極端な「最低賃金引き上げ論」に騙されてはいけない

最低賃金の引き上げは、若者男性の失業に結びつくことが証明されている。(写真:ロイター/アフロ)

最悪のケースは回避されたが・・・

 最低賃金の改定額が10月より発効されます。2019年度の最低賃金は全国平均で901円と前年度比で3.1%上昇し、4年連続で3%程度の引き上げを達成しています。都道府県別の順位では、上位に東京の1013円、神奈川の1011円、大阪の964円、埼玉と愛知の926円と並んでいる一方で、最下位は青森、岩手、島根、高知、熊本、鹿児島、沖縄など15県の790円となっています。6月17日の記事でも触れたように、政府内には5%の引き上げを主張していた実力者もいたので心配はしていたのですが、想定される最悪のケースは回避されたといえるでしょう。

 それでは、なぜ5%引き上げ論が出てきたのでしょうか。この5%という数字の背景には、「最低賃金を5%ずつ10年連続で引き上げれば、生産性が低い日本の中小企業の改革ができるはずだ」という考え方があります。最低賃金の引き上げ幅を拡大して継続していけば、日本で大多数を占める中小零細企業の倒産・廃業が相次いで、企業の生産性が上がるというのです。私も中小企業の生産性の引き上げは必要だと思っていますが、その手段として最低賃金を使うというのはいかにも筋が悪いと考えております。その根拠となっている事例について、最新の実証分析ではとても肯定できないことが検証されているからです。

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イギリスの成功例は本当なのか?

 5%引き上げ論の根拠となっているのが、イギリスの最低賃金の成功例です。イギリスは1999年に最低賃金を復活させて、2018年までの20年間で2倍を超える水準にまで引き上げたということです。その結果として、低い失業率を維持したままでイギリスの生産性が大いに高まったというのです。イギリスのミドルセックス大学のリチャード・クロシャー教授たちは2012年の論文で、1999年~2008年の10年間を統計的に分析し、低賃金労働の生産性が高まった一方で、雇用への悪影響はなかったと結論づけています。この研究の成果を受けてイギリスの研究者たちの間では、最低賃金の引き上げは間違いではなかったというのが、今でも共通認識になっているようです。(※同じメンバーによる2016年の論文では、サービス業の生産性の向上が強調されていて、何故か雇用に関する記述は消えてしまっています。)

 しかし、1999年~2008年の10年間は世界経済が堅調だった時期にあたり、研究の対象となった最低賃金の引き上げがその時期にほぼ重なっていたので、雇用への問題が何も出なかったと解釈するのが自然です。2008年9月にリーマンショックが起こるまでは、イギリスは国全体が金融バブルに酔いしれていたのです。日本の1980年代後半からのバブルの時期を振り返ってみれば、雇用に悪い影響があるわけないのは実感できると思います。ミドルセックス大学の研究の誤りは、単に統計学的に最低賃金と雇用の関係を分析しただけにすぎず、イギリスの最低賃金の引き上げはそのタイミングや外部環境がだいぶ味方したという要因の分析は加えられていないのです。

なぜブレグジットが起こったのか

 それを成果と勘違いして、イギリスの最低賃金は成功したと喧伝して、日本もイギリスを手本にすべきだと提言している識者たちもいるようですが、果たしてイギリス国民の生活は以前と比べて本当に豊かになっているのでしょうか。実のところ、イギリスの生産性は過去20年にわたって、先進7カ国のなかで下位が定位置になっています。2017年の1時間当たりの労働生産性は53.5ドル、経済協力開発機構(OECD)加盟34カ国のなかでは19位と、日本(47.5ドル・20位)と大して変わらない状況にあります。

 それに加えて、現実の問題として何が起こっているのかというと、ロンドンや複数の大都市を除いた多くの地方では、最低賃金の引き上げに企業が労働時間を削減することで対応するようになりました。その結果として、地方で良質な雇用が少なくなり、賃金が高い雇用がロンドンなどの大都市に集中するようになったのです。ロンドンなどの大都市と大部分の地方の格差が拡大し、地方の製造業の労働者を中心に生活水準が悪化の一途をたどっていきました。最終的には政治でポピュリズムが浸透し、国民投票でEUを離脱するという愚かな選択をするに至ったというわけです。

 例外なしに、どこの国の人たちも日々の暮らしが苦しくなってくると、目先のことが大事になって冷静な判断ができなくなってしまうものです。今ではイギリス国民はEU離脱派とEU残留派が対立し、政府と議会は何も決められず、EU離脱の決断を何回も先送りし続けています。政治の混迷ぶりを見ても、国民生活の実態を見ても、生産性の数字の推移を確認しても、イギリスの最低賃金のどの点が成功例なのか、さっぱり理解ができません。やはりイギリスの経済政策の成否は、国民生活の実態が如実に表しているといえるのではないでしょうか。

10年前より5年前、5年前より最近の検証のほうが信頼できる

 日本がこれからどうするべきかを考える時に単純に過去の研究論文を引っ張ってきて、「過去がこうだったから、今からこうするべきだ」と主張する識者たちがいますが、それはあまりに乱暴な手続きだといわざるをえません。経済のグローバル化の波の後にデジタル化の波が押し寄せてきて、世界の経済構造は大きく変わってしまったからです。モノを大量生産していた時代には、店舗や工場などへの投資が大量の雇用を生んでいましたが、ビッグデータが主役の経済では、価値を生み出す一握りの富裕層に富が集中する傾向が強まっているのです。できるだけ新しいデータを加えた検証が必要不可欠だというわけです。

 ですから、研究論文を参考にする際は、10年前よりは5年前の論文、5年前よりは近年の論文ほうが信じるに値します。ただし、たとえその論文が近年のものであったとしても、経済事象の全体構造が認識できているのか、その全体構造は多角的な分析ができているのか、慎重に検証したうえで参考にするという順序を踏む必要があります。そのような観点から照らし合わせれば、そもそも金融バブル末期の2008年までのデータで結論を出しているイギリスの論文はほとんど採用する価値がないといえるでしょう。

 そこで最新のイギリスの論文を見てみると、エセックス大学のマイク・ブリューワー教授たちの2019年の論文では、これまでの同国での研究が統計学的な見地のみに偏りすぎていたという問題点が指摘され、雇用への悪影響が否定されるものではないと強調されています。アメリカにおける最近の論文でも、カリフォルニア大学アーバイン校のデービッド・ニューマーク教授の2018年の論文のなかで、最低賃金の引き上げが若年層の雇用にマイナス効果があることを解明しています。また、2015年に最低賃金を導入したドイツでも研究が進んでいて、最低賃金の影響を受ける低賃金の雇用では、ほとんどの研究で雇用へのマイナス効果が確認されています。

欧米の事例より日本の事例のほうが信頼できる

 日本の経済政策を考えるうえで、もうひとつ大事な視点を挙げるとすれば、欧米諸国で起こった事例よりは日本で起こった事例のほうがたいへん参考になるということです。最低賃金の引き上げで生じる影響は、その国の雇用制度や価値観、物価動向、税制、社会保障などによって大きく変化するため、海外の事例を安易に日本にあてはめることは短絡的すぎると考えているのです。それぞれの国々の経済・社会システムや多様性を勘案しないというのは、データ至上主義者が陥りやすい誤りであるといえるでしょう。(私が今回の記事で述べている考えをマトリクスにすると、下の図のようになります。ぜひ参考になさってください。)

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 そこで今度はもっとも信頼できる日本の最新の研究論文を見てみると、東京大学の川口大司教授たちの2018年の研究論文では、最低賃金の引き上げが若年層・成年層の男性の労働時間や収入を減らすという結果を明らかにしています。就業率がもともと高い層にとって、雇用へのマイナス効果が大きいということなのです。具体的には、最低賃金を10%引き上げると、若年層男性の雇用が4.8%減少するということです。スキルが低く賃金の低い労働者ほど、失業するリスクが高いというわけです。国内外を問わず、最低賃金の影響を受けやすい労働者についての分析では、ほとんどの研究で雇用へのマイナスの影響を見いだしています。

 日本は最低賃金を2003年度から2018年度までの15年で32%引き上げている(2019年度を含めると36%上がっている)ので、決して上げてこなかったわけではありません。種々の研究を通して見えてくるのは、最低賃金の引き上げが企業の生産性を高めたという効果は今まで確認されていないということです。

政府が早急にやるべきこととは

 ケインズの師匠であったケンブリッジ大学のアルフレッド・マーシャル教授は、学生たちをロンドンの貧民街に連れて行き、そこで暮らす貧しい人たちの生活を見せたうえで、「経済学者になるには、冷徹な頭脳と暖かい心の両方が必要である」と教え諭したといわれています。最低賃金を過度に引き上げるべきだと言っている識者たちは、冷徹な頭脳ばかりが鍛えられてしまい、人としての心や感性が鈍くなっているのではないでしょうか。こういった人たちには、マーシャル教授の教えを深く心に刻み込んでもらいたいです。

 いずれにしても、最低賃金を今のペースの3%で引き上げ続けたとしても、真っ先に解雇されるのはスキルに乏しい人たちです。そこで早急に政府に求めたいのは、そうした人たちをスキルの取得も含めて再教育し、社会に戻していくシステムを整備しなければならないということです。政府は安易な政策に拘泥することなく、長期の視点を持って実態に即した政策を実施してほしいところです。