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小山田圭吾氏の障害者いじめ問題から考える教育現場の現状と課題

野口晃菜博士(障害科学)/インクルージョン研究者
(写真:アフロ)

 ミュージシャンの小山田圭吾氏が過去に障害のある同級生をいじめたと多くの「笑」マークと共に自慢げに話している記事を読んで「この人の音楽は二度と聞かない」と決めたのを覚えている。その内容は目を覆いたくなるような差別的発言と行為で、転載をすることも憚られる。

 その小山田氏が、東京オリンピック・パラリンピック開会式に作曲担当として参加することが7月14日に発表され、多くの人が「辞職するべきである」「『平和の祭典』にふさわしくない」など批判をしている。これらの批判を受け、氏は16日に謝罪文を発表した。その後17日に組織委員会は本件について、いじめについて把握していなかった旨、また、現時点では反省をしているため引き続き担当をしてほしい、と明言しており、氏も組織委員会も留任の方針である(※1)。

写真:代表撮影/ロイター/アフロ

「他だったら特殊学校にいるような子が普通クラスにいた」

 小山田氏はインタビュー記事において、「他だったら特殊学校にいるような子が普通クラスにいた」と発言しており、自身が通っていた学校が障害のある子どもを積極的に受け入れ、障害のある子どもと障害のない子どもが共に学ぶ方針をもっている学校であったことを示唆している。

 「共生教育」や「インクルーシブ教育」を学校が掲げるのは、障害のある子どもと障害のない子どもが共に学ぶことで、お互いのちがいを知り、差別のない社会をつくることを目指しているからであろう。しかし、今回の小山田氏の記事を読むと、まったく逆の行為がなされていた。それはなぜだろうか。

 本記事においては、小山田氏のいじめ問題から教育現場における課題を考える。

何の工夫もなく「一緒にいる」ことは「インクルーシブ教育」ではない

 何かしらの障害がある子どもの多くは、既存の学校教育において過ごしづらさや学びづらさなどの困難さを持つ傾向にある。「障害の社会モデル」においては、子ども自身の障害そのものを困難さの要因と考えずに、既存の学校教育が多様な子どもがいることを前提に設計がされていないことを要因と考える。例えば、読み書きに障害のある子どもは当然黒板の板書をノートに映すような授業スタイルや、漢字を学ぶ際にひたすら書き取りをする学び方のスタイルでは学びづらい。

 インクルーシブ教育では、このように多様な子どもがいることを前提に学校づくりや授業づくりをすること、そのために必要な体制を整えるプロセスを大切にしている。このような多様性を前提とした学校づくりそのものが、差別をなくしていくことにつながると考えられている。

 一方で、特に日本においてはインクルーシブ教育を「障害のある子どもと障害のない子どもが共に過ごすこと」のみと捉えられがちである。障害のある子どもが通常の学級において何の工夫や配慮もされていない状態は投げ捨て(ダンピング)とも呼ばれ、これまで多くの批判がなされてきた。「共に過ごすこと」のみが重要視され、一人ひとりの学びへのアクセスを保障するための工夫や支援が何もない状態では、その学級において障害のある子どもはクラスの一員というより、「お客様状態」となってしまう。小山田氏の通っていた学校においてダンピング状態があったかどうかはわからないが、このダンピングの問題は現在の学校においても未だ見られる。

 日本は、2014年に批准した障害者権利条約に基づき、共生社会の形成に向けて、障害のある子どもと障害のない子どもが可能な限り共に学ぶインクルーシブ教育の実現を目指している(参考:2012年の文科省の報告)。そのために、通常の学級における教育そのものをより多様な子どもがいることを前提に改革をしていくことや、障害のある子どもに対して一人ひとりに合わせた個別の計画を作成し、必要な合理的配慮を提供していくことが求められている。一方、教師の多忙化、一クラスあたりの人数の多さ、障害のある子どもを含む多様な子どもがいることを前提とした学級経営や授業づくりのノウハウの少なさ、合理的配慮の概念がまだ浸透していない、などの理由から、未だダンピング状態にある子どもも少ないとはいえない。インクルーシブ教育を実現していくためには、一人ひとりの教師の努力などの精神論のみに頼るのではなく、どこの学校でも実現できるだけの仕組みづくりや体制を整えていかなければならない。

写真:アフロ

「子どもを差別主義者に育てる方法は差別について語らないこと」

 筆者が先日参加したイベント「マジョリティの特権を可視化する」(対話と共生推進ネットワーク主催)において、講師の上智大学・出口真紀子先生は、「『子どもを差別主義者に育てるためには?』という質問への回答は、『差別について語らないこと、それのみ』」と、Cherry Steinwender氏の言葉を紹介していた。

(参考:イベント「マジョリティの特権を可視化する」の詳細レポート)

 学校において「差別はしてはいけない」と誰もが学んできたとは思うが、差別とは一体何なのか?なぜ差別は起こるのか?なぜ差別はいけないのか?本当に一人ひとりが気を付ければなくせるものなのか?障害があるとはどういうことか?障害がないとはどういうことか?などについては、学ばなかった方が多いのではないだろうか。小山田氏も「差別はダメ」ということのみ学び、それ以上は学ぶ機会がなかったのかもしれない。そして、その後、大人になってからも差別について考えることも学ぶこともなかったのかもしれない。

 先日NHKで放映された「人種差別をなくす実験授業」においては、白人と白人以外の子どもたちが共に学んでいる学校において、自分たちの白人以外の人種に対する無意識のネガティブな偏見に気づく授業が実践されていた。差別をなくしていくためには、「差別はダメ!」のみでなく、なぜ自分たちは無意識に偏見を持ってしまうのか?を知り、自らが持っている偏見と向き合っていくプロセスが大切なのではないだろうか。

障害のある方への差別は私たち一人ひとりに関わること

 今月で相模原障害者殺傷事件から5年がたつ。

 今回、あまりにもひどい差別的発言といじめ行為に対し、多くの人が「本件は自分とは関係のない遠いところで起きたことである」と思うかもしれない。

 しかし、障害のある方への差別はどこか遠いところで起きる話ではなく、身近なところにあり、それは私たちすべての人に関係することであることを忘れないようにしたい。障害のある人を見下すなど、障害に関する差別的な発言を聞いたことがある人はおそらく少なくないだろう。その延長線上に小山田氏の発言も相模原の事件もある。

 今回の件を「ひどい」と感じた人は、ぜひ障害者差別に対して自分自身は何ができるのか、を考えてみてほしい。小山田氏には「なぜ自分は障害者をいじめたのか。なぜそれをインタビューで語ったのか」と向き合った上で、今後障害者差別に反することを具体的な行動で示してほしい。組織委員会には、小山田氏を起用し留任させることの影響(※1)とその決断の背景を改めて説明してほしい。私自身は、今回の件を受け改めて今後もインクルーシブな教育の実現を目指して行動をし続けていきたい。

(参考:小山田圭吾氏に関する一連の報道に対する声明 | 全国手をつなぐ育成会連合会)

(7月19日 19:16 追記)

※1 その後小山田圭吾氏から辞任の意向が伝えられたとの報道があった。

博士(障害科学)/インクルージョン研究者

一般社団法人UNIVA理事/国士舘大学非常勤講師。小6でアメリカへ渡り、障害児教育に関心を持つ。その後筑波大学にて多様な子どもが共に学ぶインクルーシブ教育について研究。小学校講師を経て、株式会社LITALICO研究所長として、学校・少年院等との共同研究や連携などに取り組み、その後一般社団法人UNIVAの立ち上げに参画、理事に就任。インクルージョン実現のために研究と実践と政策を結ぶのがライフワーク。経産省産業構造審議会教育イノベーション小委員会委員、文科省新しい時代の特別支援教育の在り方に関する有識者会議委員、日本LD学会国際委員など。共著に「発達障害のある子どもと周囲の関係性を支援する」など

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