ナイスネイチャのグッズ製作に情熱を注いだある男の貢献/ウマ娘にもなった1991年夏の上がり馬
夏の上がり馬だったナイスネイチャ
いまではJRAの賞金体系も変わった影響もあり、以前ほど夏に条件戦から勝ち上がり重賞を勝ち、秋のGI戦線に名乗りを上げる馬はみられなくなった。しかし、人気ゲーム「ウマ娘 プリティーダービー」にモチーフとして取り上げられている馬たちには、かつて"夏の上がり馬"と評された馬たちがいる。ナイスネイチャ、メジロマックイーンらがそうだ。
ナイスネイチャは1991年7月28日、小倉の500万下特別(いまの1勝クラス)である不知火特別を勝ち、10月の京都新聞杯まで重賞2勝を含めて4連勝。一気にスターダムに躍り出た。夏の終わり、この時期のナイスネイチャには秋への夢と希望が山盛り託されていた。当時のナイスネイチャの脚色は凄く切れ味があり、"豪脚"という言葉がぴったりだった。当時の陣営のコメントを振り返っても「(夏に行われる)小倉記念を勝ち、秋にめどが立った。これからが楽しみだ」(ナイスネイチャを管理する松永善晴調教師)というものにあふれていた。
結局、ナイスネイチャはGIを獲ることはなかった。"豪脚"は何故かジリっぽくなり、"3着"が指定席と言われるブロンズコレクターになったのは周知のとおり。
当時の取材メモを読み返すと陣営の「次はなんとかしたい」といった言葉が並ぶ。能力が高くなければ3着を繰り返すことなど出来ない。もどかしさを抱えたまま、9歳(現8歳)まで41戦をこなし、ターフを去った。
ナイスネイチャのグッズ製作に情熱を注いだ担当者
そんなナイスネイチャを担当していた厩務員は馬場秀輝さんという方だった。
この方、実に変わっていた。当時は関東に住んでいた筆者は栗東を訪れるたびに馬場さんに取材をしていたが、馬場さんは馬の話と同じくらいグッズの話をするのだ。筆者が聞きたかったのは当然ながらナイスネイチャの特徴だったり調整具合なのだが、馬場さんのトークの熱量は馬の状態と同じくらいグッズ製作に向けられていた。
「こんど〇〇をつくることになった」
「馬主さんにお願いして△△をつくった」
など。当時グッズ製作といえば、トレセン関係者のうちわ向けに調教中に使えるジャンパーやキャップ、またはテレフォンカードを作るのが主流であり、ファン向けのものを厩舎で作ることなどほぼなかった。(というか、今も厩舎がファン向けのグッズを製作するのは珍しい。)
しかし、馬場さんの"夢"は大きかった。
とにかく「ナイスネイチャがたくさんのファンに愛されるべきだ」というのが信条。そこで、当時流行していた馬のぬいぐるみに目をつけた。
当時はオグリキャップの登場により、馬のぬいぐるみが製作され一般販売され始めた時期だったが、製品化されるのはGI優勝馬ばかりだった。そこで馬場さんはGIを勝っていないナイスネイチャのぬいぐるみが出来るよう、自らぬいぐるみの製作会社に働きかけていたのだ。筆者はその話を聞いたとき「こんなことを考える人がいるんだ」とかなり驚いた。
トレセン関係者にはファンサービスを大事にするべき、という方はとても多い。しかし、ここまでグッズ製作にこだわり続けた人は見たことがない。おそらく、後にも先にも馬場さんを超える情熱でグッズ製作を訴える人は出てこないのではないか、というほどだ。
そんな猛烈な馬場さんの情熱の成果を栗東に行くたびに聞くのが筆者の恒例行事になっていたのだが…。馬場さんの情熱は突然消えた。1998年、ナイスネイチャが引退してから約2年後、自動車事故で帰らぬ人になったのだ。
いま、世間でこれだけナイスネイチャが愛されている光景を見せてあげたい
あれから時が20年以上過ぎた。
馬場さんはかなりの変わり者だったが、あの積極的な働きかけがあったからこそ、ナイスネイチャは今もなお人気がある。ウマ娘にも選ばれた。
"時代の先を行き過ぎていた"馬場さんだったが、こんなかたちで馬場さんの情熱が具現化するとは!
25年前、松永善晴厩舎でナイスネイチャの寝ワラを干すためにハナ前でワラを広げる手を時に休めながら、コンコンとグッズへの夢を話していた馬場さん。あの頃、21世紀のいま、ナイスネイチャが世間を騒がせるヒロインになるとは夢にも思わなかった。
いま、ナイスネイチャが世の中の多くの人に愛されているこの光景を、馬場さんに見せてあげたい。