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「済州4.3事件」犠牲者遺族会などが米国の責任を問う書簡を提出 −米大使館側は受け取りを「延期」

徐台教ソウル在住ジャーナリスト。『コリア・フォーカス』編集長
公開書簡を手にする「済州4.3事件犠牲者遺族会」の梁会長。7日、筆者撮影。

4月7日、ソウル市内の米国大使館に、「済州4.3事件」遺族会をはじめとする関連団体が、同事件に関する米国の謝罪と真相究明を求める書簡を提出したが、米側が受け取りの「延期」を表明する事態が起きた。

米国の受け取り拒否の理由は「メディアがいるから」

「無残に殺された3万人の済州島民を考えれば、米国大使館では書簡を受け取り、済州島民に対し必ず謝罪しなければならない」。

4月とは思えないほどに冷え込んだ7日夕方、ソウル光化門広場前に位置する米国大使館の大門前に座り込んだ「済州4.3事件犠牲者遺族会」の梁閠京(ヤン・ユンギョン)会長は力強く、取り囲んだ記者たちに向け語った。

大門を塞いでいた警察も、遺族会側の抗議により距離を取り見守る中、梁会長は胸の前に「公開書簡」と書かれた封筒を掲げ、1時間以上にわたりその場を動かなかった。

公開書簡の中身は「4.3虐殺に対し、米国は謝罪し真相究明に乗り出せ」というもの。

米軍政下の1947年3月1日から1948年8月の大韓民国建国、そして朝鮮戦争休戦の約1年後の1954年8月まで済州島全土を巻き込み、島民の10分の1にあたる約3万人が犠牲となった「済州4.3事件」における米国の責任を追及する内容だ。

在ソウル米国大使館の正門前に座り込む「済州4.3事件犠牲者遺族会」の梁閠京(ヤン・ユンギョン、中央)会長たち。大使館を警備する警察側から、暴力的な排除や警告などは一切なかった。7日、筆者撮影。
在ソウル米国大使館の正門前に座り込む「済州4.3事件犠牲者遺族会」の梁閠京(ヤン・ユンギョン、中央)会長たち。大使館を警備する警察側から、暴力的な排除や警告などは一切なかった。7日、筆者撮影。

しかしこの日、米大使館側は受け取りを「拒否」。梁会長はその理由について「本来、遺族会側の3人が代表し、大使館の警備担当者に書簡を渡すはずだったが『メディアを多く連れてきて約束を破った』という理由で中止になった」と明かした。

ちなみに、現場には筆者をはじめ10数名の記者がいたが、遺族会側に「連れてこられた」訳ではない。自由な取材をしていただけだ。米側の敏感な反応ぶりがうかがえる。

梁会長はさらに「この程度のことも受け入れられないで、米国は今後どうしようというのか。私たちは(4.3事件の犠牲者ということで)多くの差別を受けてきた。米大使館までも差別をするのか」と悔しそうに語った。

なお通常、このような場合は、米大使館の職員ではなく、大使館の警備陣に書簡を渡し、伝達を頼むのが恒例だ。これすらも「拒否」されるのは異例のことだ。

「済州4.3事件」とは

筆者が4月4日にYahoo個人ニュースで公開した記事で「済州4.3事件」について一通り言及した。「済州4.3事件」はその期間が長いこともあり、複雑だ。事件のあらまし、歴史、争点などをまとめた以下の記事をぜひ一読していただきたい。

「済州4.3事件」70周年を迎えた韓国の今 -国家による暴力と分断を越えて(徐台教)

https://news.yahoo.co.jp/byline/seodaegyo/20180404-00083567/

この記事から「済州4.3事件」について一部を引用する。

武装蜂起

1948年4月3日明け方、済州島で「南朝鮮労働党(南労党)」主導で武装した約350人の住民が一斉蜂起した。警察署を襲撃した彼らの主な思いは「警察や右翼組織による弾圧への反対」、そして「南北同時選挙の実施」と「米軍政の拒否」だった。

当時、朝鮮半島では北はソ連、南は米国と、38度線を境に軍政下にあった。1946年に設立された米ソ共同委員会により、朝鮮半島の今後の独立方法について討議されたが決裂。48年2月に国連で南北別々に選挙を行うことが決まり、同年5月10日に南側で単独選挙が行われる予定となっていた。

単独選挙が実現する場合、南北の分断が決定的なものになるため、金九(キム・グ)をはじめ、当時の民族主義者たちはこぞって反対。北側の金日成(キム・イルソン)との連携を模索し金九が平壌(ピョンヤン)を訪れるなど、統一か分断かをめぐる政治の嵐が吹き荒れた時期だった。

済州島では「4.3事件」が起こる約1年前の3月1日、「3.1独立運動(1919年)」を記念する集会が開かれていた。この集会で子どもとぶつかったにも関わらず立ち去った警察に対し、参加した市民が抗議するや警察側が発砲、6人が死亡する事件が起きた。

済州島民はこれに抗議し、同年3月10日、大規模なストライキを敢行した。学生や教員、公務員や警察まで島民の95%がこれに参加した。米軍政側はこれを「南朝鮮労働党」が主導した「左傾化」と警戒した。

本土から「西北青年団」をはじめとする右翼の一団や警察を済州島に呼び寄せ、治安を済州島民の手から取り上げ、厳しく取り締まった。「4.3事件」までの1年間に2500人余りが逮捕・拘禁され、島民の間に不満が高まる中での武装蜂起だった。

4月3日から7日まで光化門広場に設置された「済州4.3事件犠牲者」を追悼する献花台。筆者の取材当時、多くの若者が花を供えていった。7日、筆者撮影。
4月3日から7日まで光化門広場に設置された「済州4.3事件犠牲者」を追悼する献花台。筆者の取材当時、多くの若者が花を供えていった。7日、筆者撮影。

虐殺へ

公権力に反旗を翻した一団に対する弾圧は次第に無軌道になっていった。わずか350人の蜂起(最大時でも武装隊は500人とされる)にも関わらず、鎮圧がうまく行かない中、米軍政側は警備隊(朝鮮警備隊。韓国軍の前身)を投入する。

そうした中、5月10日の南側単独選挙当日、全体で95%を超える投票率の中、済州島では3つの選挙区のうち2つの選挙がボイコットにより成立しない事態が起きる。その後、6月23日の再選挙も「失敗」に終わる。当時、武装隊の指導部が北朝鮮を訪れている。

48年8月15日に韓国政府が樹立し、9月9日に朝鮮民主主義人民共和国政府(北朝鮮)が樹立するや、韓国の李承晩(イ・スンマン)大統領は、武装隊の指導部が北朝鮮を支持している点などから、済州島の山に篭もる武装隊に対し鎮圧を再び決意する。

李大統領は1948年10月に「海岸線より5キロ以上の地域に出入りする人々を暴徒と見なし、無条件射殺する」という布告を発し、さらに同年11月には済州島全土に戒厳令を敷いた上で、中山間(山の麓)の村々を焼き払う「焦土化作戦」を展開。国家による暴力が島に吹き荒れた。

済州島の軍警は民間人に「武装隊に加担した」とレッテルを貼っては逮捕し、虐殺する行為を繰り返した。家族に行方不明者がいると、その者を「反乱者」と見なし、家族を代わりに殺したりもした。このような鎮圧が続く中、1949年5月に再選挙が成立し、6月には武装蜂起隊総責任者の李徳九(イ・ドクク)が射殺され、以降、武装隊の動きは止んだ。

その後、50年から53年までの朝鮮戦争の時期に済州島では虐殺が再び起きる。「予備検束」と称し、政府のリストに挙がっていた「4.3」に関連する人物を一方的に拘束し、北朝鮮に協力するおそれがあると殺したのだった。「4.3」に加担したとされ、本土の刑務所に収監されていた者たちも、みな処刑された。

このように、済州島では1947年からはじまり、54年9月に漢拏山への入山規制が解けるまで、中山間の村々のうち95%が焼失し、当時の全島人口の10分の1にあたる25,000人から30,000人が亡くなったと推定されている。韓国ではこの7年7か月をすべてまとめて、「済州4.3事件」と呼んでいる。

出典:「済州4.3事件」70周年を迎えた韓国の今 -国家による暴力と分断を越えて

7日、配布された公開書簡の紙面。「4.3事件」の被害者を象徴する椿の花があしらわれている。7日、筆者撮影。
7日、配布された公開書簡の紙面。「4.3事件」の被害者を象徴する椿の花があしらわれている。7日、筆者撮影。

書簡の詳細な内容

大使館前での座り込みに先立つ7日午後、発表された「公開書簡」は、この「済州4.3事件」における米国の責任を追及するものだ。

韓国では、2000年1月に「4.3事件真相究明および犠牲者名誉回復に関する特別法(4.3特別法)」が制定された。これに基づき「済州4.3事件真相究明および名誉回復委員会」が発足した。

同委員会は2003年10月が刊行した「真相究明報告書」には米国の責任について以下のように言及している。

「この事件は米軍政下で始まり、米軍の大尉が済州地域の司令官として直接に鎮圧作戦を指揮した。米軍は韓国の樹立(1948年8月)以後も米韓間の軍事協定により韓国軍の作戦統制権を保持し続け、済州鎮圧作戦に武器と偵察機などを支援した」

公開書簡ではこの点を踏まえ「米軍政が4.3虐殺の責任から自由でない理由」をいくつも主張している。

7日午後、寒空の中でも多くの市民が光化門広場に足を運び、「済州4.3事件」に触れた。事件を具体的に知る市民はまだ多いとは言えない。7日、筆者撮影。
7日午後、寒空の中でも多くの市民が光化門広場に足を運び、「済州4.3事件」に触れた。事件を具体的に知る市民はまだ多いとは言えない。7日、筆者撮影。

まず、「『4.3大虐殺』に対する実質的な責任は米国にある。米軍政は解法直後の朝鮮半島38度線以南に存在する実質的な統治機構であった。米軍政は済州島を『思想が不純なアカの島』と罵り、済州島の人々を弾圧」したと指摘。

さらに「1948年の『4.3』直土、米軍政はブラウン大尉を済州地区の米軍司令官として派遣し、済州現地の全ての鎮圧作戦を指揮、統率した。ブラウン大尉は当時『原因には興味がない。私の使命は鎮圧だけだ』とし、強硬な鎮圧作戦を指揮した」と続けた。

また、米軍の報告書も以下のように引用する。

「米軍の報告書では1948年11月から済州島に対する焦土化作戦を通じ、民間人を無慈悲に虐殺した国防警備隊(韓国軍)第9連隊の強硬鎮圧作戦を『成功的な作戦』と評価した。米軍政は焦土化作戦が進むあいだ、偵察機を動員しただけでなく、討伐隊(武装蜂起隊を鎮圧するために組織され、陸地から派遣されてきた西北青年団などの御用団体)の武器と装備も積極的に支援した」

光化門広場には多くのブースが設置され、市民の理解を助けた。在日コリアンの小説家、金石範(キム・ソクボム)氏による「済州4.3」を題材にした大河小説「火山島」と、「鴉の死」の韓国語版も。7日、筆者撮影。
光化門広場には多くのブースが設置され、市民の理解を助けた。在日コリアンの小説家、金石範(キム・ソクボム)氏による「済州4.3」を題材にした大河小説「火山島」と、「鴉の死」の韓国語版も。7日、筆者撮影。

その上で「責任を負うべき米国政府は70年という長い歳月が流れたにも関わらず、今も傍観者的な態度でどんな言葉も発していない」とし、「その間、4.3の痛みを全身で受け止め、苦痛の中で生きてきた生存者たちの大部分が亡くなった。残る80〜90台の生存者もこの先、どれだけ生きられるか分からない。4.3の痛みは今も癒えていない」と訴えた。

そして「米国政府は今、4.3の真実を語らなければならない。4.3虐殺に対する責任を認め、公式に謝罪しなければならない。また、4.3当時の米軍政と米国軍事顧問団の役割に対する真相究明に、積極的に乗り出さなければならない」と強く主張した。

米大使館側は「9日午前11時」に受け取り

梁会長は1時間あまり米大使館前で座り込みながら、米大使館側と交渉を続けた。警察側は途中から、大使館前の道一般人の通行も封鎖されるなど、結果、米大使館側と「9日(月曜日)午前11時に受け取り」で合意したという。

交渉を担当した関係者によると、「メディアの同席なしで代表者3人が警備側に受け渡す」というのが条件だという。

米大使館前から移動し、記者たちに所感を述べる梁会長。9日に米大使館を再度訪れることとなった。7日、筆者撮影。
米大使館前から移動し、記者たちに所感を述べる梁会長。9日に米大使館を再度訪れることとなった。7日、筆者撮影。

梁会長は大使館前を離れながら、記者たちに対し「とても残念だ。受け取るという当初の約束を破ったのは米国側だ」と主張した。

関係者によると、9日の受け取りは米大使館側の要求通りに行われるとのことだ。

なお、この公開書簡は「済州4.3犠牲者遺族会」、「済州4.3 70周年記念事業委員会」、「済州4.3第70周年汎国民委員会」が連名で提出したものだ。

在日本犠牲者遺族会代表の呉光現会長「新しい動きに発展してほしい」

叔父を「済州4.3事件」で失い、今年の70周年追念式をはじめ毎年「4.3」に合わせ故郷・済州島を訪問している、「在日本済州四・三事件犠牲者遺族会」の呉光現(オ・グァンヒョン)会長は、今回の米国への公開書簡提出の動きを歓迎した。

呉会長は8日、筆者の電話インタビューに対し「米国は過去70年、『4.3事件』について一度も謝罪せず、書簡にもあるように『傍観者』としての立場を取り続けてきた。当然果たすべき米国の責任について民間団体が正々堂々と問うのは画期的だ。ぜひ、新しい動きに発展してほしい」と語った。

今年4月、大阪からの訪問団100余名と共に済州島を訪問した呉光現会長(左)。呉光現さん提供。
今年4月、大阪からの訪問団100余名と共に済州島を訪問した呉光現会長(左)。呉光現さん提供。

さらに、「『済州4.3犠牲者遺族会』の行動は尊敬に値する。公的に米大使館側に書簡を渡すのは第一歩となる。書簡の内容も抑制が聞いた、読む人に考えさせるいい内容だ。日本と『済州4.3事件』は大きな関わりがある。現在、米国に責任を問うための10万人署名運動を行っているが、これに日本に住む人々も署名できるよう、韓国側に問い合わせている」と述べた。

呉会長によると、署名は現在「3万人ほど」集まっているという。

「米国の責任」と問う初の「一石」となるか

この日、光化門広場では、前述してきたように70周年を迎えた「済州4.3事件」追悼行事が行われる一方、保守派団体が「朴槿恵弾劾無効、判決不服、米韓同盟死守」の親米デモを行い、さらに進歩系左派団体が「米韓合同軍事訓練反対」の反米デモを行い、周辺は騒然とした雰囲気に包まれていた。

米大使館前の5車線道路では、保守、左派双方のデモがあわや衝突という場面もあった。警察幹部が必死の形相で若い警察官たちを動かしながら壁を作ることで、衝突は回避されたが、保守派デモの一団は座り込みを続ける梁会長を見るや「4.3はアカの仕業だ!!」と事件の本質とは異なる発言をスピーカー越しに行う姿に、70年前の済州島で起きた悲劇を見た気がして、戦慄した。

保守派による「太極旗」デモ。星条旗を掲げ、米韓同盟を強調し、北朝鮮と会談を行う文在寅大統領を批判する。写真を撮る筆者にも年配男性が怒鳴り声を挙げながら詰め寄ってきた。7日、筆者撮影。
保守派による「太極旗」デモ。星条旗を掲げ、米韓同盟を強調し、北朝鮮と会談を行う文在寅大統領を批判する。写真を撮る筆者にも年配男性が怒鳴り声を挙げながら詰め寄ってきた。7日、筆者撮影。

日本による植民地化や朝鮮半島の分断に端を発し、朝鮮戦争や東西冷戦で先鋭化を経て、今も韓国社会に暗い影を落とし続ける左右の理念対立の現住所だ。

米国は過去、朝鮮戦争中の1950年7月に米軍が韓国の民間人200人以上を虐殺した「老斤里(ノグンリ)民間人虐殺事件」について、2001年1月、当時のクリントン大統領が韓国の国民に対し「深い遺憾の意」を表明したことがある。だが「事件の経過は分からない」と米国の責任を正確に認めず、「謝罪」は行わなかった。

今回の公開書簡を通じ、韓国の現代史の一大悲劇に対し「米国の責任」、そして「謝罪」という一石が投じられるのか、今後も詳細を追っていきたい。

光化門広場には「済州4.3は大韓民国の歴史です」という横断幕が大きく掲げられた。南北対立の中、犠牲者が「アカ」とされることを恐れ名乗れず、差別され続けた歴史を乗り越えようとする試みだ。7日、筆者撮影。
光化門広場には「済州4.3は大韓民国の歴史です」という横断幕が大きく掲げられた。南北対立の中、犠牲者が「アカ」とされることを恐れ名乗れず、差別され続けた歴史を乗り越えようとする試みだ。7日、筆者撮影。
ソウル在住ジャーナリスト。『コリア・フォーカス』編集長

群馬県生まれの在日コリアン3世。1999年からソウルに住み人権NGO代表や日本メディアの記者として朝鮮半島問題に関わる。2015年韓国に「永住帰国」すると同時に独立。16年10月から半年以上「ろうそくデモ」と朴槿恵大統領弾劾に伴う大統領選挙を密着取材。17年5月に韓国政治、南北関係など朝鮮半島情勢を扱う『コリアン・ポリティクス』を創刊。20年2月に朝鮮半島と日本の社会問題を解決するメディア『ニュースタンス』への転換を経て、23年9月から再び朝鮮半島情勢に焦点を当てる『コリア・フォーカス』にリニューアル。ソウル外国人特派員協会(SFCC)正会員。22年「第7回鶴峰賞言論部門優秀賞」受賞。

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