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ジャニーズのこれまでとこれから~ジャニー喜多川にとってのエンターテインメントとは? 

太田省一社会学者
(写真:アフロ)

 2019年7月9日夜、ジャニーズ事務所創業者であるジャニー喜多川が解離性脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血のため亡くなったことが同事務所から発表された。享年87歳。

 思えば、ジャニー喜多川はとても不思議な立ち位置にいた。本業はプロデューサーであり演出家。いわば裏方である。だが所属するタレントたちが口々に「ジャニーさん」エピソードを語り始め、「YOU、○○しちゃいなよ」という独特の口調が知られるようになると、私たち一般人のほとんどは本人に会ったこともないのに、その人となりをよく知っているかのような気持ちになっていた。

 その感じは、彼が築いたエンターテインメント自体にも当てはまるように思う。私たちは、そのエンターテインメントがどのようなものか、よく知っているようで知らない。だがそれは、現実に多くのファンに支持され、長年日本の芸能界の中心にある。

 では、ジャニー喜多川が追い求めたエンターテインメントとはどのようなものだったのか? そして今後ジャニーズ流エンターテインメントはどうなっていくのか? すでにおびただしいほどの報道が各メディアでなされているが、ここでは特にジャニー喜多川が生きた時代に目を向けつつ、できるだけ客観的な視点から考えてみたいと思う。

アメリカと日本の狭間で

 ジャニー喜多川は、生前出演したラジオ番組で自らの空襲体験を語ったことがある(NHKラジオ第一『蜷川幸雄のクロスオーバートーク』2015年1月1日放送)。

 戦争末期、十代のジャニー喜多川少年は和歌山市内でアメリカ軍による大規模な空襲にあった。多くの死体が周囲に転がっているなかを逃げ惑いながら、彼はアメリカで生まれ育った自分がアメリカ軍に攻撃される状況に「アメリカにいるはずの僕が」という割り切れない思いを抱いたという(同番組)。

 ジャニー喜多川には、もうひとつ戦争体験がある。1950年代の朝鮮戦争の際のこと。米国籍であった彼はアメリカ軍に徴兵される。そこで与えられた任務は、韓国で戦災孤児となった少年たちに英語を教えるというものだった。

 この二つの体験を並べてみると、そこにはジャニー喜多川という人間とアメリカとの一筋縄ではいかない関係が見えてくる。アメリカ軍から攻撃された体験を持つ少年は、その後アメリカ軍の人間として戦争の被害を受けた少年たちの教育に携わる。彼は、戦争における敗者でも勝者でもあった。

 ジャニーズ事務所創業の経緯にも、そうしたアメリカと日本の複雑な関係性は影を落としている。

 朝鮮戦争に従軍後日本に戻ったジャニー喜多川は、自分が住んでいたアメリカ軍関係者の居住施設であるワシントンハイツで少年野球チーム「ジャニーズ少年野球団」を結成する。そしてある日、チームに所属する4人の少年とともに当時大ヒットしていたアメリカのミュージカル映画『ウエスト・サイド物語』を見に行き、多大な感銘を受ける。そこでかねがねショービジネスに並々ならぬ関心を抱き、勉強もしていたジャニー喜多川は、その4人の少年とともにジャニーズ事務所を設立することを決意する。1962年のことだった。4人のグループ名はその名も「ジャニーズ」。そこから現在まで続くジャニーズの歴史は始まった。

 このように見てきてわかるのは、ジャニー喜多川はずっとアメリカと日本の狭間で生きたということだ。そこにあるのは、アメリカへの単純な憧れではない。アメリカに対する強い憧れを抱きつつ、一方で日本人としてオリジナルな表現を追求したいとするある種屈折した、だがとても切実な思いである。だからこそ、ジャニー喜多川は、同じミュージカルでも生涯オリジナルミュージカルにこだわり続けた。

なぜ、「少年」なのか? ~ジャニー喜多川の哲学

 たとえば、1969年のフォーリーブスによる初演以来、歴代のジャニーズ所属のタレントによって繰り返し演じられ、今年映画化もされたオリジナルミュージカル『少年たち』は、代表的作品のひとつだ。

 そしてそのタイトルにもなった「少年」という存在こそが、ジャニー喜多川の表現活動の常に核になるものだった。抑圧的な牢獄のような世界から逃れ、自由になるため少年たちが戦うという『少年たち』の基本ストーリーが示すように、ジャニー喜多川にとって「少年」とは、アメリカを直接のお手本としながら戦後の日本人が獲得した個人の自由を象徴する存在だった。

 そんな彼の思いがストレートに表れた場面がある。先ほどふれたラジオ番組で、演出家の蜷川幸雄が「(オーディションで)いい子だと思って残しておいたらちっとも成長しない子だっているでしょ?」と尋ねると、ジャニー喜多川は「いない」と即答した。そのきっぱりとした口調に蜷川は驚いていた。

 「成長しない子はいない」。ジャニー喜多川はそう断言する。彼のプロデューサー・演出家としての人生は、その命題を証明するためのものだったとさえ言えるだろう。例外なくひとは成長すると言い切り、蜷川幸雄をたじろがせるジャニー喜多川からは、「少年」という存在に託す並々ならぬ思いが伝わってくる。

 同じことは、ほかの点からも見て取れる。

 一時、ジャニーズのレッスンには歌や演技のレッスンはなく、ダンスしかないということが話題になった。リズム感が養われれば、演技などの基礎もできるといったジャニーズなりの基本方針である。しかし同時にそこには、少年本人に任せた成長を最優先しようとするジャニー喜多川の哲学が反映されていたのではあるまいか。ダンスは、歌や演技に比べて自己表現の余地が大きい。もちろん基本的な動きやステップの習得は大切だろうが、自らの身体を使ってより自由に個性を表現することがダンスでは可能だ。

 また「YOU、○○しちゃいなよ」という例の言葉遣いにも、やはり同様の哲学がうかがえる。「YOU」は、日本語では多くの場合省略される。「あなた」や「君」がなくても「○○しちゃいなよ」で通じるからだ。だから日本語の感覚では違和感があり、それが笑いを誘うネタになった一因でもあるだろう。

 だが「YOU」という呼びかけは、ジャニー喜多川が年齢に関係なくジャニーズの少年たちを一個の独立した対等な人格として認めている証拠でもある。だからそう呼びかけられた少年はただ指示を待つのではなく、自分ですべきことを考え、それを行動に移さなければならない。そうして培われる自主性が、成長の土台になる。

「舞台」か「テレビ」か~ジャニーズの内側にあったジレンマ

 そしてジャニー喜多川自身もまた、演出家として自由に発想し、それを実行に移した。ミュージカルなどジャニーズの公演には、実にさまざまな仕掛け、演目が登場する。空中ブランコや噴水のようなスペクタクルな仕掛けはもちろん、突然和太鼓が登場したかと思えば、エレキギターと三味線の競演が始まるといった調子だ。また音楽やダンスも海外の最新の動向を取り入れたものが披露される一方で、昔懐かしい美空ひばりや服部良一の歌謡曲が普通に歌われる。まさに、和洋折衷、新旧混合の極みだ。

 つまり、「なんでもあり」。言い換えれば無原則の原則。それがジャニーズ流エンターテインメントの本質と言っていい。また演出以外にも、意表を突くグループ名のネーミングセンスも「なんでもあり」の一端だろう。ジャニー喜多川は、自ら率先して「YOU、○○しちゃいなよ」の精神を実践していた。

 だがそうしたジャニー喜多川流のエンターテインメントは、原則的に舞台を念頭に置いたものだった。繰り返しになるが、ジャニーズの原点は『ウエスト・サイド物語』などのミュージカルであり、それを生んだアメリカショービジネスの世界だったからだ。

 一方、ジャニーズ事務所創業とほぼ時期を同じくして日本人の娯楽の中心になったのがテレビだった。ジャニー喜多川も、1960年代後半デビューのフォーリーブス以降はテレビを意識したプロモーションで、郷ひろみ、たのきんトリオ、少年隊、光GENJIなど歌番組、ドラマ、バラエティに頻繁に出演し、一世を風靡するアイドルを輩出していく。

 ある意味、テレビもまたさまざまな番組がジャンルを超えて交わり、「なんでもあり」を基本とするメディアである点で、ジャニーズ流エンターテインメントと相性は悪くない。また1970年代以降テレビを中心に発達した日本のアイドル文化も、出発点にオーディション番組『スター誕生!』(日本テレビ系、1971年放送開始)があったように少年少女の成長のプロセスを見せるものだった。その点でもまた、ジャニー喜多川の個々の成長を重視するタレント観は時代に合っていた。

 しかし、「舞台」と「テレビ」のあいだには根本的とも言える違いがある。それは、一言で言えばフィクションとドキュメンタリーの違いだ。基本的に舞台が非日常であるとすれば、テレビは日常。舞台では演者は与えられた役柄になりきって演じるのに対し、テレビでは素の魅力がむしろ求められる。その意味では、ジャニーズにとってテレビは必ずしも相性が良いものではなかった。

 そんなジャニーズとテレビとの間にあった悩ましい壁を突き崩したのがSMAPだった。SMAPは、ジャニー喜多川の「なんでもあり」の精神を受け継ぎつつ、テレビにおけるジャニーズ流エンターテインメントの開拓者となった。

 ちょうど『ザ・ベストテン』(TBSテレビ系)などテレビ各局の看板歌番組が終わった時期にデビューした彼らはすぐ上の先輩の光GENJIほどのヒット曲には恵まれず、バラエティに活路を見出すことになる。そしてよく知られるように、1996年に始まった冠バラエティ『SMAP×SMAP』(フジテレビ系)で大ブレークを果たすのである。着ぐるみや大胆なメークもいとわず果敢にコントに挑み、フリートークで素の表情を自然に見せるその姿は、それまでのジャニーズアイドルにはなかったものだった。

 SMAPがバラエティに新天地を求めた裏側にはジャニー喜多川のテレビ局への働き掛けもあったとされるが、どこまで彼が深く関わっていたのかはわからない。だがいずれにせよ、SMAPの登場によって、1990年代以降のジャニーズ流エンターテインメントは「舞台」と「テレビ」を両輪に疾走し始め、時代を席巻した。堂本光一や滝沢秀明などが自ら主演と演出を兼ねるオリジナルミュージカルで高い評価を受ける一方で、TOKIO、V6、嵐などSMAP以降デビューした多くのジャニーズグループは自らの冠バラエティを持ち、人気番組を次々に生み出した。しかしその内側に、「舞台」と「テレビ」の本質的な違いがもたらすジレンマは残り続けた。

ジャニーズの今後は? ~ネット進出の行方

 2016年末のSMAP解散は、大きな文脈ではそのジレンマが極限に達した結果だと言える。そしてそれ以降ジャニーズがそれまでの「舞台」と「テレビ」の絶妙なバランスを失い始めたことは、新たに関ジャニ∞やKis-My-Ft2らのテレビにおける台頭もあるにせよやはり否めないだろう。

 と同時に、そこにはテレビ自体を取り巻くメディア状況の根本的変化もある。「舞台」と「テレビ」だけでなく、「ネット」とどのように関わるか? それがジャニーズにとって目下の重要課題になっている。

 実際、ここ最近のジャニーズは従来の方針を覆すかのように、積極的にネットへの進出を図っている。ネット配信の冠バラエティや主演ドラマ、コンサートや舞台の生中継、YouTubeでの動画配信、さらにはVtuberまで。現在その中心になっているのは、デジタルネイティブの世代でもあるジャニーズJr.の各ユニットだ。そしてそこには、昨年いっぱいで芸能活動から退き、後進の指導などスタッフ業に専念することを決めた滝沢秀明の存在があることはいうまでもない。

 ただ時代の必然とはいえ、ジャニーズにとってネット進出が無条件にプラスの意味合いをもたらすとは限らない。ユーチューバーを見るまでもなく、「ネット」は「テレビ」以上に素の部分をさらすことを要求するメディア、ファンとの距離が近くなるメディアだからだ。そこにはやはり、ファンとの一定の距離感が保たれる「舞台」とは異なる面も少なくない。

 すでに述べたところからも明らかなように、ジャニー喜多川は、アメリカと日本の狭間に生きた戦後史そのもののようなひとであった。「少年」たちを主人公として個人の自由な、そして成長する姿の美しさを表現するジャニーズ流エンターテインメントは、そんなジャニー喜多川、ひいては戦後日本人の理想の生きかたの模索から生まれた一面を持つ。だからそれは、舞台を超えてテレビにも定着し、誰もが楽しむようなものになったのではなかろうか。形式だけにとどまらず、そのコアにある精神がどこまで受け継がれるのか? ジャニー喜多川本人がいなくなったいま、本当の意味で今後注視すべきはその点だろう。

社会学者

社会学者、文筆家。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。テレビと戦後日本社会の関係が研究および著述のメインテーマ。それを踏まえ、現在はテレビ番組の歴史、お笑い、アイドル、歌番組、ドラマなどについて執筆活動を続けている。著書として、『水谷豊論』(青土社)、『すべてはタモリ、たけし、さんまから始まった』(ちくま新書)、『攻めてるテレ東、愛されるテレ東』(東京大学出版会)、『テレビ社会ニッポン』(せりか書房)、『SMAPと平成ニッポン』(光文社新書)、『中居正広という生き方』『木村拓哉という生き方』(いずれも青弓社)、『紅白歌合戦と日本人』(筑摩書房)などがある。

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