだったので、紹介して、それでトリオを始めてレコーディングをするようになったんです。

あと、原朋直とかもいたし。川嶋哲郎はまだサラリーマンやっていて、僕が名古屋で池田篤のバンドをやってたら、サラリーマンの川嶋君が来て、バーっと吹いたらすごい上手くて「なんだこいつは?」みたいな(笑)。そのころから強力上手かったですね。

そのころはストレートなフォー・ビートをやっていたんですけど、30代の終わりごろから大野雄二さんのルパンのバンドを、8年くらいやったんですね。だから、大野さんの影響って、すごく強くあると思うんです。

──ポピュラリティに対する?

うーん。自分で好きなことをやるのもいいけど、ほかの人が楽しめる音楽っていうか、聴きやすいというか……。あの人は、トリオではバリバリ弾くけど、それとは別にルパンティック・ファイヴというのをやっていて、それはもっとポピュラーな、誰が聴いても楽しめるわかりやすいものをやってて、こういうのも大切、必要なんだなぁというのを、やっていて感じていた。

自分なりに、そういうことをいつか自分のバンドでやるとしたら、そうしてみたいと思っていたと思うんですね。最初はこのバンド(タワーステーション)もフォー・ビートとかジャズもやったりブラジルもやったりしていたんですけれど、ちょっと、一貫性をもたせたいと思い始めて、スウィングものはいまはまったくやっていないんです。

──一貫性?

わかりやすいけどイージーじゃないというところを狙いたいというか……。やっぱりそれは大野雄二さんの影響はすごい強いと思いますね。

──ブラジル音楽の比重も多いように感じます。

20代のころから、小野リサとかジョアン・ジルベルトはすごい好きで、ふだん車に乗っているときとかよく聴いたりしていたので。

──それはベース的な興味で?

いや、ベースじゃないですね。ベースじゃなくて、歌とかリズムとか曲とか。だから、そういう演奏をしようとはずっと思わなかったんですけど。ホント、趣味で聴いてて。とくにジョアン・ジルベルトの『AMOROSO(イマージュの部屋)』だっけな、そういうアルバムがあるんですけど、それはもう、四六時中聴いてましたね。あと、小野リサも最初の、1stアルバムくらいかな、よくテレビでコマーシャルで流れていたりしてましたよね。それをCDで買って、それも相当聴いてたりしてましたね。だから、いっぱいは知らないですけど、その2人ぐらいしか、でもそれはよく聴いてましたね。

──先ほど、誰が聴いても楽しめるという言葉がありましたけど、そのへんを意識してアレンジしているのでしょうか。それともあんまり考えてないのかな。ジャズなりの楽しさも伝わるようになっている感じもしましたけど。

そうですね、あまりにもポピュラー音楽的な感じになりすぎると、なんのためにジャズ・ミュージシャンを使うのかっていうのがあるので、内容はかなりジャズですね。アドリブもあるし。

ただ、あんまり野放しにしないようにもしてるんですね。1人で何コーラスもソロをやっちゃうみたいなのはないように、と。だいたいはこのくらいって決めてあって。でもそのなかでは、演奏はジャズ。ではあるけれど、ある程度は決まっている感じで、メロディもすごくポップなんだけど、スリー・コードじゃなくて、ジャズ的なハーモニーとかそういうのもある。そのバランスは考えていると思います。たぶん、フツーに聴いたら難しく聴こえないと思うんですけど(笑)。

──聴きやすいですよね。

ジャズの難しい感じを出したくなかったんですね。

──かといって、ヘロヘロなBGMじゃない。

はい(笑)。そのへんがやっぱり、ポイントかなって。だから、ジャズが好きな人が聴いても、「おっ!」って思ってくれると思うんですね。ジャズのコアなファン。まあ、コアすぎる人はちょっとわからないですけど。一般の人が聴いても「ジャズって難しいなぁやっぱり」ってぜったいに言わないと思うんです。

──ベーシストとして、この自分の作品の満足度は?

けっこう満足してますよ。まあ、弾きまくるっていうのも1つのスタイルだと思うんですけど、そうじゃない、バンドをプロデュースする感覚というか……。

で、ベースもすごい、聴きやすい音というより包み込む感じの音にしたかったんです。バンドがあって、それをぜんぶを包み込むようなサウンド。具体的に言うと、昔のチェンバースの、丸くてボーンという、グーじゃなくてボンッていう……。チェンバースも録音によってはちょっといろいろあるんですけどね。僕の好きなチェンバースの、全体をボールのように包み込む感じの、それはけっこう出てるかなぁと思います。

──バンドの未来については……。

やっぱり、CDを売らないといけませんよね。売れて、いろんな人に知ってもらって、もっと大きい演奏場所でもブッキングできるようにしたいですね。音楽的以外のところでの話なんですけどね。

ルパンをやってたので、あの感覚なんですよね、あの感覚になりたいというか。

大野さんのルパンティック・ファイヴって、ジャズ・ファンが1〜2割くらいしかいないみたいですからね。アニメファンが多い。だから、すごい憧れというか、ブルーノートでやっても目一杯入りますからね。夢というか、目標ですね。

音楽ライター/ジャズ評論家

東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。2004年『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)、2012年『頑張らないジャズの聴き方』(ヤマハミュージックメディア)、を上梓。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。2022年文庫版『ジャズの聴き方を見つける本』(ヤマハミュージックHD)。

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