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男子バレー富松崇彰が現役引退。「目標は松本さんと篠田さん。ヨネと一緒に、最後の最後まで楽しめました」

田中夕子スポーツライター、フリーライター
黒鷲旗で現役引退の富松(右)と共に戦った同期の米山(左)(写真/東レアローズ)

笑顔と涙、現役最後の黒鷲旗

 黒鷲旗全日本男女選抜バレーボール大会男子準決勝、敗れればこれが現役最後の試合になるとは微塵も感じさせず、富松崇彰は最後まで楽しそうだった。

「柳田(将洋)のパイプが、僕のほうに打ってくるのが見えたんです。これは絶対拾ってやる、と思って気合を入れたんですけど、打球が速すぎて、気づいたらもう腕に当たっていた。いてー、って思わず自分で笑っちゃいました」

 コートでも、ベンチでも常に笑顔。涙がこみ上げたのは、最後の試合を0対3で終えた直後、コート上で行われた表彰式の最中だった。隣に並ぶ同期の米山裕太の肩をたたきながら言葉をかけると、米山が泣いていた。

 同じシーンを、米山はこう振り返る。

「泣くつもりはなかったんです。でも、その前に難波(尭弘)が泣いているのが見えて、富松が『頼むな』って。そんなこと言われたら、来るでしょ。ずるいんですよ(笑)。でも、人のために泣けるっていいな、と思ったし、自然にこみ上げる。こういう感情があるんだな、と思いました」

 東レで15年、日本代表でも共にプレーした2人の、最後の試合が終わった。

北京五輪落選の悔しさを松本に吐露。「僕は応援できません」

 富松と米山が東レに入団したのは07年。先に活躍したのは富松だった。

 東海大在学時から内定選手として出場機会をつかみ、その年ブロック賞と新人賞を受賞。同年日本代表にも選出され、ワールドカップに出場した。

 翌年の北京五輪に向け「とにかくギラギラしていた」と振り返るように、自分の武器をアピールし、必ずチャンスをつかみ取る。自分のことばかりに必死だったこともあるが、もともと筋金入りの頑固者。当時のスタッフからさまざまなアドバイスを受けたが、「聞く耳を持たなかった」と笑い、唯一耳を傾けたのは2人だけだった、と振り返る。

「篠田(歩・東レアローズ監督)さんと松本(慶彦・堺ブレイザーズ)さん、2人のプレーは常に自分のお手本だったし、目指すべき目標でした。だから2人に言われることは素直に聞くけれど、とにかく自分、自分が前に出るから人の話はまぁ聞かない(笑)。こうしたい、こうしなきゃいけない、というこだわりが強すぎて、今振り返ればあの頃もっと柔軟に、いろんな話を受け入れながらちゃんとバレーボールをやっておけばよかったな、と思います」

 事実、その頑なさが仇にもなった。08年の北京五輪出場に向けた最終予選、前年のワールドカップで活躍した富松はメンバーから外れた。事実上、当時は最終予選のメンバーが五輪本大会のメンバーでもあったため、ここで外れれば五輪出場も叶わない。今でこそ、チームや監督の意図に沿わず自分の考えやこだわりばかりを貫けば外されることもわかっていたが、当時の富松はブロック力に圧倒的な自信があったことや、ワールドカップで手ごたえを得られたこともあり、抱いた正直な思いはただ1つ。

 悔しい。何で俺が外されるんだ。

 素直な思いをすべてぶつけることができたのが、当時共に日本代表でプレーし、北京五輪にも出場した松本だけだった。ユニフォームではなくジャージ姿で会場や練習に帯同し、最終予選に挑む日本代表を応援するのではなく露骨な悔しさをぶつけてきた富松の姿を、今でもはっきり覚えていると松本は言う。

「ものすごく複雑な立場なわけじゃないですか。単純に『頑張れ』とは思えないだろうし、極端に言えば負けろ、と思っても不思議じゃない。だから実際にトミーが『僕は応援できないです』と言ってくれて少しホッとしたんです。最後に(メンバーから)落選する悔しさがどれほどか。それをトミーが伝えてくれたおかげで、(五輪に出場する)自分は必死でやらないといけない、と思ったし、頑張れたんだと思います」

日本代表で共に戦った松本(右)と共に。2人のマッチアップは特別で、楽しかったと笑い合う(著者撮影)
日本代表で共に戦った松本(右)と共に。2人のマッチアップは特別で、楽しかったと笑い合う(著者撮影)

世界を相手に「俺のブロックなんかプレッシャーにもならない」

 北京五輪への出場はかなわなかったが、その後も富松は日本代表のミドルブロッカーとして活躍し、世界選手権やワールドカップにも出場した。09年からは米山も代表に選出され、東レだけでなく日本代表でも2人は活躍の場を広げ、長い時間を共に過ごしてきた。

 当時を振り返れば、二度のリーグ優勝や7位に沈みチャレンジマッチを経験したシーズンがあり、日本代表の主軸として出場を目指した12年のロンドン五輪最終予選で敗れた悔しさもよみがえる。

 今と比べると同じバレーボールでも全く違う、とお手上げのジェスチャーを交えながら、Vリーグ、そして世界で戦った日々を振り返った。

「今のレベルはすごいですよ。日本でプレーする外国人選手も、超一流選手がいる、というだけでなく、何人もいる。どう手を伸ばしても届かない位置から打たれるのも普通だし、俺のブロックなんて何のプレッシャーにもなっていないんだろうな、と思うこともあります(笑)。だからどんどん日本のバレーボールのレベルも上がっているし、僕らが若かった頃には考えられなかったような挑戦をする選手もいて、(髙橋)健太郎のようなとんでもない逸材もいる。単純にすごいな、と思うし、東京オリンピックを見ていても『俺もオリンピックに出たかった』とか、今は全く思わないんですよ。このイランに勝つのか、(ワールドカップでの)西田(有志)の連続サービスエースって何だよ、とか単純に思うだけ(笑)。僕らの頃は、海外勢と自分たちを比べた時に大人と子供どころか、バレー教室をやってもらっている相手なんじゃないか、と思うぐらいレベルが違いすぎましたから」

 年々戦術が高度になり、求められる技術も高くなる。だが、頑なだった若い頃と違って、できないことを周りに聞いたり、すごいと思う選手を観察して真似る楽しさも覚えた。ブロックのコツを聞かれても「感覚でやっている人間だから擬音でしか答えられない」と笑うが、人のプレーを見て素直にすごいと思うこと、自分もやってみようと思えることが楽しくなった、と振り返り、特に「彼は規格外」と感服する髙橋には、格別の思いを寄せる。

「あのブロックはワールドクラスです。移動のスピード、高さ、とにかくすごい。東京オリンピックを直前で外れて、健太郎自身も悔しかっただろうし、僕にはその悔しさはわかる。だから今年、自分と向き合って身体づくりからやってきた健太郎が結果を出せたのは、当たり前だよな、とも思うし、素直に嬉しいです」

 年齢を重ねる中、痛いところは増え、練習前後の準備にかける時間も長くなり、できないことも多くなったが、今だからこそできるプレーも増え、それもまた楽しい。できることなら1年でも長く現役を、と望んできたが、チーム内にミドルブロッカーも増え、その中で自身の役割を冷静に考えた時、「自分がいなくても大丈夫」と思うようになったと振り返る。

「スタートで最後まで行こうと思えば全然行けるし、やれる自信はあります。でも健太郎や李はもちろん、若いミドルも育っているし、もう自分じゃないな、と。自分が出なくても何とかできる選手たちがいるし、潮時かな、と思うようになりました」

リオ五輪最終予選にも出場。日本代表のブロックの要として長きにわたり強烈な印象を残した
リオ五輪最終予選にも出場。日本代表のブロックの要として長きにわたり強烈な印象を残した写真:アフロスポーツ

最後にムセスルキーをブロック「最高の贈り物」

 そして迎えた、現役最後の黒鷲旗。連戦が続く中、決勝トーナメントに入ってからはスタメンで出場した富松は、誰よりもコート内で楽しんでいた。

 高さやスピードはさすがに絶頂期と比べれば衰えたかもしれないが、ここぞという場面でのブロックやスパイク。サーブをネットにかけた後、あちゃー、と声が聞こえそうな苦笑いを浮かべながらベンチに下がる姿も、何度も見てきたものと同じ。

 最後の試合となった準決勝、サントリーサンバーズとの試合では、第2セットの15対18、劣勢の場面でドミトリー・ムセルスキーのスパイクもブロックして見せた。

「1本だけでも頼むから止めさせてくれ、と思っていたんです。いつもだったら触れないけど、必死に伸ばして、手を出したら止まった。ムセルスキーがそこに打ってくれたのかもしれないですけど(笑)。でも、ロシア代表といえば僕らの世代にとってはとんでもない、それこそ手も足も出ないチームで、その中心で活躍してきた選手のスパイクを、最後の試合で止められた。それだけで、最高の贈り物をいただきました」

 もう1つ、嬉しく、楽しかったのは同じコートに米山がいたことだった。

 跳びたい場所にブロックへ跳べば、たとえ抜けても「ヨネが拾ってくれるから大丈夫」と迷うこともなく、劣勢になっても「ヨネのサーブで何とかなる」と信じていた。

 そしてそれは、富松だけでなく米山も同じ。

「読みや駆け引き、決まったトスをミスなく確実に決めてくれる技術は安心感があるし、助かるなぁ、と。パスがちょっと乱れても決めてくれるし、いてくれると頼もしいし、お互い自由にできる。(富松は)そういう存在でした」

 ずっと当たり前のようにユニフォームを着続け、共に戦ってきた2人も、一緒にコートへ立つのはこれが最後。「誰にでも引退は来るものだから仕方ない」と受け止めていた米山も、自然に感情と涙がこみ上げ、その姿を見た富松も涙したが、試合を終えると直後からスッキリした、とばかりにすがすがしい表情を浮かべた。

「ヨネと最後までできて本当に楽しかったし、何より最後の最後までバレーボールは楽しかった。ヨネはこれからも頑張ってくれるし、黒鷲もヨネのおかげで準決勝まで来られた。準々決勝の前の日に、ヨネと一緒にいたら、松本さんに言われたんですよ。『ヨネもトミーもまだ中堅だな』って(笑)。実際ヨネはトレーニングもしっかりできて数値も伸びているし、まだまだもっと、すごい選手になると思いますよ」

 最後の試合を終えても未練はない。かなえられた夢もあれば、届かなかった夢もある。だが、これだけは胸を張って言える。

「頼もしい若手も増えたし、悔いはないです。引退試合であんなにバカみたいに楽しむやつなんていないじゃないですか。でもほんと、自分の信条じゃないけれど、最後の最後まで楽しむ。試合中に『いてー』と自分で笑っちゃうぐらい楽しかったし、全部、やりきりました」

 勝負所でこそ発揮するブロックや、中途半端なフェイントを叩き落す姿。華麗なプレーもあれば、速攻に入ろうと助走したら踵が滑り、そのまま相手コートにスライディングしてしまったことや、サーブを打とうとトスを上げたら躓いて打つはずのボールが頭上を越えていったこと。絶好のダイレクトスパイクチャンスに気がはやり、ジャンプが速すぎて相手コートへのダイレクトスパイクではなく、自チームのコートにフェイントを落としたこともあった。

 うならされるばかりでなく、時折くすりと笑わせてもらい、見ているだけで華があり、常に目が向く存在だった。

 来季から、その姿がコートにないことが今はまだ実感はないが、きっとその時が来たら今以上に寂しさが募るのは、想像するまでもない。

 だが、だからこそ最後は富松の信念と同様にこう言いたい。

 最後の最後までとにかく楽しかった。あのブロックもサーブも、「いてー」とのたうち回る姿も、多くの人々の記憶に深く、これからも刻まれていく。

 現役を続ける米山がどこまで進化を遂げるのか、そして富松のセカンドステージはどこへ続くのか。新たな楽しみはまだまだここからつながり、広がっていくはずだ。

多くの記録と記憶を残し、富松はユニフォームを脱ぎ、米山は来季も現役選手として高みを目指す
多くの記録と記憶を残し、富松はユニフォームを脱ぎ、米山は来季も現役選手として高みを目指す写真:YUTAKA/アフロスポーツ

スポーツライター、フリーライター

神奈川県生まれ。神奈川新聞運動部でのアルバイトを経て、月刊トレーニングジャーナル編集部勤務。2004年にフリーとなり、バレーボール、水泳、フェンシング、レスリングなど五輪競技を取材。著書に「高校バレーは頭脳が9割」(日本文化出版)。共著に「海と、がれきと、ボールと、絆」(講談社)、「青春サプリ」(ポプラ社)。「SAORI」(日本文化出版)、「夢を泳ぐ」(徳間書店)、「絆があれば何度でもやり直せる」(カンゼン)など女子アスリートの著書や、前橋育英高校硬式野球部の荒井直樹監督が記した「当たり前の積み重ねが本物になる」(カンゼン)などで構成を担当。

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