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マラソンスイミングで13位 貴田裕美が歩んだ五輪という舞台までの道のり

田坂友暁スポーツライター・エディター
(写真:松尾/アフロスポーツ)

 後方からスタートした貴田裕美は、じりじりとその順位を上げていく。東京・お台場の海のコンディションは、さほど良いとは言えず、暑さとの戦いでもあった。でもそれはすでに分かっていたこと。貴田が経験してきたことは、十分に対策も取れる材料となった。

 中盤、10番手にまで順位を上げた貴田だったが、さらに上位に上がるにはペースアップのタイミングを見計らわなければならない。マラソンスイミング(オープンウォータースイミング/OWS)の勝負どころは、非常にシビアだ。タイミングが早すぎると、最後のスパートまで体力を残せないし、ライバルたちがついてこなかったら、たったひとりで波や潮の影響を大きく受けることになり、大きく体力を削られてしまう。反対に遅すぎると、今度はスパートに間に合わなくなってしまうばかりか、すべてを出し切る前にレースが終わってしまう可能性も高くなってしまう。

 海で泳ぐとき、視界は非常に悪い。顔を上げても確認できる範囲は限られているし、チェックできる時間は一瞬だ。あまり長く顔を上げているとスピードが落ちるばかりか、必要以上に体力も消耗する。

 このように、マラソンスイミングは、体力、泳力だけではなく、周囲の状況を確認、判断し把握できる能力も必要なのだ。そして、最も大事なのは、勇気なのかもしれない。自分が『ここだ』と決めたポイントを信じて疑わず、思い切って勝負を仕掛けられる思い切りの良さ。それこそが、マラソンスイミングの勝敗を分けると言っても過言ではないだろう。

 その勝負どころは、残り2周回となったあたりだった。急激にペースを上げてスパートをかける、というよりは、上位の選手たちがじりじりとスピードを上げていき、中盤に位置していた選手たちを引き離し始めた。

 レース中盤から集団も縦長だったが、それがさらに縦に長く伸び、ほぼ一直線になるほどだった。

 結果、7人が最後はトップ集団を形成してフィニッシュ。そこに貴田も食らいついていきたいところだったが叶わず。それでも後ろからの追撃を交わし、粘りの泳ぎを最後まで見せた貴田は2時間01分40秒9の13位で東京五輪のレースを終えた。

寒さに凍えた初OWSが貴田の運命を変えた

 貴田は160cmと小柄な体格ながら、自由形長距離で早くから台頭してきた選手だった。はじめて世界大会の舞台に登場したのは、今から実に20年も前の2001年のこと。福岡で開催されたFINA世界選手権に800m自由形の選手としてはじめて代表入りを果たしたのである。

 アテネ五輪の出場は逃すも、その後も世界選手権をはじめとする国際大会に出場し続け、日本の自由形長距離を支えてきたひとりだ。ともに戦ってきたのがアテネ五輪金メダリストの柴田亜衣や、日本記録保持者の山田沙知子らだった。

写真:築田純/アフロスポーツ

 転機となったのは、2010年にアメリカ・アーバインで開催されたパンパシフィック水泳選手権。800m自由形の選手として代表に選出された際、OWSが北京五輪の正式種目になっていたこともあり、同大会で行われるOWSに出場してみないかと誘われたことで、この世界に足を踏み入れた。

 最初は何も情報もなく、どんな水着で、どんなレースで、どんな展開になるのか、どんな対策をすれば良いのかなど、何も分からなかった。そのため、2010年パンパシフィック水泳選手権では最下位。水温が低く、寒さで凍えるほどの状態。ほかの選手たちはホットクリームなどの対応を行っていたが、日本は何も情報がなく、貴田は何も対策を打つことができなかったのだ。

 でも、これをきっかけに貴田はOWSの魅力に取りつかれた。こんな過酷な思いをしたら、もう二度とやりたくないと思うのが多数だ。だが、貴田は「ちゃんと対策をすればもっとできるんじゃないか。長く泳ぎ続けるのは私に合っているんじゃないか」と、夢であった五輪出場の可能性を見い出したのだ。

 確かに、貴田は800mよりも1500mのほうが強かった。距離が長ければ長いほど、その強さを発揮していた。それに、小柄な体格を利用したテンポの速い泳ぎが貴田の特徴でもあり、波や潮の流れにも大きく左右されることのないパワフルな泳ぎが持ち味だったことも、OWSに向いていた。

写真:ロイター/アフロ

 2010年は競泳のほうにも出場しつつ、OWSに参戦。二足のわらじを履いていたが、徐々に主戦場をOWSにシフト。2012年のロンドン五輪出場を目指し、OWSの試合経験を積み始める。

 ワールドカップなどの大会では入賞したり、メダルにあと一歩というところまで迫ったりと戦える算段はついたものの、2011年のFINA世界選手権(中国・上海)では35位と惨敗。そこで、OWSはただ泳力を鍛えるだけでは戦えず、レース経験を積むことが必要だと確信し、積極的に国内外の大会に出場を重ねた。

 その結果、ロンドン五輪世界最終予選を見事突破。男子の平井康翔とともに、日本のOWS初の五輪出場を果たしたのである。

写真:YUTAKA/アフロスポーツ

 ロンドン五輪の会場はハイドパークという公園内の人工湖を舞台に行われた。静水面だったこともあり、純粋に泳力の高い選手が上位に行きやすい環境となっていた。それでも貴田は上位に食らいつき、12位を獲得。

 2016年のリオデジャネイロ五輪までは、さらにレース経験を多く積み重ね、2014年のパンパシフィック水泳選手権では5位入賞。4年前は凍えてレースにならなかった状況から考えれば、OWSスイマーとしての経験を積み、むしろレース巧者と言えるほどに成長を遂げていた。

 リオデジャネイロ五輪では、まさにOWS、海での開催。波も高く、過酷な状況下であったが、貴田はロンドン五輪同様12位となる。

諦めなかったからこそ叶えた夢

 その後は引退も考えたが、日本で開催される東京五輪にどう関わりたいか、を考えたとき、やはり選手として東京五輪に参加したい、という思いが強くなり、現役続行を決意。

 国内でも若い選手たちが続々とOWSに参戦し始めており、貴田が国内でも勝てないレースが出始めていた。それでも、さすがレース巧者と言うべきか。潮の流れや波の状況を読み取った位置取りや準備。集団からの抜け出し方や、ほかの選手たちの力を使って自分の体力を温存する方法など、OWSの技術力を駆使して日本でも世界でも戦い抜く。

 そして、6月。ポルトガルのセチュバルで行われた世界最終予選を突破し、東京五輪出場を決めたのである。

 実は2020年2月、貴田は大会中のアクシデントで肋骨を骨折。治療に約4カ月もかかり、泳ぎ始めることができたのは6月に入ってから。もし、東京五輪が1年延期されていなければ、貴田はお台場の海を泳ぐことはなかっただろう。

 幼少期から親しんできた競泳では叶わなかった夢。それでも、諦めなかったからこそ叶った夢。貴田はレース後、苦しそうな表情を見せていたものの、どこか満足げな表情にも読み取れた。

写真:長田洋平/アフロスポーツ

 どんなに苦しくても、どんなに辛くても、いつも前を向いていた。競泳で届かなかったからといって、簡単に諦めず、自分が生きる道を見つけ、ただひたすらに邁進したからこそ、今がある。

 貴田裕美という、日本のOWSの創世記を支えたひとりの選手のチャレンジに、今は拍手を贈りたい。彼女の姿を見て、彼女の意志を継ぐあらたな選手たちがこれからも続くことを期待して。

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【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】

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スポーツライター・エディター

1980年、兵庫県生まれ。バタフライの選手として全国大会で数々の入賞、優勝を経験し、現役最高成績は日本ランキング4位、世界ランキング47位。この経験を生かして『月刊SWIM』編集部に所属し、多くの特集や連載記事、大会リポート、インタビュー記事、ハウツーDVDの作成などを手がける。2013年からフリーランスのエディター・ライターとして活動を開始。水泳の知識とアスリート経験を生かして、水泳を中心に健康や栄養などの身体をテーマに、幅広く取材・執筆を行っている。

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