「M-1」を取るまでの10年と取ってからの10年。「笑い飯」の本音
“Wボケ”を確立し「M-1グランプリ2010」で優勝、上方漫才大賞も受賞するなど漫才界のど真ん中を歩む「笑い飯」。7月から全国ツアー「結成20+1周年記念ツアー 笑い飯の漫才天国」も開催し、さらなる高みを目指します。哲夫さん(46)、西田幸治さん(47)ともにひょうひょうとした空気でボケ続けますが、その根底には指針とする先輩の姿がありました。
必要な仕事ではないからこそ
哲夫:本来、去年が20周年だったんです。なので、何かできたらなとは思っていたんですけど、新型コロナ禍でできなかった。
なので、なんとか1年遅れでツアーをやらせてもらうことになったんですけど、コロナで劇場出番も減りましたし、各地での営業は完全にストップしてますし、漫才を軸に活動をしていると、影響はすごくありますね。
西田:ただ、この状況だからこそ、改めて感じたことというのはありましたね。ネタの無観客配信とかも増えてきたんですけど、それを経験したことで、お客さんの前でやる楽しさは再認識しましたね。
それと、僕は元から自分がしている仕事は絶対に必要なものではないと思っていたです。
だから、配信だったり、劇場に来てもらったり、こんな状況でもお金を払って見てくださる方がいらっしゃることが、本当にありがたいことだなと思いますよね。皆さんも、いろいろとしんどい中のはずやのに、求めてくださるというのは。
先輩という指針
西田:2000年から活動を初めて、2010年に「M-1」で優勝しました。なので、芸人人生の半分は「M-1」にかけた時間でした。
優勝するまでの10年というのは、間近の目標を一つ一つ越えていくという日々やったんで、一年一年をすごくクリアに覚えているんですけど、そこからの10年はあっという間でした。「もう、10年経ったんか…」という感じで。
哲夫:仕事がない状況から、仕事をもらいだす。グラフの傾きが急上昇している時は、やっぱりインパクトが強いですもんね。
若手が出ていた劇場「baseよしもと」のオーディションを受けて、ちょいちょい受かり出すくらいで「バッファロー吾郎」さんがイベントに呼んでくださって。それが雑誌に名前が初めて載った時でした。
今でもすごく覚えていますし、ありがたいという思いがしっかりと残っています。そこから1年ほど経って、初めて「M-1」の決勝に行くことができた。そこから多くの人に知っていただけて。一つ一つのステップというか、それは鮮明に覚えてますね。
西田:少しずつお仕事をいただけるようになってきた頃、06年から09年までMBSラジオで「ゴー傑P」という番組を小籔(千豊)さんとやらせてもらったんです。
小籔さんが座長になって、一気に全国的に売れていく時期だったんですけど、その勢いは本当にすごかったですし、それを目の当たりにさせてもらったのも大きかったですね。
とにもかくにも、小籔さんが売れる理由は家族のためなんです。これから先も家族を食べさせるため稼ぐ場が新喜劇だと。だから、そこをさらに充実させるためにも、自分は全国的に売れる。それが新喜劇、そして、家族のためになるんだと。
当時の僕にはそんな考えはみじんもなかったし、独身ですから「そんなんで、そんなに頑張れるもんなんや…」くらいの感じだったんですけど、そこから自分が家族を持つようになってから、言うてはったことの意味が今なら分かります。
哲夫:「テンダラー」の浜本(広晃)さんとすごく仲良くさせてもらってるんですけど、浜本さんが「オレ、『THE MANZAI』出るわ」と言った言葉がシブいと思いましたね。
「M-1」が一旦終わって、11年からフジテレビで「THE MANZAI」が始まったんですけど、当時は芸人の中で「M-1」よりもっと若手の子が出る、正直な話「M-1」より権威が薄いコンクールみたいな空気があったんです。
そんな中、当時で既に17年ほどキャリアがあった「テンダラー」さんが出ると。クドクド言うことはなく、浜本さんが「漫才が仕事なんやから、漫才をする時に名前を知っておいてもらった方がやりやすいやろ」と言っていたのがすごいなと思いますし、そういう人生設計を組み立てているのも、ただのダンサーじゃないなと思いました(笑)。
実際、そこから(ビート)たけしさんに認められて、自分たちの名前を上げていかれた。なんというのか、自分、もしくは、周りが勝手に作った敷居を外すというか。その心構えが、どんなところでも大切なんだろうなと思わせてもらいましたね。
それ以来、僕自身もいろいろと変わったと思います。こだわっていた部分を見直すというか、勝手なこだわりを「ま、エエか」と思うようになりました。
細かいことですけど、メールで「!」を入れるのがすごく苦手やったんです。でも、別に入れる文脈やったら、入れてもいいかと。LINEを使うのにも、なんでしょうね、自分なりの考えで抵抗があったんですけど、そのあたりから使い始めました。
漫才にも変化はあったと思います。例えば、昔話の「桃太郎」とかって、みんながネタにしまくってるから、もうネタにはできないと思っていたんですけど、よくよくもう一回見てみたら「ここはまだイジられてないからいける」というところが見つかって取り入れたり。自分で勝手に「ここはありきたりだから行かない」と思っていたところに一歩踏み込んでみる。結果、その向こう側に美味しいものが待っていたというのはありましたね。
30周年に向けて
哲夫:次の節目は30周年になりますけど、そこまでに2回目の上方漫才大賞を受賞できてたら、カッコいいですよね。それはすごく思います。
そのためには今よりもさらに上を目指さないといけないし、もっと積み重ねないといけないんですけどね。
そして、当面というか、今すごく思うのは、早くパンパンにお客さんが入った劇場で漫才がやりたいなと。
あとね、早くお店で飲みたいです(笑)。仕事が終わって「ちょっと行く?」というのが久しくできていない。あれで育んでいるものが多々あるし、そこで一番泣き笑いしてるとも思うんです。酒で寿命縮めてるかもしれませんけど、その分、そこで笑ってるから寿命伸びてるやろうし、結果、トントンかなと。
日常のありがたみを今のご時世やからこそ、感じますね。
西田:こういう世の中じゃなかったら、それこそ「子どもの日」とかは子どもを連れてじいちゃん、ばあちゃんのところに行ったりもしてたと思うんですけど、そういうこともできなくなると、より一層、その意味を感じる部分もありますよね。
哲夫:ただ、ずっと気にかけていたことがコロナで時間があるからこそできたというのもありました。ウチの畑に枯れた桃の木があって、いつか抜かないとと思っていたんですけど、それは引っこ抜けました。ここ2年ほどの懸案事項だったので、スッとしました。とても気分が前向きになったので、次はキウイフルーツを植えようかなと思ってます(笑)。
(撮影・中西正男)
■笑い飯(わらいめし)
1974年12月25日生まれの哲夫と74年5月28日生まれの西田幸治のコンビ。ともに奈良県出身。2000年に「笑い飯」を結成。02年に「M-1グランプリ」で決勝進出を果たし、一躍ブレークする。10年に「M-1グランプリ」優勝、上方漫才大賞受賞などの実績を残す。全国ツアー「結成20+1周年記念ツアー 笑い飯の漫才天国」を開催。7月17日の東京公演(日本青年館ホール)からファイナルの12月12日の大阪公演(なんばグランド花月)まで12都市をまわる予定。