Yahoo!ニュース

マグノ・アウヴェスが46歳で引退。ガンバ大阪と契約解除された時の秘話とサポーターへのメッセージとは

下薗昌記記者/通訳者/ブラジルサッカー専門家
強烈なシュートはワールドクラス。ブラジル代表の肩書きも伊達ではなかった(写真:アフロスポーツ)

 大分トリニータやガンバ大阪でも活躍した元ブラジル代表のマグノ・アウヴェスが7月28日、現役引退を発表した。2007年のシーズン終盤、無断でチームを離れサウジアラビアのアル・イテハドと仮契約。ガンバ大阪から契約解除され、クラブとは不幸な別れ方をした。そんなマグノが当時、筆者に託したサポーターへのメッセージを紹介する。

 2005年のJリーグ制覇に貢献したエース、アラウージョの後釜として白羽の矢が立ったのがマグノ・アウヴェスだった。大分トリニータでも活躍したマグノは2001年のコンフェデレーションズカップでブラジル代表として来日し、2000年のブラジル全国選手権でベストイレブンにも選ばれていた実力者だった。

 その活躍ぶりを今更振り返るまでもないだろう。細身の体から放たれる強烈なシュートとその精度はまさにワールドクラス。播戸竜二とコンビを組んだ2006年の2トップはガンバ大阪の歴史を振り返っても、上位に入る破壊力だった。

 当時のチームメイトだったフェルナンジーニョは、その実力をこう語っていた。「アラウージョとは違うタイプだけど、マグノは紛れもなくオーメン・デ・アリア(エリア内の男)。シュートは99%、枠をとらえるんだから尋常じゃないよ」

99%という表現は「セレソン(ブラジル代表)」の肩書きを持つ僚友へのやや過度な褒め言葉だったかもしれないが、その勝負強さはガンバ大阪のサポーターが一番知るところであろう。

 もっとも、当時マグノに聞いたシュート精度の秘訣は「練習。それに尽きるよ」だ。

 マグノがブラジルでブレークを果たしたリオデジャネイロの名門、フルミネンセでは天才ロマーリオとも2トップを形成していたが、当時のフルミネンセ関係者はこう語っている。

 「マグノは最後にグラウンドに残っている選手の一人だった。毎日、少なくとも30分は居残ってシュートに汗を流していたね」 

 遠藤保仁が自身が選ぶガンバ大阪の歴代ベストイレブン(ちなみに2トップはマグノとアラウージョ)にその名を含めているほどの実力者だったマグノだが、ガンバ大阪との別れは突然で、しかも後味の悪いものだった。

 まだJリーグで逆転優勝の可能性を残していた2007年11月、マグノは11月24日のホーム最終節、ヴィッセル神戸戦を前にガンバ大阪は一枚のリリースを発表した。

 契約条項に違反したマグノに、制裁金を科した上で契約解除するという内容だった。

 当時の時系列を振り返るとこうである。

 11月18日、アウェイのFC東京戦を終えたマグノはクラブに許可を得ず、サウジアラビアへと渡っていた。

 11月21日、オフ明けで始動した練習にマグノの姿はなかった。西野朗監督にマグノの不在を問うてみたが、いつもは番記者を大事にし、ポンポンと歯切れの良い言葉を返してくるはずの指揮官は数秒の間、解答に逡巡し「マグノは体調不良」と説明した。

 筆者ともう一人のスポーツ紙記者は、何かおかしいと感じて取材を開始。互いにマグノが無断で練習を欠席していることをつかんだが、当時は逆転優勝に可能性を残していた大事な時期。このタイミングでマグノの無断欠席を報じるのは番記者としてもためらいがあったため、もう1日だけ様子を見ることにした。

 しかし、その日の夜、アルイテハドのHPでクラブ関係者に出迎えられるマグノの写真がアップされ、スポーツ紙もマグノの背信行為を一斉に報道。23日にクラブとの契約を解除されると、私物が残るクラブハウスへの出入りも一切禁止され、西野監督やチームメイトとも挨拶を交わすことなく、ガンバ大阪におけるマグノのキャリアは終焉した。誰もが予期せぬ形で。

 11月24日、エースを欠いたガンバ大阪は結局、ヴィッセル神戸戦を1対1で引き分け、数字上残っていた優勝の可能性は消滅。

 そんな後味の悪いシーズン終盤を迎えていた筆者の携帯電話が、突然、覚えのない番号を通知したのだ。

 「もしもし」と呼びかけると電話口から聞こえてきたのは「アロー(もしもし)」というポルトガル語。マグノからの予期せぬ電話だった。

 「どうしても君に記事を書いて欲しいんだ。オレは最初から神戸戦には間に合わせるつもりでサウジアラビアに向かった。それに西野はオレに『行っていい』とも『行ってはいけない』とも言わなかったんだ」

 マグノの言い分はこうである。

 FC東京戦を前に、チームの通訳を介して、西野監督に「FC東京戦後から、しばらくトレーニングを休ませて欲しい」と要望したという。

 契約解除後、西野監督は「交渉のエックスデーというか、この日しかないという状況での決断だったみたいだけど、それならもっと正直に伝えて欲しかった」と番記者らとの囲み取材で話したが、マグノの言い分は単なる屁理屈である。

 「マグノ、僕も君をサッカー選手として尊敬はしているし好きな選手だ。でも、そんな言い分は記事には出来ないよ」

 筆者は日頃、マグノと電話でやり取りする間柄ではなく、当然、携帯番号を教えたこともなかった。

 誰から聞いたのかも聞かなかったが、わざわざ筆者にコンタクトしてきたブラジル人エースを突き放したものの、その後も何度か同じ番号からコールがあったが、そんな言い分を掲載するメディアなどあるはずがない。電話には出なかった。

 諦めたのか、その後マグノからコールされることはなかったが、数日後、再びマグノからの電話が鳴る。

 この背信行為以外、マグノに対してはいい思い出しかなかった。2006年11月26日のJリーグホーム最終節。勝たなければ逆転優勝への可能性が絶たれる京都パープルサンガ(当時)戦でマグノはアディショナルタイムに奇跡の決勝ゴール。劇的なハットトリックを果たしたその姿に、記者席で思わず涙した。

 ブラジル人FWが歩んできた苦難のサッカー人生がその一撃に象徴されたように思ったからだ。「ガンバはまだ死んでいない」。試合後の言葉にも胸を打たれた。

 やむを得ず、コールに応じると、マグノはこんな願いを託してきた。

 「サポーターにこういう形でクラブを去ることを詫びていたと記事にしてくれないか。そして西野にガンバにオレを呼んでくれて感謝していると伝えてくれ」

〈馬鹿野郎、こんな形でガンバを離れやがって……〉と言いたかったが、聞こえてきたのは関西国際空港内のアナウンス。ブラジルに戻る直前にも関わらず、マグノは諦めずに「ラストシュート」を放ってきたのだ。

「ペロ・アモール・デ・デウス(後生だから)」。

 ピッチ内では太々しさしか見せない元ブラジル代表が祈るように口にした最後の懇願を断り切れず、「分かったよ。サポーターに君の思いは伝えるよ」と引き受けたものの、果たせた約束は西野監督に託されたメッセージを伝えたのみだった。

 ガンバ大阪を離れた後、再びブラジルのビッグクラブでも活躍し、40代を迎えた近年は地方の小クラブでピッチに立ったマグノ。しかし、ブラジルメディアでは現役選手の得点数で世界6位だったマグノの存在はしばしばクローズアップされていた。

 ブラジルメディアのカウントによると、クリスティアーノ・ロナウド、リオネル・メッシ、ズラタン・イブラヒモビッチ、ロベルト・レヴァンドフスキ、そしてルイス・スアレスのみが現役選手としてマグノの得点数を上回っていた男たち。

 46歳でサッカー界に別れを告げたマグノだが、ガンバ大阪にはジュニアユース時代に「お前はマグノみたいな選手になれ」と鴨川幸司監督(当時)に檄を飛ばされた宇佐美貴史やマグノに憧れたサッカー少年だった山見大登が在籍。マグノが残した功績は数字以上の何かがあると思うのだ。

 引退を発表する友人や関係者を招いたイベントで流されたキャリアを振り返る映像で、ガンバ大阪時代のプレー写真も紹介されていた。マグノの長いキャリアの中で、青黒のユニフォームを着た日々も大事な時間だったのは確かである。

 引退発表直後、ガンバ大阪サポーターでもあった山見にその引退について聞いてみた。「この歳まで現役でやっていたんやと思います。自分が憧れた選手が自分がプロに入るまでサッカーをしているのは凄いし、対戦したかった。色々あって(ガンバ大阪を)辞めましたけど、凄い選手だなと思います」。山見の言葉は多くのサポーターに共通する思いのはず。

 公式戦783試合、368得点ーー。マグノ、素晴らしいシュートの数々をありがとう。

記者/通訳者/ブラジルサッカー専門家

1971年、大阪市生まれ。大阪外国語大学(現大阪大学外国語学部)でポルトガル語を学ぶ。朝日新聞記者を経て、2002年にブラジルに移住し、永住権を取得。南米各国でワールドカップやコパ・リベルタドーレスなど700試合以上を取材。2005年からはガンバ大阪を追いつつ、ブラジルにも足を運ぶ。著書に「ジャポネス・ガランチードー日系ブラジル人、王国での闘い」(サッカー小僧新書)などがあり、「ラストピース』(KADAKAWA)は2015年のサッカー本大賞で大賞と読者賞。近著は「反骨心――ガンバ大阪の育成哲学――」(三栄書房)。日本テレビではコパ・リベルタドーレスの解説やクラブW杯の取材コーディネートも担当。

下薗昌記の最近の記事