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患者の治療拒否が死を意味するとき:公立福生病院の事件と「ダックスのケース」

児玉聡京都大学大学院文学研究科准教授
人工透析器の写真(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロ)

 公立福生病院の透析中止の事件に関して、調査を行っていた日本透析医学会がステートメントを出した。問題となっていた44歳の末期腎不全の患者の透析治療中止に関して、患者の「意思が尊重されてよい事案」と判断したという内容だ。

 「末期腎不全」といっても、透析を続けるか、腎移植を受ければ、まだ少なくとも数年は生きられた患者だったため、患者は終末期ではなかった。治療を尽くしても数週間ないし数ヶ月で死亡するような終末期の患者の治療中止の是非については、国内でもここ15年ほど議論がなされている。だが、終末期でない患者の治療中止は日本ではほとんど議論されていない領域だ。日本透析医学会がこの点に踏み込んで見解を述べたことは高く評価できる。

 その一方で、気になる点が二つある。一つは、どのような状況であれば患者の治療中止の意思を尊重するのかについて、上記ステートメントは明確な基準を示していない点だ。ステートメントでは、「本症例は、同程度の年齢の他の透析患者さんと比較して、重篤な心・血管系合併症を有しているとのことから、また、内シャント不全を繰り返していることとカテーテルを用いた血液透析を希望していないことから、血液透析を継続するのは臨床的に困難な状況とも推測されました」と述べ、このような「臨床的諸事情」を踏まえた場合は治療中止が考慮されうるとしているが、どのような臨床的諸事情がある場合に治療中止を考慮してよいかが不明確である。この点について、今後作成予定とされる提言で明確にしなければ、臨床現場の混乱が予想される。

 もう一点は、患者の治療拒否の権利をどこまで尊重するつもりがあるかという点だ。上記ステートメントでは、「これら臨床的諸事情を鑑みると、患者さんが自ら血液透析終了の意思を表明しており、その意思が尊重されてよい事案であると判断しました」(強調筆者)とある。しかし、「意思が尊重されてよい」というだけであれば、論理的には、患者の意思を尊重して中止しても、尊重せずに継続してもよい。つまり医療者がどちらの選択をしても間違っていないということだ。だが、もし患者が治療を拒否する権利を持っていると考えるのであれば、ここは「意思を尊重するべき事案」であると強く述べる必要があるだろう。つまり、今回の事例において患者の意思に反して治療を継続したとしたら、それは間違っていたということである。患者の治療拒否権について、上記ステートメントは明確に述べていない。

 ここで問題になるのは、はたして患者に治療を拒否する権利があるのか、ということだ。たとえ、治療の拒否によって死ぬ可能性が高いとしても、患者は治療を拒否することができるのだろうか?

ダックスのケース

 ここでダックス・カワート(コワート)のケースを簡単に紹介したい。これは米国流の生命倫理学で学ぶ代表的事例で、筆者も何度もビデオを見た。現在は日本語版のDVDも出ている。強烈な印象を残す内容で、一度見たら忘れられない話だ。英語だが、ニュースクリップでも概要を知ることができる。

(なお、この場合の「ケースcase」は、「事案」という意味と「主張」という意味がかけてあると思われるため、「ケース」としておく)

 概要は少し長いが以下の通りである。1973年、ベトナム戦争帰りの25歳の青年ドナルド(ダックス)・カワートは、不動産を経営している父親とテキサス郊外の土地を購入するために車で下見に行った。帰るさい、不調だった自動車のエンジンがかかったとたん、付近のプロパンガスのパイプから漏れていたガスに引火し、辺りは火の海になった。父親はその場で倒れたが、ダックスは火に包まれながらも1キロ近く離れたところまで助けを呼びに行った。全身に重度の熱傷(やけど)を負った彼と父親は、救急車で搬送されたが、父親は搬送中に死亡した。

 病院では彼は当時最新の熱傷治療を受けることになった。しかし、それは激烈な苦痛を伴うもので、なかでも感染症予防のために全身を漂白溶液のタンクに浸す治療は、モルヒネ麻酔をしていても全身に激痛を覚えるものだったという。そのため、ダックスはかなり早い段階から何度も治療拒否の意思を医師や看護師に表明したが、まともに取りあってもらえなかった。さらには、精神科医に精神鑑定を受け、理性的な判断能力があるとも判定されたが、結局治療を中止してもらうことはできなかった。

 ダックスは熱傷により両手の指をほぼすべて失っていただけでなく、両目、鼻、唇、耳なども失っていた。皮膚移植などによって顔面の修復を行い、14ヶ月後に退院した。彼はしばらく鬱や睡眠障害に苦しみ、二度の自殺未遂も経験したが、その後、弁護士資格を取得し弁護士として成功した。また、患者の治療拒否権を擁護して、多くの講演を行った。

 ダックスは3度の結婚も経験し、本人も認めるように成功した人生を送っていた。だが、それでも自分の熱傷治療に関して治療中止が認められるべきだったという考えは変わらなかった。彼は、仮に治療を我慢して生き延びれば成功する人生が送れるとわかっていたとしても、治療を強制されるのは間違っていたと主張していた。

 この話を思い出したのは、つい最近、ダックス・カワートが71歳で亡くなったからだが、ダックスのケースは、患者の治療拒否の権利を考える上で、今日でも貴重な示唆を与えるものと言える。

治療拒否権とインフォームド・コンセント

 ダックスは、自分は死ぬ権利を主張していると思われがちだが、個人の自己決定権を主張しているのだ、と述べている。つまり、彼はいわゆるインフォームド・コンセントの考え方を主張していると言える。

 インフォームド・コンセントは、患者が医療者から説明を受けたうえで、治療に同意することである。だが、米国の生命倫理学の教科書(たとえばビーチャムとチルドレスの『生命医学倫理』)を見ればわかるように、そこには治療への同意だけでなく、治療の拒否(インフォームド・リフューザル)も含まれている。

 日本でも、医学研究では、研究参加者はどの時点でも同意を撤回できると説明文書に書いてある。だが、治療に関しては治療の拒否が十分に尊重されているとは言いがたい。とくに、人工呼吸器や透析などの命に関わる治療に関しては、一度始めると止められないという発想がある。インフォームド・コンセントの考え方が中途半端に輸入されたため、生死に関わる治療に関しては患者には同意する権利はあっても拒否する権利はないと考えられている。公立福生病院の事案がメディアで大きく取り沙汰されたのも、このような背景があるからだ。

 患者が治療を望まないとき、医療者が治療を中止することは殺人や自殺幇助に当たるだろうか。現状では、患者の自己決定に基づく治療中止を明示的に認める法律がないため、訴訟が起きる可能性はあるだろう。しかし、患者が望まない治療を同意なしに行うことは、患者の意思を尊重するという倫理原則に反する。この点を明記するような学会ガイドライン・法律が策定されることが強く望まれる。

 もちろん、前提として、患者の判断能力の評価が必須である。とりわけ生死に関わる治療の決定に関しては、主治医とは異なる医師による判断能力の評価が必要だろう。

いかなる手段を用いてでも生きるべきか?

 最後に、一つの思考実験を示して終わりたい。公立福生病院の事例でも、ダックスのケースでも、患者は、激しい苦痛を伴う治療を続けるぐらいなら治療を拒否して死を選んだ方がましだ、という決定を行っていた。このような死を選ぶ決定は、非倫理的だろうか? 生きるという目的が良いものであるとしたら、我々はいかなる手段を用いてでも生きるべきだろうか? この点を考えるために、次の二つの事例を比較して考えてみてもらいたい。

(1)私が生きるためには、地獄の業火に焼かれるような経験をあなたにしてもらわなければならない。しかしあなたはそれを望んでいない。

(2)私が生きるためには、地獄の業火に焼かれるような経験を私自身がしなければならない。しかし私はそれを望んでいない。

 もし(1)が非倫理的だとしたら、(2)も非倫理的ではないだろうか? 仮に(1)の場合に、私を助けるためにあなたが地獄の業火に焼かれるような経験を買って出るのであれば、必ずしも非倫理的ではないだろう。それは(2)の場合でも同様である。しかし、我々は自分が生き残るために他人を無理やり犠牲にすることは認めていない。つまり、自分が生きるためと言えども、あらゆる手段を取ってよいとは考えていない。だとすれば、(2)の場合でも、本人の意思を尊重すべきではないだろうか。ダックスの主張も、私の考えでは、同じことを述べていると思われる。

京都大学大学院文学研究科准教授

1974年大阪府生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程研究指導認定退学。博士(文学)。東京大学大学院医学系研究科医療倫理学教室で専任講師を務めた後、2012年から現職。専門は倫理学、政治哲学。功利主義を軸にして英米の近現代倫理思想を研究する。また、臓器移植や終末期医療等の生命・医療倫理の今日的問題をめぐる哲学的探究を続ける。著書に『功利と直観--英米倫理思想史入門』(勁草書房)、『功利主義入門』(ちくま新書)、『マンガで学ぶ生命倫理』(化学同人)など。

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