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田村淳が「死ね」と言わない理由

中西正男芸能記者
思いを丁寧に言葉に置き換えていった田村淳さん

 バラエティーのみならずフジテレビ「バイキングMORE」などでコメンテーターとしての顔も見せる「ロンドンブーツ1号2号」の田村淳さん(47)。昨年亡くなった母・久仁子さんへの思いを綴った著書「母ちゃんのフラフープ」を5月31日に上梓します。「母ちゃんの話になると、泣いちゃうと思うんで…」とティッシュを横に置き、実際に幾度となく涙をぬぐいながらの取材となりましたが、胸の奥底にある思いを丁寧に言葉に置き換えていきました。

長い反抗期

 母ちゃんは若い頃から「延命治療はしないでね」ということを言ってたんです。

 当時はどこかが悪いわけでもなくピンピンしてたんですけど、看護師をしてたので、いろいろな人の死を見てきたからですかね。自分が元気なうちに、死に方も含め、意志を示しておくことが大切だと感じていたんでしょうね。

 ただ、その言葉が現実味を帯びるというか「あ、このことだったのか」となってきたのが2015年。母ちゃんのガンが分かってからでした。

 自分でもね、病気を機に母ちゃんへの接し方が変わったと思います。あからさまに優しくなりました。

 これは母ちゃんの言葉ですけど「長い反抗期が終わった」と言ってました。

 母ちゃんが病気になって少しして、オレに娘が生まれたこともあったのかもしれませんけど「あんたは好き勝手生きてるし、これからもそう生きていくだろうけど、やりたいことがあったら、まず家族というフィルターをかけて考えなさい」と度々言うようになったんです。

 これがね、母ちゃんが病気する前だったら「うるせぇよ」とか「分かってるよ」とか言ってたと思います。だけど、病気してからはちゃんと受け止めようとしてました。

 そして、その受け止めを母ちゃんも感じてたんでしょうね。だから「長い反抗期が終わった」と言ったんだろうなと。

 やるなと言われたことばっかりやってきましたからね。

 芸能界に入る。髪を赤く染める。お笑いだけでなくバンドもやる。

 何か指摘されると、より従わない。それが母ちゃんが病気になるまで、オレが42歳の時まで、ずっと続いていたと思います。そりゃ「長い反抗期」ですよね。

 それまでも気遣いをしていたつもりではあったんですけど、母ちゃんが「淳、優しいな」と思うのは病気の後だと思います。

 …こういう話をしていると、涙が出てきちゃうんですよね。

 暗いインタビューにするつもりは全くないので「こいつ、泣いてるやん…」となると思うんですけど、気にせず、どんどん進めちゃってくださいね(笑)。

 死を前にした母ちゃんの振る舞いだとか、思いを伝える姿勢を見ていて、改めて「母ちゃん、すごいな」と思ったんです。それが大学院で遺書や遺言について勉強することにつながったんですけど、最終的に大学院での研究発表を母ちゃんには伝えられなかった。

 母ちゃんはオレが本を書いたり、何かを世に出すということが好きだったので、こういうことをすると母ちゃんが喜ぶかなと思って、本を出すことにしたんです。

「死ね」とは言わない

 本を出すとなると、今一度、母ちゃんの思い出と向き合うことにもなるんですけど、子どもの頃から言われてきたことは結局二つでした。

 「人に迷惑をかけるな」と「やりたいことをやりなさい」。

 自分の中で、この二つがブレーキとアクセルみたいになっていて、なんとかバランスを取りながら両方成立させる。難しいことではあるんですけど、若い頃から、この二つは常に頭にありました。

 そして、これまでで母ちゃんに一番怒られたのは、中学2年の時でした。まさに、激昂でした。

 最初はよくある口げんかというか、こっちの言うことに理解を示してくれなくて、オレがイライラして言い合いになるような流れだったんです。

 その中で特に深い思いまではなく、ふと「そんなに口うるさく言うんだったら、死んだらいいのに」と母ちゃんに言ったんです。

 その瞬間、母ちゃんの顔色が変わって、包丁を持ってきました。それをオレの前の畳に突き刺して「殺せ!」と言われました。そして「人に『死ね』なんてことを言うな」と怒鳴られました。

 その時の母ちゃんの迫力と胆力は凄まじかった。そこから、本当に「死ね」という言葉は一切言わなくなりました。

 よく芸人さんがノリで「死ね」とか言ったりもしますけど、オレ、実はその度にヒヤッとしてるんですよね。その言葉に対してはすごく繊細になっているというか。

 だから、SNSで「死ね」と言われたりすることも、もちろん元々良くないことなんですけど、自分にとっては、よりイヤな言葉なんです。

 なので、そういう言葉を向けられたら、やり過ごすんじゃなく「それだけは別の言い方に変えるべきだと思う」みたいなことを返しますもんね。

 なんかね、オレのキャラクター的には、しょっちゅう「死ね」って言ってそうなんですけど(笑)、実は言ってないんですよ。母ちゃんの言葉が残ってるんで。

日常への思い

 ガンが進んで母ちゃんが入院している時も、病院でいろいろと話をしました。

 新型コロナ禍とも重なってきていたので、なかなか病院に入れなかったんですけど、コロナの状況を見ながら、家族一人ずつなら交替で入ってもいいという時期もあり、そこに合わせて会いに行くようにしてました。

 死ぬのは本人も分かっているし、オレも分かっている。

 ただ「あんたに語り継いでほしいことはこれよ」みたいな話は特段ありませんでした。母ちゃんもそんなことを言うつもりはないだろうし、オレも聞くつもりもなかったし。

 出てくる話といえば、普通のことというか「あの時、私が作った唐揚げを美味しそうに食べよった」とか、そんな話なんです。

 母ちゃんが死を前に、それを回想するということは、その時が本当に幸せだったということ。どこかに行ったとか特別な日ではなく、何でもない日が残っている。

 だから、日常を大切にしないといけないし、オレも自分の家族にそんな時間を少しでも多く味わってもらいたい。そう強く思いました。

 「私はそれが幸せだったから、あんたも奥さんや娘に」なんてことを母ちゃんは言わなかったけど、オレが汲み取って、受け取ったことです。

 いずれオレが死ぬ時にも、そんな思いをしたいし、娘にも、奥さんにも、そんなことを思ってほしいなと。

 母ちゃんの最期には立ち会えなかったんですけど、弟から電話があって、まだ息のあるうちに電話越しに声をかけました。

 ただ、自分の中でのお別れは、その前に済ませたつもりでした。ガンが進んで痛みもひどくなってきた頃、実家に一時帰宅したんです。コロナ禍で、家族揃って病院に行くことはできなくなっていたので、みんなが集まるには母ちゃんが家に戻るしかなくて。

 その時、母ちゃんから「私の意識があって、あんたときちんと話せるのはこれが最後だから」と言われました。

 翌日、病院に戻ってモルヒネを打つ。そうすると意識が薄れる。それを見越してのことだったんですけど、そこで「今までありがとう」と伝えました。きちんとお別れをしました。自分としては、そっちのお別れの方がつらかったですね。

 最期は、もう「楽になってね」というか…、そういう感じでした。命を閉じる時は、そんな言葉だけをかけました。

「やりたい」を優先する

 母ちゃんが死んで、いろいろと意識が変わりました。

 母ちゃんが言ってた通り、やりたいことをやろう。やりたいことをたくさんやって死のうと思うようになりました。枕詞には「人に迷惑をかけず」がつくんですけど。

 誰かに遠慮してやりたいことを制限するのはやめよう。人の評価よりも「やりたい」を優先する。そんな人生にしようと思いました。

 実際、仕事でも変化がありました。ちゃんと番組を作ろうとか、仕事と向き合っている人との仕事はやりたいことなのでやる。逆に「この人、適当にやってるな」という人とは「やりたくないです」とハッキリ言うようになりました。

 その結果、もし仕事を失ったとしても、それが本当に自分がやりたいことなので仕方ない。そこは徹底するようにしています。

 現場にまで行って、いきなり「やりません」はないですけど、お話をいただいて打ち合わせをする段階で「違う」と思ったらお断りする。「この仕事はやりたくないです。その理由はこれです」としっかり話した上で。

 それこそ、聖火ランナーを辞退したのも「これはやりたくない」が明確にあったので、理由も添えてお断りしました。今までのオレだったら、恐らく、そのまま惰性でやっていたと思います。

どう死にたいか

 母ちゃんのこともあって大学院で死を研究する中で、日本って、死をすごくタブー視するところだと改めて思いました。死について話すと、すぐさま「縁起でもない」という言葉でフタをしにくるというか。

 ただ、当たり前だけど、みんな死ぬんです。家族も失うんです。

 だから、誰にとってもすごく共通項の多い話だし、もっと日常的に「どう死にたいか」という話はするべきだし、それは「どう生きたいか」を言ってるのと同じ。だからこそ、タブー視することはないと思うんですけどね。

 その観点からしても、母ちゃんが若い頃から自分の死に方を話してたのは大きなことだと思いますし、よく考えたら、性格とか人間性の部分にも、母ちゃんから引き継いでることがたくさんあるんですよね。

 母ちゃんは社交能力が抜群に高いんです。誰にでもスッと絡みに行ける。思い立ったらすぐ動く。オレも「即動力」(2018年)という本を書いたくらいですけど、母ちゃんも本当にフットワーク軽く動いてました。

 ただね、母ちゃんは人の好き嫌いを干支で判断してたんです。これもある意味、即動力なのかもしれませんけど…、話したこともない人のことを「あの人は、寅年だから合わない」というように見切ってましたから。

 そこに関しては、やっぱり、オレは時代とともにマイルドにアップデートされちゃってる人間なんでしょうね。まだ、その境地にまでは達してません(笑)。

(撮影・中西正男)

■田村淳(たむら・あつし)

1973年12月4日生まれ。山口県出身。93年、田村亮と「ロンドンブーツ1号2号」を結成。94年に「銀座7丁目劇場」のオーディションに合格し、吉本興業に所属する。テレビ朝日「ロンドンハーツ」などに出演中。2019年、慶応義塾大学大学院メディアデザイン研究科に入学。遺書を動画にして、大切な人に想いを届けるサービス「ITAKOTO」を立ち上げる。今年3月、同大学院を修了した。

芸能記者

立命館大学卒業後、デイリースポーツに入社。芸能担当となり、お笑い、宝塚歌劇団などを取材。上方漫才大賞など数々の賞レースで審査員も担当。12年に同社を退社し、KOZOクリエイターズに所属する。読売テレビ・中京テレビ「上沼・高田のクギズケ!」、中京テレビ「キャッチ!」、MBSラジオ「松井愛のすこ~し愛して♡」、ABCラジオ「ウラのウラまで浦川です」などに出演中。「Yahoo!オーサーアワード2019」で特別賞を受賞。また「チャートビート」が発表した「2019年で注目を集めた記事100」で世界8位となる。著書に「なぜ、この芸人は売れ続けるのか?」。

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1999年にデイリースポーツ入社以来、芸能取材一筋。2019年にはYahoo!などの連載で約120組にインタビューし“直接話を聞くこと”にこだわってきた筆者が「この目で見た」「この耳で聞いた」話だけを綴るコラムです。最新ニュースの裏側から、どこを探しても絶対に読むことができない芸人さん直送の“楽屋ニュース”まで。友達に耳打ちするように「ここだけの話やで…」とお伝えします。粉骨砕身、300円以上の値打ちをお届けします。

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