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冷たい巨大津波に流され生還した安倍淳氏が次の世代に伝えたいこと、命の守り方 #知り続ける

斎藤秀俊水難学者/工学者 長岡技術科学大学大学院教授
水難学会ドライスーツ冷水入水体験会で指揮を執る安倍淳氏(筆者撮影)

動画1 ドライスーツ冷水入水体験の様子。水温は0.5度で、ところどころ氷が張っている(筆者撮影 25秒)

「はい、これから背中をプールに向けて足からゆっくりと水に入ってください。水はドライスーツの中に漏れてきていませんか?漏れてきたら、声を出して知らせてください。」

 東北地方のとある小学校のプールを借用して、安倍淳は3人の若い消防職員を相手に冷水入水を指導していた。バリバリの救助隊員として日頃から体を鍛えている消防職員らにとっても、薄手のドライスーツを着装して冷水に入るのは初めてのことだ。

 黄色のドライスーツは防水ナイロン生地で、薄さ1 mmにも満たない。断熱性はほぼないに等しい。その代わりにドライスーツの下には、普段使いの厚手の防寒用ジャケットを着用しているので、身体に対する冷水の直接攻撃はほぼない。頭には断熱のために専用の黒いフードを密着させている。

「薄い氷が張ってますが、気にしないでください。水温は0.5度はありますから。」

 きっと「氷の張る0度よりは温かい」と安倍は言いたいのだろうが、冷水体験者にとってはその言葉が自分らの緊張を解いてくれるわけではない。

「これから私の合図で冷水の表面で背浮きのポーズを取ります。」

 気温が3度の中で、冷水に浸かっている安倍の指示は白い蒸気となって広がって消えた。陸上でその様子をカメラで撮影している筆者の手は寒さですでにかじかみ、小刻みに震えていた。

「はい、スタート。」

 体験者たちは、静かに背中を水に浸けて図1のように背浮きの状態になった。これからしばらくは0.5度の冷水の表面で背浮きにて時が経つのを待つことになる。

図1 黄色の服装がドライスーツ。足先は袋状になっていて、手首と首にはスーツが密着して、いずれも水がスーツ内部に浸透しないようになっている。手袋と頭のフードは冷水中で使用できる専用のもの(筆者撮影)
図1 黄色の服装がドライスーツ。足先は袋状になっていて、手首と首にはスーツが密着して、いずれも水がスーツ内部に浸透しないようになっている。手袋と頭のフードは冷水中で使用できる専用のもの(筆者撮影)

冷たい巨大津波から生還した安倍

 2011年3月11日午後4時前。安倍は東日本大震災の震源に近い、宮城県東松島市の野蒜(のびる)海岸の河口から上流に向かって川を津波によって流されていた。

 水温は4度くらい。気温もそれくらいに冷え込んでいた。雪が舞っていた。

 安倍と妻の志摩子は、壊れて廃材と化した安倍の経営する会社の社屋とともに、かなりの速度で上流に遡っていた。それくらいに巨大津波の威力は凄まじかった。

 社屋は、吉田川の河口付近から流され始めた。海水に「ボン」という音と共に浮き上がり、流れにのった社屋の中で安倍と志摩子はイマーションスーツを、まるでくまモンの着ぐるみのように身に着けた。安倍がまず志摩子のスーツのすべてのファスナーをしめた。次に自分のスーツのファスナーをしめている時に、想像を絶するようなことに遭遇した。

 社屋は吉田川を遡上している最中に、多分JR仙石線の橋梁に当たって砕け散った。安倍はその時に気を失い、廃材と化した社屋の一部にもたれかかっていた。川の中に投げ出されたのか、身体の大部分は冷水に浸かり、川面に浮いた廃材とともに吉田川の上流に向かって逆流していた。そのうち、意識を取り戻し志摩子に手伝ってもらいながらなんとか浮かんでいた板の上に這い上がることができた。

 安倍は、震災当時から潜水工事業を営んでいる。冷たい海の中でプロダイバーとして潜って港湾工事などを手掛けている。海のことならなんでも知っているはずだった。

「後で家内から、これが津波か、これが津波か、と廃材と化した社屋の床の上で震えながらつぶやいていたと聞かされたんですよ。」

 橋梁に衝突した衝撃で、その時のことは完全に忘れている。というか、やはり廃材と化した床の上に座り込みながら、意識は半ば失っていたのかもしれない。

「家内は寒くなかったんですね。私(安倍淳)は着ていたイマーションスーツのファスナーが完全にしまっていなくて、スーツの中に冷水が入ってきた。寒いどころか冷たかった。ところが家内のスーツはしっかりファスナーがしまっていたので、スーツの中が保温されていたんですね。」

 後になって考察すると、身体に直接冷水が触れるか、触れないかが、その後の生命の維持にとって大きな分岐点になることがよくわかった。

「洪水と違って、巨大津波は夏冬関係なく襲ってくるんですよ。せっかく水から上がることができても、氷点下に達する厳しい夜の冷え込みの中で朝を生きて迎えられなかったのだろうという人を被災地で見ました。」

【参考】妻として母として大津波に流された3.11 失敗し、そして生き抜いた日

知床観光船の事故

 東日本大震災から11年が経過し、あの知床観光船の事故が発生した。

「水温が5度にも満たない春先のオホーツク海ですよ。小型観光船が消息を絶ったとニュースで知り、巨大津波の冷水を思い出しました。」

 保温性に優れているイマ―ションスーツですら、冷水が内部に入ってくれば刺すように痛みが走る。観光船が消息を絶った4月23日の夜は、安倍は船がどこかに漂流していることを願った。乗客・乗員が冷水にさえ浸からなければ、瞬時に命を奪われる最悪の事態は避けられ、救助を待つことができるからだ。

 その翌日の24日からメディアからの出演依頼が殺到した。「専門家としての意見が聞きたい、観光船に今なにが起こっているのか解説してほしい」と、メディアも事故に関する情報が少ない中で、専門家の解説をとるのに必死だった。

「一市民の自分が社会の皆様に解説するなどおこがましいが、やはり冷水対策の重要性を伝えられるのは実体験のある自分にしかできないと思い、できる限り引き受けました。」

 安倍は事故から1か月の間、一日4件くらいのテレビ出演をこなしつつ、小型船の性能、乗客の避難方法、冷水の恐怖、飽和潜水、船体の引き揚げなど、日頃の潜水工事業で培った経験と巨大津波から生還した体験をもとに、的確な解説に努めた。

「知床観光船の事故では、小さなお子さんも犠牲になったんですよね。それが本当に気の毒で。」

 安倍は現在、日本財団の補助を受けて、わが国で発生した子供の水難事故の調査を担当している。わが国では年間30人前後の中学生以下の子供の犠牲者が出ている中で、これまで全くと言っていいほど、水難事故に関しては正確な事故調査が行われてこなかった。でもひとつひとつの事故を現場でしっかりと調査すると、そこにはピンポイントで事故原因が存在するものだ。そして命の守り方も見えてくる。

「寒い季節に小型船が出航するなら、乗客と乗員は冷水対策として、ドライスーツを乗船前から普段着の上に着用すると良い。万が一の事故の時には冷水の中でもかなり(命が)持つし、子供であっても命を守るために特別なスキルはいらない」と安倍は知床観光船の事故以来、力説するようになった。

次の世代に伝えたいこと

「私(安倍淳)のことを慕ってくれた若い消防士が、閖上(ゆりあげ)で高齢者の避難誘導をしている最中に津波に飲み込まれたんですよ。そして自分は生き残っている。」

 安倍は自問した。救助隊も消防団も名取市閖上地区のように巨大津波の最前線では逃げる術がない。でもいよいよの時、津波にもまれながらも生き抜くことはできないだろうか。

 巨大津波に流された時、安倍の着用していたイマ―ションスーツは言わば全身着ぐるみだ。ファスナーをしっかりしめることができれば保温性が高くて冷水中でも長時間にわたり生命を維持することができる。その一方で、かなり取扱いに慣れていないと緊急時にすぐに着用することは難しいし、そもそも着用しながらの活動は無理だ。

 最近になり、薄くてそれ自身に保温性はないものの、水の浸入をしっかり止めることができるドライスーツが市場に出回り始めた。「シェルドライスーツ」と呼ばれる。普段使いの防寒着の上から着装できるので、少し練習すれば一人でも着脱が可能だ。価格も10万円を切る製品がでてきた。

「シェルドライスーツの可能性はどんどん広がると思います」と安倍。その言葉に感化されて筆者も購入したほどだ。

 その一方で課題もある。ドライスーツの信頼性はどこまで追求できるかという点だ。人が生命維持できる水温、例えば20度程度であれば、中に着用する服装の如何にかかわらず、濡れないで済むドライスーツの信頼性は生命維持にとって高いはずだ。ところが、水温が17度以下の冷水中では、どのような服装を薄手のスーツの内部に着こむべきか、科学的な知見がないのが現状だ。

「まずは冷水入水の経験がある消防の救助隊員からシェルドライスーツの着装を体験してもらい、そして体験をもとにして実験を組み、体温が奪われていく様子などを基礎データとしてとっていく。そういったデータから普及に耐えうるドライスーツの設計につなげたい。普及版は雨合羽の完全防水版程度のイメージ。当然子供も含め誰もが使えるようにしたい。」

 安倍は、誰もが直視してこなかった「冷水からの命の守り方」を科学的根拠に基づいて提案し、次の世代に伝えるために活動を始めている。

【参考】シェルドライスーツによる生命維持の原理について

 図2を使って冷水中における熱放出と断熱について説明します。

(a)セーターなどの普段着姿なら、入水とともに冷水が身体に向かって浸入してきます。冷水は身体に直接接触して、身体から熱を奪います。熱を奪った水がセーター内部に留まっていてくれれば実は生命維持にプラスに働くのですが、残念ながら熱を奪った水は、外部の冷たい水と入れ替わり、熱を冷水に放出することになります。皮膚から内部に渡って、どんどん身体が冷えていくことになります。

(b)ドライスーツを肌身に着ただけでも身体はゆっくりと冷えていきます。ドライスーツ自身に断熱の性能はないので、冷水はスーツを通してスーツ内部の空気を冷やします。冷やされた空気が対流で身体の表面に接触すれば、皮膚が冷やされます。逆に皮膚付近の体温で温められた空気はスーツに熱を運び、最終的には冷水に熱が放出されます。

(c)ドライスーツの内側に厚手のセーターを着込むと断熱効果が期待できます。スーツの内側で冷水によって冷やされた空気が身体に向かって移動しづらくなります。逆に体温によって温められた空気は皮膚付近で滞留するため、寒さを感じなくて済みます。

図2 シェルドライスーツによる生命維持の原理。(a)ドライスーツなしの状態、(b)ドライスーツを肌身の上に着装した状態、(c)セーターの上からドライスーツを着装した状態で熱放出の様子を示す(筆者作成)
図2 シェルドライスーツによる生命維持の原理。(a)ドライスーツなしの状態、(b)ドライスーツを肌身の上に着装した状態、(c)セーターの上からドライスーツを着装した状態で熱放出の様子を示す(筆者作成)

 その効果を実際に視覚化したのが図3です。表面温度を非接触で測定できる赤外線カメラ像で効果を確認することができます。

図3 赤外線カメラで0.5度の冷水にて背浮きしている様子を撮影。左図は厚手の防寒着をドライスーツ内部に着用。右図は薄手のトレーナーをスーツ内部に着用。黒に近い色が低温で白に近い色が高温(筆者撮影)
図3 赤外線カメラで0.5度の冷水にて背浮きしている様子を撮影。左図は厚手の防寒着をドライスーツ内部に着用。右図は薄手のトレーナーをスーツ内部に着用。黒に近い色が低温で白に近い色が高温(筆者撮影)

 図3では、いずれも成人がシェルドライスーツを着装して0.5度の冷水にて背浮きをしています。身体の胸腹側は水面より外に出ていますので周辺の色より明るい色(温度がより高い)となっています。

 最も温度が高いのは頭部で、フードの目出し付近で約25度です。つまり目の付近からの熱放出量が最も大きいことを示します。

 左図ではドライスーツの下に厚手の防寒着を着用しています。身体からの熱放出が抑えられているため、腹部付近のスーツの表面温度は4.1度でとどまります。

 一方、右図ではドライスーツの下に薄手のトレーナーを着用しています。身体からの熱放出があるため、腹部付近のスーツの表面温度は11.0度に達します。

 水難学会では今後、シェルタイプを主にドライスーツの信頼性について科学的データをもとに追求していきます。新製品の開発に向けて産官学連携のプロジェクト化を推進するとともに、ドライスーツ体験会を企画していきます。興味関心のある方は、水難学会事務局にお問い合わせください。

 本事業の一部は、日本財団令和4年度助成事業「わが国唯一の水難事故調査 子供の水面転落事故を中心に」の助成により行われました。

水難学者/工学者 長岡技術科学大学大学院教授

ういてまて。救助技術がどんなに優れていても、要救助者が浮いて呼吸を確保できなければ水難からの生還は難しい。要救助側の命を守る考え方が「ういてまて」です。浮き輪を使おうが救命胴衣を着装してようが単純な背浮きであろうが、浮いて呼吸を確保し救助を待てた人が水難事故から生還できます。水難学者であると同時に工学者(材料工学)です。水難事故・偽装事件の解析実績多数。風呂から海まで水や雪氷にまつわる事故・事件、津波大雨災害、船舶事故、工学的要素があればなおさらのこのような話題を実験・現場第一主義に徹し提供していきます。オーサー大賞2021受賞。講演会・取材承ります。連絡先 jimu@uitemate.jp

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