箱根駅伝は米国大陸横断駅伝の予選会だった? 「いだてん」主人公の“野望”とは

箱根駅伝の発案者は「いだてん」主人公だった。写真は第95回箱根駅伝復路8区(写真:西村尚己/アフロスポーツ)

NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)」の主人公は、箱根駅伝の発案者だったーー。

毎年1月に開催され、東京・大手町~箱根・芦ノ湖の往復10区間、217・1キロで争われる、東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)。「いだてん」の主人公・金栗四三(かなくり・しそう)が生まれ育った熊本県和水町によると、金栗が発案者の一人だったという。しかも、金栗はサンフランシスコ~ニューヨークをつなぐ「米国大陸横断駅伝」まで構想しており、その「予選会」としての位置付けであったのだ。

金栗の出身地、熊本県和水(なごみ)町の「金栗四三ミュージアム」などによると、発案のきっかけは、1917(大正6)年に開かれたレースだった。そのレースは、京都から東京までをつなぐマラソンリレー形式のもの。東海道を通るルートであったことから、「宿場(駅)を伝って走る」との意味を込めた「東海道駅伝徒歩競争」という大会名を採用。それが今日でも日本中で開催されている駅伝誕生の瞬間だった。

熊本県和水町の「金栗四三ミュージアム」(筆者撮影)
熊本県和水町の「金栗四三ミュージアム」(筆者撮影)

金栗は、このレースの企画に携わり、また選手としても参加。それから3年後、長距離ランナーの育成を目的に、仲間たちと新たな駅伝を企画することにした。それが先述の「米国大陸横断駅伝」だったというわけだ。

金栗が想定していたサンフランシスコ~ニューヨーク間は、距離数千キロに及ぶ。さらに道中にはロッキー山脈が横たわる。常識では考えられない行程だ。しかし金栗は本気だったようで、まずは国内トップクラスのランナーを選抜するための予選会の開催を思いついた。

「ロッキー山脈を越えるならば、天下の険といわれる箱根路に挑戦して、そこで鍛え、そこを越えて行った選手から選ぼう」(ミュージアム展示より抜粋)

こうして1920(大正9)年2月14~15日、早稲田大、慶応義塾大、明治大、そして金栗の母校・東京高等師範学校(現・筑波大)の4校によって「米国大陸横断駅伝」予選会にあたる「四大専門学校対抗駅伝競走」が開催されることとなった。これが記念すべき箱根駅伝の第1回大会なのだ。

14日午後1時、金栗の合図で東京・有楽町を一斉にスタート。箱根までの往路5区間をランナーがつなぎ、午後8時ごろ、明治大が1着で箱根にたどり着いた。翌15日は気温零下4度まで冷え込み、朝から大雪に。積雪10センチを超える最悪の条件の中、東京までの復路がスタートした。東京に最初に入った明治大と東京高等師範学校は、その後接戦を展開。結果は、ゴール目前で逆転した東京高等師範学校が、15時間5分16秒のタイムで優勝した。

肝心の米国大陸横断駅伝だが、実現されることはなかった。しかしランナーの安全を考えた時、むしろ実現しなくてよかったのかもしれない。

箱根駅伝では最優秀選手賞として「金栗四三杯」が贈られている。この時に贈られるカップは、金栗が1911年のストックホルム五輪の国内予選大会で獲得した優勝カップを複製したものだ(筆者撮影)
箱根駅伝では最優秀選手賞として「金栗四三杯」が贈られている。この時に贈られるカップは、金栗が1911年のストックホルム五輪の国内予選大会で獲得した優勝カップを複製したものだ(筆者撮影)

箱根駅伝では、第80回大会から最優秀選手賞として「金栗四三杯」が贈られている。この時に贈られるカップは、金栗が1911年のストックホルム五輪の国内予選大会で獲得した優勝カップを複製したものだ。マラソン界の発展を誰よりも考えていた金栗。その思いは今も受け継がれている。

和水町商工観光課の福原雅史さんは、「金栗は人が思いつかないことをやってのける人物。そして何より日本のマラソン界の発展を使命だと考えていた」と金栗の人物像について紹介。その上で「箱根駅伝が日本マラソン界の強化に繋がっているという意味では、金栗の功績は大きい。五輪で海外を見てきたこともあり、常に先を見据えていたのだろう。今の時代でも通用する一つのリーダー像だ」と金栗を評価している。