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W杯出場決定! 日本バスケが2006年の失敗から学んだ教訓と築いた文化

大島和人スポーツライター
(C)FIBA.com

カタールを下してW杯出場決定

21年ぶりの関門突破は歓喜という言葉が似合わない、のんびりした空気の中で決まった。日本がワールドカップ(W杯)出場を懸けて戦った2次予選最終戦の開催地はカタールの首都ドーハ。会場の「アルガラファ・スポーツクラブ・ホール」は収容3千人程度の規模だが、客席は10分の1も埋まっていなかった。

カタールはスポーツを見る文化が乏しく、世界のスーパースターを揃えたサッカーの国内リーグも観客はまばら。バスケもアジア屈指の強豪国だった歴史を持つが、既に予選敗退が決まっていた。日本は21日のイラン戦を97-89で取って出場権を9割方手中にしており、24日もカタールを圧倒。96-48で勝利した試合後は、皆が淡々としていた。

ただ1年前の今頃、こんな日をこんな気持ちで迎えるとは誰も想像していなかった。

バスケの男子W杯予選は2019年の中国大会から短期集中開催の予選方式が「ホーム&アウェイ方式」に改まった。サッカーのW杯アジア予選は、1998年のフランス大会から同じ方式が導入されている。しかしバスケ関係者にとってはまずチーム作り、コンディション調整とすべてがチャレンジだった。

日本の勝ち上がり

◇一次予選(グループB)

★Window1

17/11/24 日本 71-77 フィリピン(H)

17/11/27 日本 58-82 豪州(A)

★Window2

18/2/22 日本 69-70 中華台北(H)

18/2/25 日本 84-89 フィリピン(A)

★Window3

18/6/30 日本 79-78 豪州(H)

18/7/2  日本 108-68 中華台北(A)

◇二次予選(グループF)

★Window4

18/9/13 日本 85-70 カザフスタン(A)

18/9/17 日本 70-56 イラン(H)

★Window5

18/11/29 日本 85-47 カタール(H)

18/12/2  日本 86-70 カザフスタン(H)

★Window6

19/2/21  日本 97-88 イラン(A)

19/2/24  日本 96-48 カタール(A)

※H=ホーム、A=アウェイ

「綱渡り」を強いられた日本代表

日本は2017年11月24日の1次予選開幕からいきなり4連敗。特に2018年2月22日、横浜で開催されたチャイニーズタイペイ(中華台北)戦を69-70で落としたことは痛恨だった。B組ではもっともくみし易いと思われた相手に、ホームで敗れてしまったからだ。

W杯はもちろん、2020年のオリンピックを考えても日本バスケの危機だった。2019年のW杯は、東京オリンピックに向けた予選を兼ねている。開催国枠の獲得には国際バスケットボール連盟による推薦が必要で、1次予選敗退はその可能性を大きく下げる。

アジアからの出場枠は、開催国の中国も含めて「8」とかなり大きい。とはいえバスケはサッカーと違い、1次予選の成績が2次予選に持ち越される。1次予選で4連敗をするチームが勝ち上がることは常識的に考えてない。しかし日本は最終的に8勝4敗、F組2位で世界大会出場を決めた。

日本バスケットボール協会の東野智弥技術委員長は「『綱渡り』って本を書きたいくらい、全てがぎりぎりだった」と勝ち上がりを振り返る。

現在48歳の東野は2016年5月、Bリーグ開幕の4か月前に技術委員長へ就任した。当時の協会は川淵三郎会長、大河正明事務総長(いずれも当時)のもとで「改革」を一気呵成に進めていた時期。海外人脈が豊富で、エネルギッシュな彼に白羽の矢は立てられた。

東野は同年夏のリオデジャネイロ五輪も視察し、新ヘッドコーチ(HC)候補を4名に絞り込む。その一人がフリオ・ラマスだった。東野は早稲田大学大学院スポーツ科学研究科で学び、2011年に『男子アルゼンチンバスケットボールの強化・育成に関する研究』という修士論文を著している。その研究でアルゼンチンを訪れ、ラマスと面談もしていた。

アルゼンチンは世界に届かない時期を乗り越えてプロリーグを整備し、世界の強豪まで上り詰めた国だ。ラマスは代表のHC、アシスタントコーチとしてそこに長く関わっていた。東野は代表HC候補として彼と面談し、クラブの練習も視察した中で、ラマスにオファーを提示する。

欠かせなかった「中継ぎコーチ」の貢献

しかしラマスはアルゼンチンの強豪クラブ「サン・ロレンソ」との契約があり、来日までの中継ぎが必要だった。FIBAからの推薦もあり、HC代行として招聘したのがルカ・パヴィチェヴィッチ(現アルバルク東京)だ。また同時期、NBAで豊富な経験を持つ佐藤晃一氏がスポーツパフォーマンスコーチとして加わった。

ルカは代表の指揮官として約10か月間、チームの下地作りを行った。代表選手は各地から上京して月火水とトレーニングを積み、木曜日からクラブに帰る――。そんな超強行スケジュールで、まず「ラージグループ作り」が行われた。

東野は振り返る。

「『日常を変えよう』ということから始まりました。選手はリーグをやりながら代表で世界を知りチームに戻る。重点強化選手の選考をして、70人の候補を挙げました。そこから始まっています」

ルカ体制下で最後の大会となった2017年6月の東アジア選手権は、準決勝でチャイニーズタイペイに敗れるなど結果を残せなかった。一方でプレーの強度や、身体作りへの着手といった「中身」が水面下で変わり始めていた。ルカの手腕も合宿に参加した選手などから各クラブに伝わった。退任前にはBリーグの4クラブからオファーが寄せられ、彼はアルバルク東京と契約。2017-18シーズンはいきなりクラブをB1王者に導いた。

しかし2017年7月、ラマスの来日は予定より2週間も遅れることになった。アルゼンチン協会とリーグの対立、テレビ局との関係が理由となりプレーオフのスケジュールが繰り下がったからだ。この「失われた2週間」は、日本がW杯予選の序盤でつまづいた一因でもある。

転機となったオーストラリア戦

2018年2月に開催されたWindow2の2試合は、今とかなり違うメンバーで戦われていた。八村塁(ゴンザガ大)や渡邊雄太(現メンフィス・グリズリーズ)といった「海外組」が不在で、さらに馬場雄大(アルバルク東京)と富樫勇樹(千葉ジェッツ)も負傷で欠場していた。これは強行日程の負の側面が出たともいえる。もっとも18というB1のチーム数、60というレギュラーシーズンの試合数は、クラブ経営や全国への浸透など、真摯に検討を重ねて積み上げられた結論。強化日程の不足を嘆いても仕方のない状況だった。

Window3に転機が訪れた。5月にシーズンが終わってオフ期間があったため、ラマスHCはコンディション調整と強化の日程をしっかり確保できた。加えて4月下旬にBリーグ最強スコアラーのニック・ファジーカスが日本国籍を取得。またアメリカの大学がシーズンオフに入ったため、八村も呼べるタイミングだった。二人は日本の弱みだったインサイドを強みに変えた。日本は2018年6月30日、世界ランク10位のオーストラリアを79-78で下す歴史的な大番狂わせを起こす。

ラマスHCはこう口にする。

「ターニングポイントになったのはオーストラリア戦です。あの勝利は言葉に表せないくらい凄いことだった。もっと上を目指せるのではないか?という自信を我々にもたらした試合だった」

日本は続くチャイニーズタイペイとのリターンマッチに108-68と圧勝して、1次予選突破を決める。そして2次予選はそこから6連勝と突っ走った。9月のWindow4はファジーカスが手術で欠場したものの、ジョージ・ワシントン大を卒業した渡邊が合流し勝利に貢献。Window5とWindow6は八村と渡邊の最強コンビが不在だったものの、復帰したファジーカスがチームの先頭に立った。

ただファジーカスの代表入りが間に合わなかったら、八村や渡邊をあのタイミングで呼べなかったら、おそらく結果は違っただろう。「綱」は何とかつながり、選手たちはそれを渡り切った。

「こんな代表は初めて」

ラマスHCはいわゆる「カリスマ型」ではない。エキセントリックとは程遠く温厚、実直、丁寧な紳士だ。審判や選手を批判するコメントは過去に一度も耳にしていない。

東野は彼と選手の関係をこう説明する。

「選手たちがすごくコミットしている。(渡邊)雄太や(八村)塁はアメリカで素晴らしいコーチングを受けているけれど、日本に帰ったときラマスコーチに対して『クエスチョンだ』という様子を示すことは一切なかった。ニック(ファジーカス)もそうです」

東野は日本が開催国として出場した2006年の世界選手権で、アシスタントコーチを務めていた。彼は感慨深そうに当時と今の代表を比較する。

「こんな代表は初めてです。ラマスは外れる選手に対しても手厚いし、信頼を失わない。だから、また呼んでも来てくれる。大きなプールの中で、みんなが来てそれぞれが頑張れる。それはサッカー方式だけど、この文化が2006年になかった。文化の創設こそはラマスがやった素晴らしいことです」

協会上層部と現場、代表とクラブはとかく対立を起こしやすい。しかし今回の代表は「日本一丸」というキャッチフレーズの通り、日本のバスケ界がまとまって難局に立ち向かった。2006年の代表は、協会と現場が対立状態で本大会を迎えた反面教師でもある。もちろん東野はラマスを立て、足を引っ張ることをしない。

東野は言う。

「僕は座っているだけで『何をしているんだろう』ってみんなに言われていると思いますけれど(笑)僕は黙っていることが良いんじゃないかと。2006年の経験が僕をそうさせています」

全員が一丸となって手に入れた結果

代表とクラブとの関係は密なコミュニケーションと、「実績」が支えている。これは佐藤スポーツパフォーマンスコーチらの功績が大きい。東野はその仕事を称賛する。

「慢性的な痛みやケガが減っています。今はiPhoneがあるし、それぞれのトレーナーとのコミュニケーションが深い。しっかりしたことを代表でやっているから、さらに良くなって帰ってくる。となるとクラブは(代表に選手を)送っても安心だし、好循環ですよね。それを作ってくれているのがスポーツパフォーマンスのグループだと思います」

ラマスHCも「全員」の功績を強調する。

「自分がすべてを変えたとは一切思っていません。選手と我々コーチングスタッフ、そしてJBAの方々、それぞれが全員同じ方向を向いて、同じ計画を遂行している。だからこの結果が出ました。一人ですべてを変えるのは難しい。選手がこのプロジェクトを信じて遂行し切ったことが大事でした」

東野はヨーロッパからルカ、南米からラマスを招聘したことからも分かるように、日本が世界から学ぶムーブメントを引っ張ってきた。加えて彼は大学院で学んだ経歴から分かるように好奇心が旺盛。「サッカーの方々、ラグビーの方々からも一杯学びました」と語るように他競技関係者との共闘にも積極的だ。日本バスケは今こうして「強化の文化」を手に入れた。逆にバスケ人が世界から得たものを他競技に還元する時代も、すぐ来るだろう。

選手が過酷な強化日程についてくる。4連敗を喫しても内部崩壊が一切なく、団結してそれを乗り越える。言葉にすれば簡単だが、決して容易なことでない。それを日本が成し遂げた大きな要因はラマスHCの人徳であり、彼を連れてきた東野の手腕であり、東野を登用して任せた協会上層部の功績でもある。

21年ぶりのアジア予選突破、4連敗からの8連勝は偶然でない。日本バスケが改革に立ち向かい、世界や他競技に目を向け、全員が目的意識を共有したことで達成された偉業だ。

スポーツライター

Kazuto Oshima 1976年11月生まれ。出身地は神奈川、三重、和歌山、埼玉と諸説あり。大学在学中はテレビ局のリサーチャーとして世界中のスポーツを観察。早稲田大学を卒業後は外資系損保、調査会社などの勤務を経て、2010年からライター活動を始めた。サッカー、バスケット、野球、ラグビーなどの現場にも半ば中毒的に足を運んでいる。未知の選手との遭遇、新たな才能の発見を無上の喜びとし、育成年代の試合は大好物。日本をアメリカ、スペイン、ブラジルのような“球技大国”にすることを一生の夢にしている。21年1月14日には『B.LEAGUE誕生 日本スポーツビジネス秘史』を上梓。

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