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高校野球のマネージャーからドラフト候補になった男。引退後もボートレーサー、騎手…終わらない挑戦【前】

高木遊スポーツライター
ドラフト候補に挙がった大商大時代の小屋裕(本人提供)

「人生は挑戦の連続」とはよく言われることだが、それを体現している男がいる。

 かつて身長162cmながらプロ野球のドラフト候補にも挙がったことのある小屋裕(こや・ゆたか/27歳)だ。

 神戸国際大附高、大阪商業大(以下、大商大)と関西の名門校で左投手として活躍し、パナソニックでも社会人野球最高峰の舞台である都市対抗のマウンドにも登った。そしてそこから安定の道を捨て、ボートレーサー(競艇)、ジョッキー(競馬)を目指すなど波乱万丈。

 挑戦をやめない男は、どんなことを考えながら、次々と荒波を越え、さらなる目的地を目指しているのか。

★中学時代は4番手

 1994年6月14日生まれ。兵庫県加古川市出身の小屋は物心ついた時には既に左手にボールを握り、右手にはグラブをはめていた。競技経験は無いが独学で野球を学んでいた父が当時阪神で活躍していた井川慶を見習って教えたものだった。ちなみに野球以外はすべて右利きということからも、父の狂気に近い子供に対する熱気が伝わってくることだろう。父が会社から帰ってくると、まずは野球だった。母とも毎日キャッチボールをした。

 そんな家庭に育った小屋だが体は思うように大きくならなかった。中学時代はヤングリーグ(全日本少年硬式野球連盟)のオール播磨でプレーしていたが「球は塁間も届かないほどで一番下手くそでした」と振り返るほど。父の方針もあり投手は継続し「仲間に恵まれて楽しかった」と話すが、チームの4番手投手で公式戦では活躍できなかった。

 高校はチーム関係者の紹介で神戸国際大附へ進学したが他の選手とのレベル差にがく然とした。

「完全に来るところを間違えたと思いました。体も大人と子供くらい差がありました」

 さらに打撃投手を務め、多くの球を投げ込んでいたところ左肘を骨折。青木尚龍監督からマネージャー転身を言い渡された。

★両親に「辞めたい」と相談

 故障が治ってからもマネージャーのままだったが選手への未練が断ち切れることは無く、苦悩した。

「マネージャーの仕事自体には慣れていったので、選手に戻りたいと思わなければ楽だったと思います。でも野球が好き。投げたい。その気持ちが捨てられませんでした」

 青木監督に復帰を直訴したこともあったが「今の実力でどうやって試合に出られんねん」と単刀直入に言われると返す言葉が無かった。私学で特待生でも無かったため中途半端な気持ちのままでは申し訳なく、両親に「辞めたい」と相談したこともあった。だが「こんなことで辞めていたら何をしてもすぐ辞めてしまう。続けることに意味がある」と諭されてなんとか踏みとどまった。

 続けたのは野球部員であることだけではない。投手としての復帰も目指し続けた。補助に徹した全体練習が終わると、小屋はネットに向けてボールを投げ続けた。

「バッピ(打撃投手)で、誰にも打たれんかったら、監督も投手として使いたくなるはずや」

 そう自分に言い聞かせた。頭の中で打者の姿を思い描いた。「こうされたらバッターは嫌やろうな」と相手が嫌がる投球も心がけた。

 時間はかかったが「行きは始発、帰りは終電」という毎日を経てついにそのイメージは具現化された。打撃練習で打たれなくなると、紅白戦に登板。そこでも好投すると練習試合に登板と徐々にステップアップしていき、ついには春の兵庫県大会の背番号「10」を掴み取った。父は声を上げて喜び、母は涙を流してくれた。

★ドラフト候補にまで成長

 春の大会で登板機会は無かったが、最後の夏は要所を任された。5試合のうち3試合にリリーフで登板し、14回3分の2を11安打4失点に抑える力投。最後の試合となった準々決勝にいたっては練習試合を含めても最長となる7イニングを投げた。

「とにかく楽しかったです。やっと高校野球を楽しめて、野球が好きな気持ちだけで抑えられました」と振り返る。甲子園に行けなかったことはもちろん悔しかったが「3年間よくやれたな」と誇らしかった。

神戸国際大附高ではマネージャーから這い上がり要所を任されるまでになった小屋裕(本人提供)
神戸国際大附高ではマネージャーから這い上がり要所を任されるまでになった小屋裕(本人提供)

 公式戦での好投もあり、愛知の大学から特待生の誘いもあったが、青木監督から「お前は厳しいところに行かなあかん」と言われた。勧められたのは「関西イチ、日本でも屈指の厳しさ」と称される大商大。一度マネージャーになって青木監督とも近い存在で接していたからこそ「自分のことをよく知ってくれている」と信頼を置く恩師の助言を素直に聞き入れた。大商大のセレクションでも兵庫大会から続く好調を維持して好投。合格を勝ち取った。

 厳しさは評判通りだった。練習量というよりその緊張感が凄まじかった。

「1日中、緊迫した雰囲気で、できない奴は帰される。そんな雰囲気でした。でも富山陽一監督の男気に触れて、この人について行ったら間違いないと思いました」

 3学年上に近藤大亮(現オリックス)、2学年上に金子丈(現中日スコアラー)、1学年上に岡田明丈(現広島)がいる錚々たる投手陣の中でも大学1年生から登板することができた。

 だが、「高校の時ほど練習していなくて天狗になっていたと思います」と振り返る。それを見抜いていたのが富山監督だ。

 当たり前にベンチに入れると思っていた明治神宮大会を控えたある練習日。「この打者と3打席対戦して、1本でも打たれたらベンチ外や」と急に言われ、ベンチ入りを目指していた野手との対戦を命じられた。

 全部員に見守られる中で、あえなく内野安打を打たれた。すると本当に明治神宮大会はベンチ外になり、その野手がベンチ入り。自身初の全国大会出場が目の前で一瞬にして消えた。

 悔しさに加え、この時に捕手を務めてくれた3学年上の桂依央利(現中日)に「すまん・・・」と謝られ、「練習不足が表れただけで、桂さんは何も悪くないのに」と申し訳なさを覚え、目が覚めた。

「それからメチャクチャ練習しました。桂さんの一言で努力の大切さを再認識して、俺は這い上がってナンボなんやと思いました。そうでないとタダの小さなピッチャーなんで」

 こうして目の色を変えて練習に励んでいくと、ドラフト候補左腕として注目されるまでになった。球速が145キロまで上がったことも大きいが、「投手の仕事は相手打者を抑えること」と常に意識し、相手が嫌がる投げ方や球持ち、キレや間を考えていく中で自然と球速が上がっていったのだという。

 4年時のリーグ戦は先発・中継ぎ・抑えとフル回転だったが、春は優勝決定プレーオフで敗れ、秋はリーグ優勝を果たしたものの関西選手権で敗れて全国大会出場はならず。大粒の涙を流すことになった。

 またプロからの評価も上がりきらず育成選手としての誘いしかなかった。富山監督からも「社会人で力をつけて評価と順位を上げてからプロに行け」と言われ、「まだプロに行ける実力ではない」と自覚していた小屋は社会人野球でプレーすることを決めた。

 進んだのは強豪であり日本有数の大企業であるパナソニック。そこでもプロを目指して励んでいくが、だんだんとある思いが湧いてきた・・・(後編に続く)。

スポーツライター

1988年10月19日生まれ、東京都出身。幼い頃から様々なスポーツ観戦に勤しみ、東洋大学社会学部卒業後、ライター活動を開始。大学野球を中心に、中学野球、高校野球などのアマチュア野球を主に取材。スポーツナビ、BASEBALL GATE、webスポルティーバ、『野球太郎』『中学野球太郎』『ホームラン』、文春野球コラム、侍ジャパンオフィシャルサイトなどに寄稿している。書籍『ライバル 高校野球 切磋琢磨する名将の戦術と指導論』では茨城編(常総学院×霞ヶ浦×明秀日立…佐々木力×高橋祐二×金沢成奉)を担当。趣味は取材先近くの美味しいものを食べること(特にラーメン)。

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