ナチス政権宣伝相ゲッペルスの秘書だった106歳独女性死亡  最後の生き証人として伝えたかったこと 

歴史的悲劇の場・アウシュヴィッツ強制収容所(写真:REX FEATURES/アフロ)

ナチス政権の国民啓蒙・宣伝相宣伝相ヨーゼフ・ゲッペルスの秘書だったブルンヒルデ・ポムゼルさんが今年1月27日、ミュンヘンの老人ホームでなくなられた。ポムゼルさんは1月11日に106歳の誕生日を迎えたばかりだった。 

 1月27日といえば1945年同日、ソ連軍がアウシュヴィッツ強制収容所に入り、数千人の収容者を解放した日。偶然のいたずらだろうか、奇しくもこの日がポムゼルさんの命日となった。

 ゲッペルスには6人の秘書がいた。そのひとり、速記秘書だったポムゼルさんは、ゲッペルスと時間を共有した最後の生き証人だった。

 ポムゼルさんが注目を浴びるきっかけとなったのは、クリスチャン・クレーネス氏ら4人のオーストリア人演出家・監督らの制作したドキュメンタリーフィルムだ。

 クレーネス氏らは、ポムゼルさんへ是非インタビューをしたい、そしてフィルムをつくりたいというラブコールを送った。半年かけてポムゼルさんを説得、ようやく承諾の返事を得た。

 こうして2013年、ポムゼルさんの告白をもとに作成したフィルム'''Ein Deutsches Leben'''(「あるドイツ人の生涯」とでも訳そうか)は完成した。

 撮影当時103歳という老齢にも関わらず、ポムゼルさんは研ぎ澄まされた過去の記憶を淡々と語り始めた。

 速記秘書として抜擢された

 どのような経緯でポムゼルさんは、ヒトラーが信頼を寄せていたゲッペルスの秘書となったのだろう。

 たまたま速記者として有能だったことがきっかけで、ゲッペルスの秘書の1人になったという人生のめぐり合わせだったようだ。

 ポムゼルさんは1933年、ベルリンラジオで秘書として勤め始めた。それから国家社会主義ドイツ労動者党(NSDAP)党員となったポムゼルさんは、月給250マルクの仕事に満足していたという。

 「ある日、国民啓蒙・宣伝省で秘書を探していると知らせが入りました。ラジオ局で速記が最も速かった私に白羽の矢があたり、ゲッペルスの秘書として勤務することになったのです。あの時は、拒否や辞退など考えられないことでした」

「本心を言えば、待遇の良さに惹かれたのも事実です。宣伝省の提示した報酬は高く、職場環境も素晴らしいと聞いたから。私の仕事場は、ヴィルヘルム広場にあった建物の1階(日本式2階)でした。このオフィスは、ヒトラー官房のすぐ近くだったのを覚えています」 と、ポムゼルさんの告白は続く。

 「こうしてヒトラーのナチズム政権維持に大きな役割を果たしたヨーゼフ・ゲッペルスの秘書として働きはじめました」

 ポムゼルさんは、1942年から3年間、文書タイプや書類整理に携わっていた。

 「オフィスはきれいで仕事のしやすい雰囲気でした。でも、ゲッペルスの口述速記とタイプ打ち、文書や郵便物を整理したりと、とても退屈な仕事ばかりだった」とポムゼルさん。

 「ゲッペルスはオフィスに顔を出すことがあまりなく、不在が多かった。ある日曜日、ゲッペルスは子どもをつれてオフィスにやって来ました。待機していた私のタイプの周りで子ども達が遊んだりしたこともありましたね」

「秘書室には頑丈な金庫があり、私はその鍵を管理していました。政治に疎かった私は、その金庫の中にあった重要書類を覗いてみたいとも思わなかったし、ゲッペルスの許可なしに金庫を開けるなどという考えも全くありませんでした」

強制収容所で何か起こっているのか知りませんでした 

 ポムゼルさんの知るゲッペルスとはどんな人間像だったのだろうか。

 「ゲッペルスはとても近寄りがたい張り詰めた空気を持った方でした。私の名前さえ知らなかったと思います」と、ポムゼルさんは分析する。

 「ゲッペルスは礼儀正しく几帳面な上司でしたが、本当は孤独だったに違いありません」

 「ゲッペルス宅に招待された時のこと。昼食時、ゲッペルスはとなりに座っていた私に声をかけることは一切ありませんでした。それとは対照的に、妻のマグダ夫人は気さくな方だった。高価な青の洋服をプレゼントしてくれたのです。嬉しくて、私はその服を毎日着用していました」

 「私たち秘書は、強制収容所内で一体どんな事が起きていたのか知りませんでした。ほんの一握りの事実以外は・・・」

 「大戦後、収容所で残虐な行為があったことを知り、非常にショックを受けました。私は歴史に残る扇動政治家の秘書として加担したのですから。しかし、あの時は秘書とはいえ、自分の意見を発信することなど許されませんでしたし、ただただゲッペルスの命に従うだけだった」と、語るポムゼルさんだ。 

 「ゲッペルスの秘書だったことは、恥とは思いません。でも誇りに思っていないことも事実です」

私も卑怯者の一人です

強烈な思い出があると言うポムゼルさん。

「1943年2月18日、ベルリンのスポーツ宮殿で行われた国家総力戦演説でのことです。私たち秘書も出席し、演説を聴講したのですが、身震いするような凄まじい光景でした。直前に勃発したスターリングラード攻防戦によりナチスが深刻な事態に直面していたため、普通の常識を持った人間には聞くに堪えない総力戦略でした」

 ゲッベルスは「2000年に及ぶヨーロッパの歴史は危機的状況にある」と結論し、ドイツの失敗をユダヤ人のせいにした。

 歴史上この演説は、当時ドイツが処々の問題に直面していたが、戦争を続けるために国家の総力を動員することを可能にしたという点で重要な出来事である。ゲッベルスはドイツは妥協も代案も考えておらず、「ドイツはただ、この厳しい戦いのみ考える」と主張した。

出典:ヴィキペディア・総力戦演説より抜粋

 「私が罪の意識を感じるのは、ドイツ国民はナチス政権を助けたと非難された時。ドイツ人として私もナチス政権の渦中にいた1人ですし、ヒトラーが独裁政治を遂行していた事実は皆知っていたのですから」  

 「今思うに、私も卑怯者のひとりだったのです」

秘書として最期の仕事、そして終戦

 「ヒトラーの最期の誕生日となった1945年4月20日金曜日は夏のようなすがすがしい晴天でした。あの日私は、ブランデンブルク門横にあったゲッペルス宅のテラスでタイプを打っていました。この日が、秘書として最期の仕事をした日でした」

 そんな中、ソ連軍が刻々と侵攻し、「ベルリンの戦い」が始まった。物々しい大砲音があちこちから聞こえてきた。

 「ベルリンの戦い」が始まると、ポムゼルさんは宣伝省建物の地下防空壕内で過ごした。

 「豪内で過ごした10日間、食料の支給は全くありませんでした」

 ポムゼルさんは、たまたま豪内に保管されていたワインと保存食で生き延びたという。

ヒトラー、ゲッペルスの自殺

 ポムゼルさんは、待機していた防空壕内でヒトラーとゲッペルスの自殺を知った。

 「まもなくソ連軍が豪内に突入し、私は取り押さえられてしまった」

 「それから私は、ニュルンベルク裁判の判決でロシア軍に5年間抑留されることになりました。私は何も悪いことをしていないのになぜ?今でも納得がいきません」と当時の不満と怒りをぶつけるポムゼルさんだ。

 のちに、ゲッペルスの6人の子供も妻マグダと共に死亡したという事実を知ると、「子どもを道連れにした行為は許すことができません」と力強く語った。

 だが、マグダは生き残った子ども達がゲッペルスの子どもとしてのレッテルを生涯背負い、辛い思いをするのを避けたかったのかもしれない。

帰独、そして安泰な生活が始まった

 1950年、ポムゼルさんはベルリン・シャロッテンブルクのアパートへ戻った。洋風タンスの中にあった、何年も着用したあの青い服がなぜか目に止まった。

 ベルリンでの生活は、大戦前とは異なり、落ち着いた時間を過ごしたようだ。

 「南ドイツラジオ局・バーデン・バーデン、後にARD(ドイツ国営放送)ミュンヘンに勤務。1971年、60歳で退職し、中国とケニアを旅しました」と、笑みを浮かべるポムゼルさんだ。

 「戦後、私はこんな幸せな生涯を送れるとは思いもよりませんでした」

 102歳の時、道路で滑ってしまい、ポムゼルさんは頚骨の骨折に見舞われた。それ以来、肉体的には不自由な身となったが、頭脳明晰でユーモアに溢れた老婦人だった。

今を生きる私たちの課題とは   

 1月11日、106歳の誕生日を迎えたポムゼルさんと最後に面会した前出クレーネス氏は、「ポムゼルさんは辛辣な政治観察者だった。欧州にはこびるナショナリズムや右翼的思想を聞くにつけ、警告を発していた」と、漏らした。

 難民や移民受け入れにおける国家間の誤解や意見の食い違い、人種差別やテロ行為・・・こうした様々な混乱がある昨今、今を生きる私たちは、仮に反対の声をあげることが出来ない状況が勃発したなら、どのように対処したらいいのか。

 時がたつにつれ、史実を語る証人が少なくなる。過去の事実は変えられないが、この事実を通して、どう学び活かしていくか。私たちの課題とは。

 約2時間に及ぶポムゼルさんのドキュメンタリーフィルムは、これまでミュンヘン周辺で開催された特別イベントや国内外の映画祭のみで公開されていた。今回、ポムゼルさんの死去を機に、4月6日からドイツ全州で上映される予定だ。

 ポムゼルさんは、特に若い人たちにこのフィルムを見てもらいたいと言い残した。

参考資料

Osnabruecker Zeitung 2015年6月27日

Hitler, Mein Kampf Eine kritische Edition 2016年1月

Badische Zeitung 2017年1月31日  他