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111年前の今日、4名の少女はなぜ溺れなければならなかったのか? 安曇野少女の悲哀と家族の憤怒

斎藤秀俊水難学者/工学者 長岡技術科学大学大学院教授
少女らが渡ろうとした烏川。手前に供養の石積み、奥には穂高岳がそびえる(筆者撮影)

 水難事故の悲劇は繰り返されるものだ。先日、男子中学生が川で溺れた長野・安曇野の水難事故の現場からそう遠くない川で、今から111年前の4月の今日、奇しくも4人の女子生徒が溺れた。この2つの事故をつなぐ「何か」を地元紙・信濃毎日新聞社の協力を得て探った。

明治45年4月24日に悲劇は起こった

 4人の尋常高等小学校の女子生徒が川で流されて溺れた。水難事故発生から2日が経過した日の信濃毎日新聞の紙面では、悲哀に満ちた事故現場の混乱を父兄(家族)の憤怒の様子を交えて次のように伝えた。

父兄は急報に接して川原に駆け付けたり生徒が溺れて死んだとの話しに当該父兄以外のものももしや自分の子弟にあらずやとて川原に飛び付けたるもすこぶる多くの川原には人山を築きたり。其の中に溺死者の父兄は人の見る目もかまわず死体に取りつき又は抱き挙げ今朝機嫌能く家を出たるに此の有様は何事ぞ、生かせて返せ戻せと云わぬばかりに泣き悲しみ。

(信濃毎日新聞 明治45年4月26日「川流れ詳細」)

 111年の時が経ち、現在の川原の様子がカバー写真のようである。女子生徒らは写真の右側(左岸)から左側(右岸)に徒歩で渡ろうとした。

 筆者が川原に下りてみると、砂利が織りなす平地にはいくつもの石積みが悲しげに空に向かって伸びていた。奥の景色にはまだ残雪が白い穂高岳が青空に突き抜けている。その残雪は夏に向かってやがて融けて、この烏川の流れとなって下りてくることだろう。

 上流にダムが作られて、当時と今では川の流量は大きく異なる。とは言え、人が流されて命を落とすようには見えない川の流れだ。その流れを見つめながら、女子生徒らはなぜ溺れなければならなかったのか、様々な疑問が頭の中で交錯した。地元紙である信濃毎日新聞社、安曇野市教育委員会の協力を得て疑問を解くことにより、111年後のせめてもの供養としたいと犠牲者に誓った。

春の安曇野を探る

 水難事故とは、その日の出来事が廻り廻って行き着くものだ。溺れた女子生徒らの足跡をたどることで見えてくるものがある。

 令和5年4月のある日、筆者の探索の出発点は有明山神社だった。霊峰・有明山は、そもそも天照大神の籠った岩戸を田力雄命が投げとばしてできたと伝えられている。神社がその麓に里宮として造営された年が第八代孝元天皇5年。歴史の古い神社だ。

 111年前の4月24日、当時の南安曇郡有明村に位置する有明山神社から同郡東穂高村尋常高等小学校の4名の少女の足跡は始まる。

二十四日午前は天気あしからざりしを以て校外教授として(8名の氏名、省略)の諸氏が三百余名の生徒を引率して有明村有明神社(ママ)に至れり斯くて有明発電所を参観したるに十二時頃より天候険悪となりたれば有明学校に休息し、後自由行動を取ることをしたり先発白井氏隊は午後三時過ぎ、徳武氏隊は午後五時過ぎ帰校したるも途中においてこの大惨事を生じたるを以て此の旨丸山校長に報告し校長は父兄長及び駐在所巡査に急報し、飯島、村上両医師現場に出張したるも已にこと切れ居たりいかんとも為す能はざりしなりと徳武氏は涙ながらに語りたり。

(信濃毎日新聞 明治45年4月26日「川流れ詳細」)

 有明山神社からの足跡を図1を参考にしながら追ってみよう。図1の左上にある「有明山神社」は標高742 m、そこから6 km以上離れている「明治45年水難事故現場」の標高は587 mで、その標高差は155 mだ。実際に車で神社から事故現場に走ってみると、なだらかにほぼ下る一方である。ただ、2点の間がやたらと遠くに感じるのは、歩く機会がほとんどない現代人・筆者の悲しい所存か。

図1 女子生徒らの当日の足跡(尋常高等小学校の位置は安曇野市教育委員会の調査により確定、Yahoo!地図をもとに筆者作成)
図1 女子生徒らの当日の足跡(尋常高等小学校の位置は安曇野市教育委員会の調査により確定、Yahoo!地図をもとに筆者作成)

 女子生徒ら300名におよぶ遠足集団は、①のルートに従って有明山神社から歩いて15分ほどの所にある有明発電所に立ち寄り、見学をしている。この発電所は100年以上の時が流れた現在も稼働中の中部電力宮城第一水力発電所だ。同発電所の運用開始は明治37年なので、この地にて比較的早く電気の恩恵を受けることになった明治45年の当時の子供たちにとって、稼働からまだ8年程の発電機は最新技術の固まりと目に映ったことだろう。

 この発電所の見学後、②のルートをたどって有明尋常高等小学校(有明学校)に遠足集団は到着し、悪天候の中休息することになった。そしてここで自由解散となり、生徒たちは思い思いに自宅へ戻ったのだろう。

 先発白井氏隊は午後3時過ぎに終点の東穂高尋常高等小学校に到着した。続いて徳武氏隊は午後5時過ぎに帰校したが、その帰路において水難事故が発生したのだ。女子生徒らは有明尋常高等小学校から④のルートを通り、家への近道をするために烏川を川の中に入って渡ろうとしたようだ。次に生き残った生徒の証言を示す。

四人と共に川を渡りしも幸ひにして生き残れる生徒。五人で烏川の岸まで来ましたところ不断とは異なって水が出ておりました。依って廻り道をして帰ろうと云ひましたが四人共近道を行かう雨が降って着物が濡れるから此処を渡りませう。此処を渡れば直ぐ家だと云って私の云ふことを聞きませんでした。そうして下駄を履いたまま四人手を引き合って川に這入り始めましたが水は腰までつきました。

(信濃毎日新聞 明治45年4月26日「川流れ詳細」)

 いよいよ「核心に入ったか」と言うところ。気象庁の過去の天気データを確認すると、松本の4月24日の一日の降水量は23.8 mmだった。この前後の数日で2ケタの降水量の日はないので、比較的多くの雨が午後から降り出したと推測できる。お昼過ぎの突如の雨は、少女たちを近道に走らせたきっかけでもあっただろう。

 烏川は水温がたいへん低くて昔から有名だ。この周辺の田畑に用水を引くのに、烏川の上流に頭首工(取水口)を作り、なだらかに傾斜する斜面に用水路を引き回して日光の力でできるだけ水温を上げて、それから農業用水に使ったほどだ。そのままの川の水温では農業用水に使えなかった。

「具体に水温は何度か。」筆者は足跡をたどる中で、烏川の水温を測った。その結果、8.3度だった。この日は暑い日で測定時の気温が26.7度まで上昇していたから、この水温は如何に冷たかったかがわかる。手を流れに入れるとすぐに痛くなり30秒も水に入れていることができなかった。

「気温に騙されたか。」明治45年の4月は今年と同じように暑い日があって、13日から松本の最高気温は20度を超えはじめ、21日には最高気温が28.6度に達した。これでは少女たちが「夏が来た」と勘違いしてもおかしくない。

 ただ、水温は当時も10度を割っていたと思われる。そうすると足を入れてすぐに足に痛みが広がって、下駄を履いたままではすぐに足元がおぼつかなくなったことだろう。続いて、

川の巾は三間位でありました。少し歩くと真っ先に立ったウメヨさんが転びつづひて三人がばたばたと転びました。私は下駄を脱いで袴を腰までまくって川に這入りました。ウメヨさんは少し流れて引っかかって居ましたから傍らに行って ウメヨさん ウメヨさん と呼びましたが返事をしません。

(信濃毎日新聞 明治45年4月26日「川流れ詳細」)

 下駄を履いていた4人はばたばたと転んだのに対して、生き残った女子生徒は下駄を脱いで川に入ったので転ばなかったとも解釈できる。図2に現在の川原の様子を示す。丸い石と砂の混在物で、要するにぐらつく石の上に乗りながら歩かなければならなかったのではないか。川の水流に切り取られて水面に向かってほぼ垂直に混在物が切り取られているので、あるいは崩れ砂とともに川に吸い込まれたかもしれない。

図2 少女らが渡ろうとした川、対岸の川原が丸い石と砂からなっていることがわかる。川原が水面に対してかなり急な角度で落ち込んでいて、これも歩いた時に流されるきっかけとなる(筆者撮影)
図2 少女らが渡ろうとした川、対岸の川原が丸い石と砂からなっていることがわかる。川原が水面に対してかなり急な角度で落ち込んでいて、これも歩いた時に流されるきっかけとなる(筆者撮影)

 水温が10度を下回れば、流されて全身が水に浸かった際に直ちに身体が動かなくなる。比較的短時間の後に「ウメヨさん」と呼んでも返事がなかったというくだりは、冷水のためにウメヨさんの身体が直ちに動かなくなったとすれば合点がいく。

令和5年の水難事故

 図2に示したように、明治45年の水難事故現場から東に5 kmほど行ったところで4月16日の午後、市内を流れる犀川で友人と水遊びをしていた中学1年の男子生徒が溺れ、病院に搬送されたが、その後、死亡が確認された。

 中学生はほかの友人3人と川岸で釣りや水遊びをしていたということだった。筆者は、烏川の事故現場を視察した後、この水難事故現場も調査した。

 現場は長野県水産試験場のすぐ近くで、土手の上から水産試験場の池を見ると、かなりの数の魚が泳いでいるのが見えた。その土手をはさんで逆側が中学生が沈んだとされる川の現場だ。現場の写真を図3に示す。

図3 土手の上から事故現場を眺めた。左に写っているのがよどみに突き出した岩の突堤。右が犀川の下流で、左手の上流からの流れと右手の下流側の流れとがこのよどみでぶつかっている(筆者撮影)
図3 土手の上から事故現場を眺めた。左に写っているのがよどみに突き出した岩の突堤。右が犀川の下流で、左手の上流からの流れと右手の下流側の流れとがこのよどみでぶつかっている(筆者撮影)

 土手の上から見ると、現場は犀川の本流から分離したよどみになっていた。上流からは犀川本流よりわずかに水が流れ込んでいて、かなりゆっくりではあるが、よどみの水は下流側に向かって流れていた。

 土手から川の中に向かって岩の突堤が作られていて、この突堤を伝ってよどみの中に近づくことができる。よどみの川底は目の細かな砂で、ところどころに水深の浅い砂嘴ができていた。図3の中央付近に岩の突堤から右方向に延びる砂嘴の一部が見て取れる。その砂嘴からよどみの中心に向かって川底が急に深くなっていて、水深は2 mほどに落ち込んでいた。

 溺れた直接的な原因については現場を見ただけではよくわからなかった。ただ、今年の安曇野市の気温は最高気温で20度を超える日が3月9日(20.8度)から4月16日の間に多数あり、4月16日の最高気温も20.6度で水辺に近づきたくなる季節にすでに入っていたと思われる。

 筆者が現場に入った日には最高気温が28.9度で汗ばむような陽気、現場の水温は15.4度だった。水温は冷たいのだが、自転車をこいで現場に来た中学生が足を入れてみるのにはちょうど良かった水温だったかもしれない。

水難事故をつなぐ「何か」

 妖怪がいたわけでもなく、この2つの水難事故をつなぐ「何か」とは、気温と水温だ。4月になると安曇野では日中の最高気温が20度を超える日が急に増えてくる。その一方で、川の中はまだ冬の装い。気温と水温の差がたいへん大きく開いている。

 冷たい水の中で歩こうとすれば動きはそのうち鈍くなるし、水中に崩れ砂でもあればより深い所に沈み込んでいくことになる。一度身体が冷水に浸かってしまうと、ほどなく冷えで全身が動きにくくなり、水の中から自力で這い上がることもかなわなくなる。ここは、夏の川遊びと断然違う。

 これから5月の大型連休にかけて、不用意に冷たい水に入りそのまま自ら上がってこなくなる水難事故が多発する。暑いからといって水に入らず、陸の上から川の涼しさを見て楽しむ程度にしたいところだ。

 特に子供たちには「川に絶対に近寄らない」ように口を酸っぱくして言って聞かせてあげてほしい。

※本稿中で使用した明治45年の記事については、信濃毎日新聞社に特に調査していただき提供された。ここに感謝申し上げる。

※本調査の一部は、日本財団令和5年度助成事業「わが国唯一の水難事故調査 子供の単独行動水面転落事故を中心に」により行われた。

※本稿中の気温データについては、断りがなければ気象庁アメダスデータによる。

水難学者/工学者 長岡技術科学大学大学院教授

ういてまて。救助技術がどんなに優れていても、要救助者が浮いて呼吸を確保できなければ水難からの生還は難しい。要救助側の命を守る考え方が「ういてまて」です。浮き輪を使おうが救命胴衣を着装してようが単純な背浮きであろうが、浮いて呼吸を確保し救助を待てた人が水難事故から生還できます。水難学者であると同時に工学者(材料工学)です。水難事故・偽装事件の解析実績多数。風呂から海まで水や雪氷にまつわる事故・事件、津波大雨災害、船舶事故、工学的要素があればなおさらのこのような話題を実験・現場第一主義に徹し提供していきます。オーサー大賞2021受賞。講演会・取材承ります。連絡先 jimu@uitemate.jp

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