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世界唯一の母船式捕鯨「日新丸」 因島から最後の航海へ

田中謙太郎ライター
今年限りで引退する捕鯨母船日新丸(共同船舶提供)

 世界で唯一の母船式捕鯨に従事してきた、捕鯨母船日新丸(8145トン)が老朽化のため引退する。南極海などで調査捕鯨を続け、日本が2019年に商業捕鯨を再開してからも先頭に立ってきた。母港としている広島県の因島から5月23日、最後の商業捕鯨の航海に出る。同島とのつながりを紐解くと、捕鯨と造船という近代の海洋国家を象徴する産業の盛衰が見えてくる。

商業捕鯨撤退の年に生まれた日新丸

 日新丸は1987年、日立造船因島工場(現ジャパンマリンユナイテッド因島工場)で建造された。当初は遠洋トロール漁船で、名前も筑前丸といった。老朽化した前身の第三日新丸の後釜として、同工場で捕鯨母船に改造されたのは4年後のことだ。キャッチャーボートと船団を組み、南極海や北西太平洋に赴いてきた。捕らえた鯨は母船の甲板で解体し、中の工場で赤肉や内臓など部位ごとに処理・冷凍保存する仕組みだ。現在の商業捕鯨では北海道、三陸などの沖でニタリクジラやミンククジラを捕獲。鯨肉の陸揚げは下関や仙台でしているが、毎年因島のドックに戻り、設備の点検や修繕工事を受けている。

日新丸の内部で稼働する鯨肉の加工工場(共同船舶提供)
日新丸の内部で稼働する鯨肉の加工工場(共同船舶提供)

 1987年は、日本が南極海の商業捕鯨から撤退した年である。ノルウェー発祥の母船式捕鯨を日本は1934年に導入し、それまでの沿岸から漁場を一気に拡大。敗戦後は国民の食糧不足を補うため、ノルウェーや英国を追って南極海に船団を送った。各国は国際捕鯨委員会(IWC)が設けた総枠の中で捕獲競争を繰り広げ、日本は一時そのトップに立つ。しかし資源枯渇や鯨油需要の減少で撤退する国が増え、反捕鯨運動も強まった。IWCは1982年に商業捕鯨の全面的な一時停止を採択。鯨肉が大衆化していた日本は反対したが、最終的には調査捕鯨を維持しつつ従った。

「島が沈む」と言われた造船不況

 同じ年、因島もまた別の撤退に揺れていた。日立造船が因島工場の新造船事業を廃止したのだ。三菱重工業、三井造船などと共に戦後の日本を世界一の造船大国へ押し上げた同社は、因島を主力生産拠点としてきた。繁栄の一方、島は日立依存を深めていった。しかしオイルショック後の造船不況や新興国の台頭で基盤は一気に崩れる。日立造船は経営危機に陥り、プラザ合意後の急激な円高が追い打ちをかけた。工場の大幅な縮小により、約3300人の従業員は関連会社への転籍や希望退職などで9割減らされる。まさに「島が沈む」危機だった。

日立造船を引き継いだジャパンマリンユナイテッド因島工場。自衛隊艦の修繕などを手掛ける(筆者撮影)
日立造船を引き継いだジャパンマリンユナイテッド因島工場。自衛隊艦の修繕などを手掛ける(筆者撮影)

 トロール漁船は、バラバラになった造船マンたちが心に傷を負いながら、完成させた最後の新造船だった。バブル景気へ突き進む世間の陰に隠れた二つの「撤退」。グローバル化や脱工業化という時間的な流れ、そして国際関係の空間的なせめぎ合いの中で、海洋国家は変容を迫られていた。ただ、せめぎ合いが新たな結びつきを生み出すこともある。遠洋漁業に打撃を与えた200海里水域の問題などでトロール漁船が余剰となり、修繕部門が残った因島工場は改造工事を得意としていたことで、因島を母港とする捕鯨母船が生まれた。

捕鯨継続の危機を救った島の造船マン

 日新丸と因島のつながりについて、もう一つ重要な出来事がある。1998年11月に南太平洋で発生した、同船の火災事故だ。調査捕鯨へ向かう途中の事態で、船は9日間燃え続けた。爆発、沈没を防ぎ、曳航されたニューカレドニアには、因島工場の電気班員たちが応急修理に飛んだ。その一人だった柏原栄三さん(74)は、黒焦げの船内に呆然とした。鯨肉を運ぶコンベヤーも冷凍設備も稼働しなかった。「エンジンと舵を繋ぐ電線が駄目になって、航行ができん。必死で仮配線をしたよ」。突貫工事の結果、日新丸は自力航行で12月20日に因島のドックに戻った。鯨肉の処理設備の電気系統は、修理に通常1か月以上かかる。だが船と乗組員を保有する共同船舶は、2週間での再出港にこだわった。調査を一度中断すると資金調達が行き詰まり、捕鯨自体を続けられなくなる事情があったとされる。

 正月返上、夜通しで焼けた電線を交換する途方もない復旧作業で、奇跡的に処理設備は回復した。日新丸は翌年の1月5日に南極海へ向け再出港。柏原さんは同僚とトラブルに備えて乗り込み、調査捕鯨の成功を見届けた。氷山が浮かぶ海が広がり、捕獲されたミンククジラが甲板に次々と運ばれる。柏原さんは「因島で生まれた船が世界の端まで来て…。感動したわね」と振り返る。多くの同僚が関連会社へ移る一方、自分だけ日立造船に残ったことには複雑な思いがあったという。だからこそ日新丸を救った経験は、造船マンの誇りを再認識するものでもあった。

柏原さんが撮影した調査捕鯨の様子(本人提供)
柏原さんが撮影した調査捕鯨の様子(本人提供)

 日本はIWCを脱退し約30年ぶりに商業捕鯨を再開したが、鯨肉の消費量は大きく落ち込み、捕鯨業者は苦しい状態にある。共同船舶によると、日新丸の後継船は下関の造船所で建造中で、来年3月に竣工予定という。水産基地として栄えた下関は、町ぐるみで捕鯨の再興を図っている。造船をなお基幹産業とする因島も、衰退のなか行く末を模索している。鯨の乱獲や企業城下町の依存体質を考えれば、過去の繁栄を手放しで評価することはできない。他方で、そこに根を張ってきた人々の存在を忘れてはならない。

 日新丸は23日午前にジャパンマリンユナイテッド因島工場を出港し、11月まで商業捕鯨にあたる。共同船舶は「もう一度因島に戻るかは未定」としている。

<参考文献・サイト>

小島敏男(2003)『調査捕鯨母船 日新丸よみがえる 火災から生還、南極海へ』成山堂書店

中園成生(2019)『日本捕鯨史【概説】』古小烏舎

因島市編(1988)『日立造船(株)因島工場合理化に伴う市への影響』

日立造船株式会社編(1985)『日立造船百年史』

日立造船労働組合編(1989)『日立造船労働組合十年史』

日本捕鯨協会(http://whaling.jp/)

共同船舶(https://www.kyodo-senpaku.co.jp/index.php)

読売新聞オンライン 2022年6月28日 商業捕鯨再開3年「支援なければ産業維持できず」…すしやラーメン、新たな食べ方提案も(https://www.yomiuri.co.jp/national/20220627-OYT1T50284/)

※5月20日13時20分、見出しとリードの一部を修正。同日18時44分、第2段落を一部修正

ライター

1993年長崎県生まれ。2016年から23年まで広島県の中国新聞社記者。尾道支局で観光や地域文化、本社で医療の取材をする。現在は大学院で地理学を学びながら、ライター活動もしている。新聞社在籍時代から、人々の声から町の歴史や変化を辿るリトルプレス『雑居雑感』を執筆・制作している。

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