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「控訴取り下げには両親も反対した」相模原事件・植松聖死刑囚が面会室で語った

篠田博之月刊『創』編集長
植松死刑囚のいる横浜拘置支所(筆者撮影)

 2020年4月1日、相模原障害者殺傷事件の植松聖死刑囚に接見した。既に3月31日に死刑は確定しているのだが、死刑確定者の処遇に移る事務手続きにある程度日数を要するため、その間は接見が可能なのだ。恐らく次の週末か週明けには接見禁止になるのではないだろうか。

裁判は終わっても事件については考える必要がある

 なぜ私が連日のように接見しているかといえば、これで相模原事件が終わって一気に風化してしまう怖れがあるので、死刑が確定しても何とか植松死刑囚と連絡をとれるような態勢を作れないかと思っているからだ。

 私のところには事件に関心を持っていた障害者問題や福祉関係の方からいろいろ連絡があるが、一様に言うのが「裁判は終わってもこれで議論や検証を終わらせてしまってはいけない。大事なのはこれからだ」ということだ。

 まさにその通りなのだが、それは簡単なことではない。何よりも植松死刑囚が接見禁止になり、世の中から消えてしまうことの意味は大きい。マスコミももう報道の素材がなくなってしまうから、一気に報道は少なくなるだろう。

 まだ事件の解明がなされていない面は大きく、その解明のためにも植松死刑囚と社会の接点は何とかして残せないかと思う。彼はもう死刑を受け入れることは決めてしまっており、それを覆すのはかなり困難だ。でも判決後の会見でも、関係者が「死刑台に行くまで自分の犯したことと向き合ってほしい」と述べていたが、それを担保するのは社会と接点があることだという気がする。

 この間、多くの人が控訴取り下げに反対したが、それは別に植松死刑囚の延命ということでなく、これで事件に幕が引かれてしまうことを危惧したためだ。

  3月31日、日本障害者協議会が声明を発表した。下記をぜひご覧いただきたいが、裁判では「真相が何一つ解明されなかった」という強い言葉だ。私はこの3年間、障害者の問題に関わってきた様々な団体や個人と関わったが、この日本障害者協議会の藤井代表にも多くの示唆をいただいた。この声明を改めて肝に銘じたいと思う。

http://www.jdnet.gr.jp/opinion/2019/200331.html

声明 津久井やまゆり園裁判員裁判の終結にあたって

「両親は取り下げに反対した」

 今回の接見で植松死刑囚は「親は二人とも取り下げに反対していた」と語った。判決後、親はまだ接見に来ていないが、手紙のやりとりは行ったという。親が取り下げに反対だというのは、もちろん基本的にはどんな犯罪を犯そうと家族としては当然の感情だろう。でもいろいろなことを考えて複雑な思いであるに違いないとも思う。

 死刑囚の場合、刑が確定すると家族が縁を切ってしまうケースもあるのだが、彼の両親は、少なくとも家族として、いまだに胸を引き裂かれるような思いにかられているに違いない。

 今回の事件に接して、植松死刑囚の家族環境に問題があったのではないかと考えた人は多いのだが、法廷に出された証拠を見ても、また先日、植松家と家族ぐるみでつきあっていたという近所の友人に話を聞いても、植松家はごく普通の仲の良い親子だったらしい。父親は図工の教師、母親はマンガ家だが、植松死刑囚はその夫婦に生まれた一人息子だ。

 私は幼女連続殺害事件の宮崎勤死刑囚(既に執行)とは彼が処刑されるまで12年間つきあったが、死刑執行の後にわざわざ母親から「長い間息子がお世話になりました」と電話がかかってきた。宮崎死刑囚の場合、父親は事件を苦にして自殺。その後母親は、定期的に息子に接見して、親としての責任を果たそうとしてきたのだった。息子によって自分の半生をずたずたにされてしまったわけだが、その息子のために、世話になった相手にお礼の電話をするという気遣いを示したのだった。

「取り下げをやめようかと思ったこともあった」 

 さて植松死刑囚との接見での話だが、彼の主張はこれまでと基本的に変わっていない。しかし、幾つか新たにわかったこともあった。例えば今回も「裁判を続けるのは間違っているという思いは変わらないけれど、取り下げには葛藤もありました」という話の中で、「取り下げるのをやめようかと思ったこともありました」と彼が語ったのには、「え?」と思った。

 いったいどういう理由でそう思った瞬間があったのかと尋ねると、「いろいろな人とお会いして話をすることができなくなることが一番残念です」。これはこれまでと同じ答えだが、もうひとつ、こうも言った。

「マンガを描いたり絵を描いたりという仕事を自分はまだやれると思っているので」

 そして「まあ仕事と言えるほどのものではないですが」とも付け加えた。

 やはり彼は、マンガやイラストを描くことに、やりがいを見出すようになっていたらしい。実際、私が接触し始めて2年半の間に、彼のイラストなどの技術はかなりアップした。

 今回、彼は拘置所に保管していた本などを宅下げといって外へ出し始めているのだが、私が前回、宅下げを頼まれて持ち出した本の中には、『夜と霧』『アンネの日記』『「母親に、死んで欲しい」介護殺人・当事者たちの告白』といった本にまじって『デザイナーのための鉛筆デッサン』という本もあった。本格的にデッサンの勉強をするための本だ。

植松死刑囚が描いた観音像。筆者撮影
植松死刑囚が描いた観音像。筆者撮影

 ここに掲げたのは、植松死刑囚が約1年前に描いた観音像だが、なかなかの出来栄えだ。よく見ると背後に罫線が見えるのは、便箋に描いているからだ。

死刑執行の前に東京滅亡が…

 この間、もうこれが最後だと自覚して植松死刑囚はいろいろな人に会っているのだが、合理的な話とともに、彼が必ず話すのがイルミナティカードの予言と『闇金ウシジマくん』だ。

 どうも彼によると9月6日、7日に震災があって原爆が落ち、日本は崩壊するらしい。それを真剣な表情で語り、接見している相手にも「その時期、東京を離れたほうがいいですよ」と勧める。

 ただ今回の接見ではその期日が6月6日、7日と3カ月早まっていた。どうして早くなったのかよくわからない。そしてこうも言った。

「1年以上前ですが、幻覚を見たんです。ここの壁がバラバラと崩れていく光景です。私は死刑が確定しますが、死刑で死ぬことはないと思っているんです」

 どのみち日本は破滅するのだから、死刑確定はそれほど意味がないというのだ。

 前回の接見と同様、今回も、自ら控訴を取り下げて死刑を確定させたことを「安楽死する人の気持ちがわかった」と言っていた。「死にたくはないけれど、一方でやはり死ぬべきだという気持ちがある。2審3審と続けるのは意味がない」と語った中で、それを「自死を選択した」とも表現した。その選択は自死、つまり自殺と同じだというのだ。

 控訴取り下げを彼は「自死」と考えているらしい。

死について考える機会

「ヒトラーが死んでしまえば楽になると言ったという話もありますが、自分はそう思わない。もちろん今の生活は幸せじゃないし、ちょっとしたことでイライラして、死にたくなることはあります。でも実際にやろうと思ったことはありません」

 死について思う機会は増えているようだ。

 前述したように私は宮崎勤死刑囚と、死刑確定後も手紙のやりとりを含め、つきあいを続けたが、確定後、彼は死刑や死に言及することが増えた。接見禁止がついて外界と隔絶され、無意識に死について考えることが増えていったようだ。日本の処刑がどういうふうに行われ、アメリカとどう違うのかといったことにも詳しくなっていった。

 死刑確定者のそういう境遇に、間もなく植松死刑囚も入っていくわけだ。私の知っている範囲で言うと、それを機に、宗教に近づいていく死刑囚が多いのだが、植松死刑囚の場合は今のところ宗教への関心はあまりなさそうだ。

 死刑が確定して外界から断絶させられた後、彼はどうなるのだろうか。

 なお死刑判決後の植松死刑囚との接見報告は、前回書いた以下の記事も参考にしてほしい。

https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/20200331-00170611/

相模原事件の植松聖被告は控訴取り下げ直前に「安楽死する人と同じ気持ちだ」と語った

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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