「済州4.3事件」70周年を迎えた韓国の今 -国家による暴力と分断を越えて

4月3日、「済州島4.3犠牲者追念式」に参加した文在寅大統領。写真は青瓦台提供。

韓国一の観光地として知られる済州島(チェジュド)。この島で70年前、島民全体の10分の1が犠牲となる痛ましい出来事があった。韓国現代史に深い爪痕を残す「済州4.3事件」の過去と現在についてまとめる。

「済州4.3事件」とは?

武装蜂起

1948年4月3日明け方、済州島で「南朝鮮労働党(南労党)」主導で武装した約350人の住民が一斉蜂起した。警察署を襲撃した彼らの主な思いは「警察や右翼組織による弾圧への反対」、そして「南北同時選挙の実施」と「米軍政の拒否」だった。

当時、朝鮮半島では北はソ連、南は米国と、38度線を境に軍政下にあった。1946年に設立された米ソ共同委員会により、朝鮮半島の今後の独立方法について討議されたが決裂。48年2月に国連で南北別々に選挙を行うことが決まり、同年5月10日に南側で単独選挙が行われる予定となっていた。

単独選挙が実現する場合、南北の分断が決定的なものになるため、金九(キム・グ)をはじめ、当時の民族主義者たちはこぞって反対。北側の金日成(キム・イルソン)との連携を模索し金九が平壌(ピョンヤン)を訪れるなど、統一か分断かをめぐる政治の嵐が吹き荒れた時期だった。

美しい島、済州島。島のあちこちに「4.3」にまつわる悲しい逸話とその痕跡がある。奥に見えるのが漢拏(ハルラ)山。3月17日、筆者撮影。
美しい島、済州島。島のあちこちに「4.3」にまつわる悲しい逸話とその痕跡がある。奥に見えるのが漢拏(ハルラ)山。3月17日、筆者撮影。

済州島では「4.3事件」が起こる約1年前の3月1日、「3.1独立運動(1919年)」を記念する集会が開かれていた。この集会で子どもとぶつかったにも関わらず立ち去った警察に対し、参加した市民が抗議するや警察側が発砲、6人が死亡する事件が起きた。

済州島民はこれに抗議し、同年3月10日、大規模なストライキを敢行した。学生や教員、公務員や警察まで島民の95%がこれに参加した。米軍政側はこれを「南朝鮮労働党」が主導した「左傾化」と警戒した。

本土から「西北青年団」をはじめとする右翼の一団や警察を済州島に呼び寄せ、治安を済州島民の手から取り上げ、厳しく取り締まった。「4.3事件」までの1年間に2500人余りが逮捕・拘禁され、島民の間に不満が高まる中での武装蜂起だった。

虐殺へ

公権力に反旗を翻した一団に対する弾圧は次第に無軌道になっていった。わずか350人の蜂起(最大時でも武装隊は500人とされる)にも関わらず、鎮圧がうまく行かない中、米軍政側は警備隊(朝鮮警備隊。韓国軍の前身)を投入する。

そうした中、5月10日の南側単独選挙当日、全体で95%を超える投票率の中、済州島では3つの選挙区のうち2つの選挙がボイコットにより成立しない事態が起きる。その後、6月23日の再選挙も「失敗」に終わる。当時、武装隊の指導部が北朝鮮を訪れている。

48年8月15日に韓国政府が樹立し、9月9日に朝鮮民主主義人民共和国政府(北朝鮮)が樹立するや、韓国の李承晩(イ・スンマン)大統領は、武装隊の指導部が北朝鮮を支持している点などから、済州島の山に篭もる武装隊に対し鎮圧を再び決意する。

済州島内で虐殺の犠牲者となった人々の分布図。色が濃いほど犠牲者が多い。ひとつの里(村に相当)で300人以上の犠牲者がでた場所も数か所ある。3月16日、「4.3平和記念館」で筆者撮影。
済州島内で虐殺の犠牲者となった人々の分布図。色が濃いほど犠牲者が多い。ひとつの里(村に相当)で300人以上の犠牲者がでた場所も数か所ある。3月16日、「4.3平和記念館」で筆者撮影。

李大統領は1948年10月に「海岸線より5キロ以上の地域に出入りする人々を暴徒と見なし、無条件射殺する」という布告を発し、さらに同年11月には済州島全土に戒厳令を敷いた上で、中山間(山の麓)の村々を焼き払う「焦土化作戦」を展開。国家による暴力が島に吹き荒れた。

済州島の軍警は民間人に「武装隊に加担した」とレッテルを貼っては逮捕し、虐殺する行為を繰り返した。家族に行方不明者がいると、その者を「反乱者」と見なし、家族を代わりに殺したりもした。このような鎮圧が続く中、1949年5月に再選挙が成立し、6月には武装蜂起隊総責任者の李徳九(イ・ドクク)が射殺され、以降、武装隊の動きは止んだ。

その後、50年から53年までの朝鮮戦争の時期に済州島では虐殺が再び起きる。「予備検束」と称し、政府のリストに挙がっていた「4.3」に関連する人物を一方的に拘束し、北朝鮮に協力するおそれがあると殺したのだった。「4.3」に加担したとされ、本土の刑務所に収監されていた者たちも、みな処刑された。

このように、済州島では1947年からはじまり、54年9月に漢拏山への入山規制が解けるまで、中山間の村々のうち95%が焼失し、当時の全島人口の10分の1にあたる25,000人から30,000人が亡くなったと推定されている。韓国ではこの7年7か月をすべてまとめて、「済州4.3事件」と呼んでいる。

「予備検束」により拘束された人々250人以上が虐殺された「ソダルオルム」虐殺地跡。ここから下の池に死体が投げ込まれた。3月17日、筆者撮影。
「予備検束」により拘束された人々250人以上が虐殺された「ソダルオルム」虐殺地跡。ここから下の池に死体が投げ込まれた。3月17日、筆者撮影。

70周年式典における小説家・玄基栄のスピーチ

4月3日、済州市内から1時間ほど離れた漢拏(ハルラ)山の麓にある「4.3平和公園」で「第70周年 済州島4.3犠牲者追念式」が行われた。済州島に住む人気タレントのイ・ヒョリが司会を務めた式典には、大統領としては12年ぶりの参加となる文在寅(ムン・ジェイン)大統領をはじめ、与野党の主要政治家、そして「4.3」と関わりを持つ多くの市民が参加した。

式典では、小説家・玄基栄(ヒョン・ギヨン)氏が追悼辞を述べた。同氏は事件から30年後の1978年に「4.3」で最大の被害を受けた村の一つ「北村里」での虐殺をテーマに、4.3事件をどう捉えるのかを問う小説「順伊(スニ)おばさん」を著し「4.3」の実情を世間に知らしめた。このため、当時の韓国当局から拷問に遭い、小説も禁書となった経歴を持つ。

追悼辞を述べる小説家・玄基栄(ヒョン・ギヨン)氏。韓国KTVよりキャプチャ。
追悼辞を述べる小説家・玄基栄(ヒョン・ギヨン)氏。韓国KTVよりキャプチャ。

玄氏は追悼辞の中で「4.3で犠牲になった方々の悲しい魂は今、春の野原に黄色い菜の花として群れをなして咲いている。喊声のように一斉に咲いた菜の花を見ながら、私たちは南北分断の単独政府を反対し、統一国家を叫んだ70年前の喊声を聞いている」としながら、「4.3の英霊たちは私たちに『哀悼だけに、4.3の悲しみだけにとどまるな』、『4.3の悲しい経験が生産的な動力になるようにせよ』、『その犠牲を無駄なものにするな』と語りかけている」と訴えた。

玄氏はまた、「3万という莫大な死は私たちに『人間とはいったい何で、国家とはいったい何であるか』を深く考えさせる。死ではなく生命を、戦争ではない平和を教えてくれている。4.3の魂たちは朝鮮半島の南北間に憎悪の言葉と身振りを止め、和解と相生、平和の道に進むよう、私たちの背中を押している」とし、「朝鮮半島に平和が訪れるよう力を貸してほしい」と犠牲者たちに呼びかけた。

遺族会会長「特別法の改定を」

続いて、約10万人の市民が参加する「済州4.3遺族会」の梁閠京(ヤン・ユンギョン)会長が遺族を代表し挨拶を行った。

梁氏は「70年前の4.3は余りにも多くのものを奪っていった。何の理由もなく3万人の島民が国家権力により虐殺され、共同体が完全に破壊された」とし、「国民を守るべき国家が、国民の声明と財産、そして人権をこれほど踏みにじってもよいものかと問いたい」と語った。

さらに、「今日この場には、残酷な現場にいた生存犠牲者と、年配の遺族たちが最後になるかもしれない参加をしてくれている。この方たちもまた、韓国の父であり、母だ。70年の恨(ハン)を解いてあげなければならない」と続けた。

遺族を代表し挨拶を行う、「済州4.3遺族会」の梁閠京(ヤン・ユンギョン)会長。韓国KTVよりキャプチャ。
遺族を代表し挨拶を行う、「済州4.3遺族会」の梁閠京(ヤン・ユンギョン)会長。韓国KTVよりキャプチャ。

そして、「各党の大統領候補が来ている。皆が特別法の改定を通じた4.3の解決を約束した。4.3の未決の課題を解決するためには、特別法がなければ一歩も前に進めない切迫した事情がある。その間、国会に多く協力を要請した。多くの国会議員が今日この場に来る前に議論をしてきてほしかったが、そうならずとても遺憾に思う。被害者の立場から、答えを探すことを真にお願いする」と強く訴えた。

過去、2000年1月に制定された「4.3事件真相究明および犠牲者名誉回復に関する特別法(4.3特別法)」を通じ、「済州4.3事件真相究明および名誉回復委員会」が発足した。同委員会は2003年10月に「真相究明報告書」を刊行するなど成果を残した。

一方で、犠牲者への賠償と補償は行われていない。現在、国会にはこの点を含め、さらなる真相究明や遺骸発掘、名誉毀損者への処罰などを盛り込んだ、3つの特別法改定案が発議されている状態だ。

梁氏はさらに、「済州4.3は韓国の歴史だ。しかし(国民は)4.3を余りにも知らな過ぎる。『語ってはならなかった』ため、知ることができなかった。これからは、現代史のあまりにも大きな悲劇について、誰もが真実を語れるようになってほしい」とし、「私たちが真に名誉回復を成し遂げ、容赦と和解をして相生できるような大きな転換点にしたく思う」と語った。

梁会長の挨拶を聞きながら涙を流す年配の女性。韓国KTVよりキャプチャ。
梁会長の挨拶を聞きながら涙を流す年配の女性。韓国KTVよりキャプチャ。

文在寅大統領は演説で「4.3の完全な解決」を表明

続いて、文在寅大統領の演説があった。文大統領は演説の中でまず「皆さんが4.3を忘れずに、痛みを分かち合った方たちがいたからこそ、今日、私たちは沈黙の歳月を乗り越えこのように集まることができた。渾身の力を振り絞り、4.3の痛恨と苦痛、真実を知らせてきた生存犠牲者とご遺族、済州島民の方たちに大統領として深い慰労と感謝の言葉を捧げる」と語った。

文大統領の発言の背景には、全くの無実であったにも関わらず、犠牲となった済州島の人々が、共産主義の北朝鮮と真っ向から対立する当時の社会状況の中、息をひそめて暮らさなければならなかった事実がある。

「4.3事件」の被害者は、「アカ」、「暴徒の家族」と後ろ指を差され、公務員になれないなど社会的な不利益をこうむることを恐れるあまり、「4.3事件」の犠牲者であることを公にできなかった。文大統領は前出の玄基栄氏や在日コリアンの小説家・金石範(キム・ソクボム)氏の名を挙げつつ、このような「4.3を語り続けることの意味」を語ったのだった。

文大統領はまた、「済州島民と共に長いあいだ4.3の痛みを記憶し知らせてくれた方たちがいたからこそ、4.3は起き上がった。国家の暴力が起こしたあらゆる苦痛と努力に対し大統領として、もう一度深く謝罪し、また、深く感謝いたします」と述べた。

慰霊碑に頭を下げる文在寅大統領と金貞淑(キム・ジョンスク)夫人。写真は青瓦台提供。
慰霊碑に頭を下げる文在寅大統領と金貞淑(キム・ジョンスク)夫人。写真は青瓦台提供。

これは大統領の謝罪としては、2003年の盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領の謝罪に続き2度目のものとなる。

文大統領はさらに、「これ以上4.3の真相究明と名誉回復が後退することはない」、「4.3の真実はどんな勢力も否定することのできない、明らかな歴史の事実として、位置付けられた」と宣言した。

そして、「遺族たちと生存犠牲者たちの傷と痛みを治癒するために政府としての措置に最善を尽くす」とし、「賠償・補償と国家トラウマセンターの建設など立法が必要な事項は国会と積極的に協議する」と「4.3の完全な解決」への決意を続けて明かした。

文大統領は次いで「4.3の真実を直視する」こと、さらに「生活のあらゆる場から理念が投げかけた敵対の影を取り除き、人間の尊厳を咲かせられるように、皆が共に努力していくこと」を国民に求めた。

これは、国家が理念を振りかざしたことで虐殺が起きた点、そして「4.3事件」から70年が経つ今も南北分断が続く中で、国民が今なお北朝鮮への立場をめぐり進歩派(融和派)、保守派(強硬派)の左右に分断されている状況からの「卒業」を求めるものだ。

さらに文大統領は、これらに代わる新たな基準として「正義と公正」を挙げた。

「4.3平和公園」内にある行方不明者3825名の碑。名前が刻まれている。朝鮮戦争(50~53年)のさ中で記録が失われた犠牲者も多い。3月16日、筆者撮影。
「4.3平和公園」内にある行方不明者3825名の碑。名前が刻まれている。朝鮮戦争(50~53年)のさ中で記録が失われた犠牲者も多い。3月16日、筆者撮影。

「正義にかなわず公正で無いならば、保守であろうと進歩であろうと、どんな旗でも国民のためになることはできない」と主張した。

そして最後に、「今日が4.3の英霊たちと犠牲者たちに慰安となり、わが国民たちにとっては新しい歴史の出発点になることを願う」と語りかけたのだった。

(演説全文訳はこちらから。外部サイトです)

[全訳] 4.3犠牲者追念日 追念辞(2018年4月3日、文在寅大統領)

https://www.thekoreanpolitics.com/news/articleView.html?idxno=741

争点は「米国の責任」

2003年に発刊された真相究明報告書では、「済州4.3事件」について「多様な原因が混ざり合っており、一つの要因を持って説明できない」としている。

報告書によると、済州島は太平洋戦争末期、「米軍の(日本)上陸を阻止するために6万人の日本軍が駐留する戦略基地」であった。そして「終戦直後には日本軍の撤収と、(日本を含む)外地に出ていた済州島民6万人の帰還により急激な人口変動があった」としている。

さらに、「帰還人口の失業、生活必需品の不足、コレラによる数百人の犠牲、ひどい凶作などの悪材料が重なり、米穀政策の失敗、日帝(時代の)警察の軍政警察への変身、軍政官吏の不正などが大きな社会問題となる中、1947年3月1日の発砲事件があった」と背景を説明する。その後の展開は冒頭にまとめた通りだ。

こうした中、時の李承晩政権はもちろん、米軍政にも責任が明確に問われている。先の報告書では「この事件は米軍政下で始まり、米軍の大尉が済州地域の司令官として直接に鎮圧作戦を指揮した。米軍は韓国の樹立以後も米韓間の軍事協定により韓国軍の作戦統制権を保持し続け、済州鎮圧作戦に武器と偵察機などを支援した」と明記されている。

「済州4.3平和財団」の梁祚勲(ヤン・ジョフン)理事長。地元紙の記者出身で、「済州4.3事件」の真相究明に尽力してきた。3月16日、筆者撮影。
「済州4.3平和財団」の梁祚勲(ヤン・ジョフン)理事長。地元紙の記者出身で、「済州4.3事件」の真相究明に尽力してきた。3月16日、筆者撮影。

筆者が3月16日から17日にかけて、ソウル外国人特派員協会主催の「4.3ツアー」に参加し済州島を訪れた際、「済州4.3平和財団」の梁祚勲(ヤン・ジョフン)理事長は「70周年を迎え、米国の責任を問うために10万人の署名運動を行っている。米国は謝罪を行うべきだ。そのための資料を確保するために力を注いでいる」と明かした。米国の公文書から「証拠」を探そうと、同財団の研究員が米国に滞在しているという。

だが、この日、米国への責任追及は大統領の口からは聞かれなかった。

識者は評価も今後の課題を指摘

今回の70周年式典には日本からも「4.3事件」遺族をはじめ、韓国の現代史に関心を持つ学生まで様々な背景を持つ約250人が参加した。叔父が事件の犠牲者でもある在日本済州四・三事件犠牲者遺族会の呉光現(オ・グァンヒョン)会長は3日、筆者との電話インタビューで、式典の様子をこう振り返った。

「玄基栄さんのスピーチが特に良かった。毎年、4月3日には済州島を訪れているが、ここ数年では国務総理が訪れ『経済発展』の話をする程度だった。それが今年は文在寅大統領が来て、『4.3』について全面的に展開するような演説をし、国家の責任についてメッセージを発した点は評価できる。また、(在日コリアンで済州4.3を扱った作品で有名な)金石範の名前を演説にきっちり入れてくれた。思わず涙が出た。また、文大統領が人の輪の中に入っていき握手を求める姿も印象的だった」。

島のあちこちには慰霊碑が建てられている。写真は300人以上が犠牲となった「北村里」に建てられたもの。3月16日、筆者撮影。
島のあちこちには慰霊碑が建てられている。写真は300人以上が犠牲となった「北村里」に建てられたもの。3月16日、筆者撮影。

さらに、今後の課題としては以下のように語った。

「(当時、米軍政下での)米国の責任をどう追及していくのか、文大統領も述べた『和解と相生』をどう実現していくのかなど先は長い。例えば、武装蜂起隊のリーダーなどを犠牲者と認定するのかの問題がある。民間人を虐殺した者も遺族として認められている中、生き延びるために住民を襲った蜂起側の大義名分が失われると思わない。さらに、加害者である軍警が被害者に謝罪をし、和解に進むプロセスが必要だ」。

その上で呉さんは「それでも一歩一歩先に進んでいる」と全体をまとめた。

一方、済州島出身で「済州4.3研究所」で研究室長を務める金恩希(キム・ウニ)理事もやはり3日、筆者の電話インタビューに対し「大統領の演説は、遺族の心を癒やしてくれる演説だった」と語った。なお、「4.3事件」の遺族の中では2003年10月の盧武鉉大統領(当時)による大統領としては歴史上はじめての謝罪が「感激と熱狂をもって受け入れられた」(金理事)という。それに比べ、文大統領の演説は「冷静だが希望のもてるもの」(同)だったという。

しかし、金理事は専門家としての立場から「まだ未解決の部分が多い」と指摘する。

「賠償、補償の問題もそうだが、『アカ』とレッテルを貼り、人格を無視した点を修正するべき」とし、「(公務員登用などで)個人の身元照会をする場合に使われる『済州4.3に関連者』リストが存在する。これを現政権のあいだに削除するか封印してほしい。政権が変わるとまた何が起こるか分からない」と具体的に提案した。

なお、今後の焦点の一つとなっている米軍への責任追及については「民間の次元で着実にやっている。今はデータを蓄積している段階」と述べるにとどめた。10万人を目標としている署名運動には、「現在2万人が署名した」という。

「4.3事件」のさ中の49年1月、銃弾により下顎を失ったチン・アヨンさん。生涯、傷跡を布で隠し「4.3事件」の苦痛を象徴する存在として知られた。生前の住居は一般に開放されている。3月17日、筆者撮影。
「4.3事件」のさ中の49年1月、銃弾により下顎を失ったチン・アヨンさん。生涯、傷跡を布で隠し「4.3事件」の苦痛を象徴する存在として知られた。生前の住居は一般に開放されている。3月17日、筆者撮影。

国家による暴力を越えて

やむに止まれぬ武装蜂起から始まり、国家による民間人の虐殺に発展し、多くの無辜の死者を出した「済州4.3事件」は、分断を象徴する出来事として、朝鮮半島の現代史に濃い影を落としている。見てきたように、今なお解決は未完にとどまっている。

3日、済州島で式典に参加した最大野党・自由韓国党の洪準杓(ホン・ジュンピョ)代表は自身のフェイスブックに「(式典は)左翼の暴動により犠牲になった良民(民間人)のための行事」、「自由大韓民国が体制の危機に瀕している」と書き、大きな批判を浴びた。

先に引用した「真相究明委員会」による報告書によると、委員会に申告された14,028名の犠牲者のうち、約8割が「討伐隊」と呼ばれる政府側によって殺されたとされる。この点だけでも洪代表の主張は事実と異なる。この一件からも分かる通り、国家による暴力という本質から目をそらし、「アカの反乱」とレッテルを貼る動きは今も後を絶たない。

このため今も、「済州4.3事件」は「事件」のままであり、正式な名称を持てずにいる。「済州4.3平和記念館」には今も白碑が横たわったまま、歴史の評価を待ち続けている。

「済州4.3平和記念館」入り口に置かれた石碑。「事件」ではない正式な名称はいつ刻まれるのだろうか。3月16日、筆者撮影。
「済州4.3平和記念館」入り口に置かれた石碑。「事件」ではない正式な名称はいつ刻まれるのだろうか。3月16日、筆者撮影。

「済州4.3」は筆者の周囲の同年代の30~40代に聞いても、なかなか話題にならず、なったとしても正確にどんな話か知らない人が多い。この点でも「民主化運動の象徴」とも言うべき光州民主化運動(80年)などと比べ、その位置付けがあやふやなままだ。

朝鮮半島の分断70年は、東西冷戦とその残照に翻弄され続けてきた、暴力と破壊の70年でもあった。「4.3」をはじめ、朝鮮戦争、ベトナム戦争参戦、光州民主化運動、87年「6月抗争」、果ては南北の数十回にわたる交戦などで、たくさんの血が内外に流れた。

冒頭の小説家・玄基栄氏の追悼辞にもあったように、今回の「済州4.3事件」70周年は、久しぶりに訪れた南北和解の機会や、はじめての米朝首脳会談を控え、受け止める人々に様々な想いを抱かせているようだ。

「済州4.3事件」の犠牲者のうち、3分の1は老人と女性、そして子ども達だった。時と形を変え人々に影響を及ぼし続ける国家による暴力。犠牲となるのは常に最も弱い人々であることを「4.3」は静かに語り続けている。

そして韓国社会はこの悲劇を乗り越え、新しい未来へと向かおうとしている。