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日本の「自己責任」はどこがおかしいのか?

橘玲作家
(写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ)

シリアの武装組織に拘束されていたジャーナリストが解放されたことで、日本ではまた喧々囂々の「自己責任論」が噴出しています。そのほとんどは「世間に迷惑をかけたからけしからん」というものですが、この主張は世界標準(グローバルスタンダード)のリベラリズムからかけ離れています。

ジャーナリストは無鉄砲な行動で家族に迷惑をかけたかもしれませんが、「世間」がどのような負担を強いられたかは証明されていません。事件の解決にあたった外務省などの担当者が迷惑したというのかもしれませんが、市民・国民のために働くのが彼ら/彼女たちの職責で、それ以前に公務員が「世間」を代表しているわけではありません。

自己責任論者は、「権利と責任はセットだ」と主張します。これはもちろん間違いではなく、近代的な市民社会は、「自らの行為に責任を負うことができる者だけが完全な人権を持つ」という原則によって成り立っています。だからこそ、責任能力が限定された子どもや精神病者は処罰を軽減され、その代わりに親や病院の管理下に入るなど自由を制限されるのです。

こうした権利と責任の関係を「欺瞞だ」とする意見は当然あるでしょう。しかしその場合は、この虚構(共同幻想)を否定して、どのようなルールで社会を運営していくのかを提示する説明責任を負っています。

リベラルな社会では、自己責任を前提として、「すべてのひとが生まれ持った可能性を最大限発揮できるべきだ」と考えます。「誰もが自由に生きられる」ことに反対するひとはいないでしょうが、これを徹底すると「売春で生活するのも、ドラッグを楽しむのも、安楽死で人生を終わらせるのも本人の自由な選択」ということになります。北欧やオランダのような自由主義的な社会はどんどんこういう方向に進んでおり、ジャーナリストが自らの意思で危険な地域に取材に行くことを批判するなど考えられません。

もちろん、その選択で失敗することもあるでしょう。その場合、自己責任はどうなるかというと、「本人が助けを求めているのであれば、社会は(一定の範囲で)支援する義務がある」となります。これを逆にいうと、「ドラッグの快楽を本人が求めているなら、破滅しようがどうしようが放っておけばいい」ということです。これが、ヨーロッパのリベラルな社会に私たちが感じる「冷たさ」の理由でしょう。

リベラルな国家がテロリストに拘束されたジャーナリストの救援に尽力するのは当然ですが、しかしここには別のルールもあって、身代金目当ての誘拐を助長しないために、金銭を支払うことは認められていません。

犯人の要求に応えることができないとなると、自国民を救出するには、特殊部隊を送り込んで奪還するしかありません。しかし日本は国外での武力行使を憲法で禁じられていますから、首相が「日本人には指一本触れさせない」と豪語しても、実際にはできることはなにもないのです。

それにもかかわらず今回は、外国政府が身代金を肩代わりしてくれたことで、自国民を救出できました。だとしたら、この僥倖を素直に喜べばいいのではないでしょうか。

『週刊プレイボーイ』2018年11月12日発売号 禁・無断転載

作家

作家。1959年生まれ。2002年、国際金融小説『マネーロンダリング』でデビュー。最新刊は『言ってはいけない』。

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