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年金受給の70歳への繰り下げは有利だが、75歳への繰り下げは意味がない

橘玲作家
(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

昨年12月19日に公表された「全世代型社会保障検討会議中間報告」で、安倍政権は「生涯現役で活躍できる社会」を掲げた。それを報じた日経新聞(12月20日「生涯現役 政策で後押し」)によると、政府が国民に求める老後の人生設計は次のようなものだ。

「60歳で定年を迎えた後は70歳まで嘱託などの契約社員として働く。退職した後の5年間は個人型の確定拠出年金(イデコ)といった私的年金を取り崩して、生活費を補填する。75歳から公的年金の受け取りを始めれば、1カ月の年金額は基準額から84%多くなり、安心した老後を送ることができる」

年金は原則65歳からの支給だが、60歳に繰り上げて受給することもできるし、70歳まで繰り下げることもできる。今回の中間報告では繰り下げできる年齢を75歳まで延ばすことが既定路線になった。

だが私は、年金受給の70歳への繰り下げは有利だが75歳への繰り下げは意味がなく、「年金が84%増える」との報道はミスリードだと考えている。以下、そのことを説明してみたい。

70歳で受給しても75歳に繰り下げても、生涯に受け取る年金総額は同じ

現行のルールでは、受給開始を65歳より繰り上げると1カ月あたり0.5%ずつ減り、繰り下げると0.7%ずつ増える。その結果、60歳で受給すると(65歳の)基準額から3割減り、70歳まで繰り下げれば42%増える。これをそのまま75歳まで延長すれば、今回の提言のように年金受給額は84%増えることになる。

具体的な金額があった方がわかりやすいので、65歳の男性が厚生年金を受給するときの平均月額16万5668円(2018年)で試算してみよう。年金受給を60歳に繰り上げると受給額は月額11万5968円に減り、70歳に繰り下げると月額23万5249円に、75歳なら月額30万4829円に増える。60歳への繰り上げに対して、70歳への繰り下げで受給額は約2倍、75歳に繰り下げれば2.6倍だ。

だがこれだけでは、どの受け取り方が有利かを決めることはできない。年金を繰り上げれば受給できる期間は延び、繰り下げればもらえる期間は減る。それを考慮して有利/不利を考えるもっともシンプルな方法が、「生涯で受け取ると期待できる年金の総額(以下、「期待額」とする)」を比較することだ。

簡易生命表(2017)によれば、男性の平均余命は60歳で23.72年、65歳で19.57年、70歳で15.73年、75歳で12.18年だ(女性はこれより3~5年長生きする)。それぞれの年齢の「期待額(生涯受給総額)」を計算すると以下のようになる。

60歳 3300万9018円(平均余命23.72年/受給額11万5968円)

65歳 3890万5473円(19.57年/16万5668円)

70歳 4440万5518円(15.73年/23万5249円)

75歳 4455万3824円(12.18年/30万4829円)

 ここからわかるように、年金の「期待額」は60歳への繰り上げで約3300万円、70歳への繰り下げで約4440万円と1100万円もちがう。どのような理屈でもこれほどの金額の差を正当化することはできないから、年金受給の60歳への繰り上げは圧倒的に不利で、70歳への繰り下げは圧倒的に有利だ。すなわち、「年金は繰り上げた方が得」との俗説は間違っている。

国もこの「繰り上げ差別」に気づいていることは、今回の中間報告で繰り上げの減額率を0.5%から0.4%に引き下げるよう提言していることからも明らかだ。これによって60歳に繰り上げたときの受給額は12万5908円に、「期待額」は約3580万円に増え、70歳に繰り下げたときとの「年金格差」は860万円に縮小することになる。

もうひとつ、さらに重要なのは、75歳に年金を繰り下げたときの「期待額」が約4455万円と、70歳への繰り下げ(約4440万円)とほとんど変わらないことだ。70歳から受給しても75歳に繰り下げても、平均余命を考慮すれば、生涯で受け取る年金の総額はほぼ同じになる。だとすれば、誰が考えても70歳から受給した方が得で、75歳への繰り下げはなんの意味もない。

今回の中間報告で提案された(年金が84%増えるという)75歳への繰り下げは、受給者にとってなにひとつ有利なことはない。メディアもこの「設計ミス」を無視して75歳への繰り下げを勧めているようでは、年金受給者の利益を毀損することにしかならないだろう。

欠陥のある仕組みになったのはなぜか?

なぜこのような「設計ミス」が起きるのか。それは、年齢が高くなるにつれて平均余命が指数関数的に短くなっていくことを考慮していないからだ。当然、それに合わせて年金繰り下げの加算率を引き上げなければならないが、中間報告では、加算率を70歳までと同じ0.7%に据え置いている。そのため、75歳に繰り下げたときの(70歳受給と比較した)実効利回りが下がって、どちらのもらい方でも生涯に受け取る総額が同じになってしまったのだ。

75歳への受給繰り下げに(65歳から70歳への繰り下げと)同じプレミアムをつけるなら、受給額は84%増ではなく、100%増(倍)の月額33万4000円程度にしなければならない。

当然、厚労省の担当者はこのことに気づいているだろうが(いくらなんでも気づいてないとは思いたくない)、75歳への繰り下げで加算率をさらに引き上げると、「年金をもらわなくても生活できる富裕層を特別扱いするのか」との批判を浴びると考えて据え置いたのではないだろうか。

75歳への繰り下げで加算率を引き上げるのは、そのぶんだけ平均余命が短くなるからで、どこにも不正なことはない。だが年金の繰り上げ(減額)と繰り下げ(加算)の根拠をこれまで明らかにしてこなかったことで説明がつかなくなり、欠陥のある仕組みのまま公表することになったのだろう。

年金の繰り上げや繰り下げは受給者の権利なのだから、本来であれば、そのときどきの金利に連動するかたちで、何歳から受け取っても損も得もないように調整すべきだ(金利が下がれば減額率/加算率を引き下げ、金利が上がれば逆に引き上げる)。だがそうなると、将来受け取る年金額を把握しづらくなり、混乱を招くと考えて、減額率/加算率を固定したことは理解できる。しかしこのような窮屈な設計では、今回のように受給者がさらに混乱するような事態を招いてしまう。

「年金受給を75歳まで繰り下げられるが70歳で受け取った方が得だ」などという仕組みは、そもそも金融商品の体をなしていない。厚労省は、加算率をさらに引き上げることは富裕層への優遇ではなく、たんなる平均余命の調整であることを国民に丁寧に説明したうえで、最終案では70歳以降の加算率を月0.85%程度まで引き上げるべきだ。

そのうえで長期的には、年金の繰り上げや繰り下げについて、ファイナンスの専門家を交えてより公正で透明なルールをつくることが求められているのではないだろうか。

75歳への繰り下げの実効利回りはゼロ

ここまで述べたように、今回の中間報告を受けての私の結論は、「働きながら70歳まで年金受給を繰り下げるのは有利だが、それ以降は年金を繰り下げる理由はなく、働いているかどうかにかかわらず70歳から受給すればいい」ということになる。

以下、ファイナンス理論からもその理由を説明しておきたい。結論はすでに書いたので、興味のある方はお読みいただきたい。

毎年10万円を10年間受け取れば総額100万円になる。これは、10年後にまとめて100万円受け取るのと同じだろうか? もちろんそんなことはない。総額が変わらないのなら、できるだけ早くもらった方がいいに決まっている。

ファイナンス理論では、手元にあるお金は運用することで増えていくと考える。仮に預金金利を5%とすると、早めにもらった10万円を銀行に預けるだけで、10年後の積み立て総額は約160万円になるはずだ。そう考えれば、10年後にまとめてもらうお金がこれより少なければ損で、多ければ得だということになる。

次に、「どの年齢でも生涯に受け取る年金の総額が同じになる金額(以下、「理論値」)」を考えてみよう。

65歳で厚生年金(約16万6000円)を受給開始した男性は、20年弱の平均余命のあいだに総額3890万円の年金を受け取ることになる。ここから繰り上げ/繰り下げ受給の「理論値」を計算し、実額(現在の年金受給額)と比較してみると、60歳からの繰り上げ受給は「理論値」が月額約13万7000円(実額11万5968円)、70歳まで繰り下げると約20万6000円(同23万5249円)、75歳なら約26万6000円(同30万4829円)になる。

このように、繰り上げ/繰り下げの「理論値」と実額は大きく異なる。繰り上げ受給にはペナルティ(罰則)が課せられ、繰り下げ受給はプレミアム(報償)を得ているからだが、その理由は先に述べたように金利を考慮しなければならないからだ。

年金の繰り上げと繰り下げでどのように金利が設定されているのだろうか。これを知るには、EXCELで実効利回りを計算してみればいい。

そうすると、60歳への繰り上げは、65歳からの受給に比べて、年1.4%のペナルティを課せられていることがわかる。これは60歳から受け取りはじめた年金を年利1.4%の定期預金に(平均余命の)23.72年間預けると、65歳受給の「期待額」である3890万円と総受給額が同じになるという意味だ。ちなみに、繰り上げの減額率が0.5%から0.4%に引き下げられると、ペナルティの実効利回りは0.7%と半分になる。

同様に、60歳の繰り上げ受給と70歳の繰り下げ受給を比較すると、(繰り上げのペナルティと繰り下げのプレミアムを合わせて)実効利回りは2.5%になる。60歳で繰り上げ受給したひとが、70歳への繰り下げ受給と「期待額」を同じにしようと思えば、受け取った年金を年利2.5%の定期預金に預けなくてはならない(この実効利回りも、0.4%への減額率引き下げで1.8%に縮まる)。

ところが、60歳への繰り上げ受給と75歳の繰り下げ受給を比較しても、実効利回りは2.5%のままだ。70歳で受給しても75歳に繰り下げても「期待額」は変わらないのだから、当然のことながら、実効利回りも同じになるのだ。

ここからわかるように、繰り上げと繰り下げのどちらが有利かは市中金利(国債利回り)によって変わる。金利が高ければ、そのぶん有利な運用ができるのだから、お金はできるだけ早くもらったほうがいい(繰り上げが有利)。それに対して現在のような超低金利(ゼロ金利)では、実効利回りで年2.5%のプレミアムはきわめて有利になるから、できるだけ長く国に運用してもらったほうがいい(繰り下げが有利)。――繰り上げと繰り下げの優劣は絶対的なものではなく、将来、金利が2%を超えて上がるようなことになれば年金の繰り上げ受給が有利になる。

ここで、「年利1.4%とか年利2.5%ではたいしたことないではないか」と思うかもしれないが、年金の繰り下げは国が元本と利息を保証している(円建てでは)「無リスク」の運用だ。現在のゼロ金利では、これほど有利な運用をしてくれる金融商品は原理的に存在しない。無リスクの国債を上回る運用をしようと思えばなんらかのリスクをとらなくてはならないが、そのリスクを国が負ってくれているのだ。

現行のルール(繰り上げは月0.5%のペナルティ、繰り下げは月0.7%のプレミアム)は、おそらくは当時の市中金利を参考にして、いつ年金をもらっても損も得もないようにしたのだろう。それが想定外のゼロ金利が長期化したことで、70歳までの繰り下げ受給が圧倒的に有利になったのだ。

ところが、高齢になると平均余命が指数関数的に短くなっていく。その結果、繰り下げのプレミアムを固定したままだと、実効利回りが年齢とともに下がって最後はマイナスになってしまう。70歳以降の繰り下げではこうした事態が起きているのだ。

利回りゼロなら、10年間毎年10万円ずつもらうのと、10年後にまとめて100万円もらうのを比較するのと同じことだ。どちらがいいかは子どもでもわかるだろう。このように実効利回りで考えても、「年金受給の70歳への繰り下げは有利だが、75歳への繰り下げは意味がない」ことになる。

最後に付け加えておくと、ここまで述べたように、ファイナンス理論では繰り上げ受給した年金を運用すると考えるが、実際にはほとんどのひとが生活費などにあてているだろう。それを考えれば、働きながら年金を繰り下げたひとと、繰り上げ受給で年金を使ってしまったひととの差はずっと大きくなる。

60歳で繰り上げ受給したひとが70歳以降に受け取る年金の総額は約2200万円で、70歳で繰り下げ受給したひとが受け取る総額4400万円とは2200万円もの差がある。現実には、これが繰り上げ/繰り下げの「経済格差」ということになるだろう。

作家

作家。1959年生まれ。2002年、国際金融小説『マネーロンダリング』でデビュー。最新刊は『言ってはいけない』。

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