オシム氏逝去を悼む声は今もなお続く

 2003~06年にかけてジェフユナイテッド市原・千葉を率い、2006年夏~07年11月まで日本代表指揮官として日本サッカーを劇的に進化させたイビチャ・オシム氏が5月1日に逝去した。約1週間が経った今も名将を悼む声が続く。それだけオシム元監督の残したインパクトは大きかった。

 当時、日本代表の練習・試合を取材した筆者にとっても、毎日が驚きの連続だった。2006年8月にサウジアラビアへ赴いた際には、深夜0時半からトレーニングを実施。

「ここは真夜中かもしれないが、世界では昼間のところもある」と涼しい顔で語っていたのが印象的だ。7色のビブスを駆使したトレーニングは非常に難解で解説がほしかったほど。「あなたはこの狙いをどう思いますか」と逆質問され、タジタジになったこともあった。我々メディアにとっても、オシムジャパンの1年4カ月は刺激に満ちた、貴重な経験に他ならなかった。

2006年ドイツW杯出番なしの遠藤保仁を引き上げた名将

 この代表チームで輝きを放った選手には、「水を運ぶ人」として名を馳せた鈴木啓太(AuB株式会社代表取締役)、25歳にして日の丸を初めて背負った中村憲剛(川崎FRO)らがいるが、歴代最多キャップ数の152を誇る遠藤保仁(磐田)もその1人だろう。

 初めて代表候補合宿に呼ばれたのはフィリップ・トルシエ監督時代の2000年、代表デビューはジーコジャパン初陣だった2002年11月のアルゼンチン戦(埼玉)と、早いうちから高度な技術とパスセンスが評価されていた遠藤。しかし、中田英寿や中村俊輔(横浜FC)、小野伸二(札幌)ら同世代のMF陣に阻まれ、試合には出たり出なかったりが長く続いた。ご存じの通り、2006年ドイツワールドカップ(W杯)もフィールドプレーヤー唯一の出番なし。この頃までは宙ぶらりんな存在だったと言っていい。

 ところが、オシム監督は当初、小野や小笠原満男(鹿島アカデミー・テクニカル・ダイレクター)らジーコジャパン時代に重用されていた中盤の面々を軒並み外し、遠藤だけを残した。当時のある代表スタッフから「オシム監督から『ドイツW杯のメンバーから誰を残すべきか』と尋ねられ、『試合に出られなくても文句1つ言わず、自分のやるべきことを突き詰めていた遠藤は残すべき』と進言した」というエピソードを聞いていたため、人間性やメンタリティが認められたと受け止めていたが、それだけではなかった。

「先を読める頭の中が別格」

 千葉時代にオシム監督の下で働いていた江尻篤彦コーチ(現東京V強化部長)はこんな秘話を明かしてくれた。

「オシムさんは『ガンバ大阪の遠藤は日本で一番いい選手』と事あるごとに絶賛していました。『2手先・3手先を読める頭の中が別格』だと。それは間違いないと思いましたし、ジェフが対戦する時はつねに佐藤勇人(現千葉CUO)を徹底マークに行かせたほどです。

 ただ、当時の遠藤にはそれほどハードワークをする印象はなかった。『彼は走れますかね?』と疑問を投げかけたところ『走れる』と太鼓判を押した。『賢い遠藤ならムダなく効率よく走れるし、献身性も押し出せる。ああいう選手を走らせることができれば、日本サッカーは変わる』とまで言っていました」

 確かにトルシエ氏も「遠藤はテクニックに関してはピカ1だった」と語っていたことがある。それでも使わなかったのは、どこか強度や走力、激しさが足りない印象があったからだ。それでもオシム監督は「あれだけ先を読む力を備えた選手は絶対にもう1段階2段階上の領域に達することができる」と確信していた。だからこそ、遠藤を自身の代表チームの軸に据えたのだろう。

「うまいだけではダメ」。走りの重要性を理解した遠藤保仁

 江尻氏はさらに話を続けた。

「オシムさんは、ユーゴスラビア代表を率いて参戦した1990年イタリアW杯でわざとスター選手を並べたチームで初戦・西ドイツ戦に挑んで大敗し、メディアに『キミたちが求めたチームはこうなんだ』と現実を突きつけた。そこからはハードワークできる人間を組み込んでベスト8進出を果たしました。

 ピクシー(ドラガン・ストイコビッチ・セルビア代表監督)も『昔は走れた』とも言っていましたけど、この時代はオシムさんの基準を超えるだけのハードワークをしていたから起用し続けたそうです。

 やはりサッカー選手はうまいだけではダメ。オシムさんは代表で遠藤に走ることの意味を理解させ、やるべきことを具現化させた。彼が152試合までキャップ数を伸ばし、42歳になった今もJ1でバリバリに戦えているのも、その出会いが大きかったのかなと僕は思っています」

2人の共闘をもっと長く見たかった。
2人の共闘をもっと長く見たかった。写真:アフロスポーツ

 オシム監督はどれだけ技術レベルや創造性が高くても、走れない選手は使わなかった。そのポリシーは一貫していて、中村俊輔や中村憲剛に関してもそうだった。

 スコットランド1部のセルティックで成功を収めた俊輔を2007年3月のペルー戦(横浜)から呼び戻し、同年夏のアジアカップ(東南アジア4か国共催)で起用し続けたのも、一定レベル以上の守備やハードワークを評価したからだ。

「いつからこんなに走れるようになったのか」と筆者が聞くと、背番号10は「前からだよ」と軽く受け流したのを覚えているが、考えながら走るというコンセプトを懸命に体現しようと努力していたのは間違いなかった。俊輔を含めて、名将は数多くの選手たちの人生を激変させたのである。

「考えながら走ること」の意識を変えた恩師に感謝

 遠藤も3日の鹿島アントラーズ戦の後、オシム氏との大きな出会いの意味をしみじみと語っていた。

「僕は代表でしか一緒に仕事をしていないですけど、ジーコさんの後、オシムさんになって数多くの試合に出させてもらった。日本の特徴を生かすために『考えながら走ること』の意識を変えた方だと思います。オシムさんと出会って人生が変わった選手、考えが上乗せされて成長した選手も沢山いる。感謝している選手は沢山いる。現役を続けている人間はいいプレーを続ける、退いた人は指導者になることで喜んでもらえるように頑張っていくことが大事だと思います」

 オシムジャパンで確固たる地位を築き、日本の中盤を統率するに相応しいトップ選手になれたからこそ、遠藤はその後の岡田武史(JFA副会長)、アルベルト・ザッケローニ、ハビエル・アギーレ(マジョルカ)という指揮官が率いた各代表でも重用された。「152」という数字は4度目のW杯を果たしそうな長友佑都(FC東京)さえも届かない偉大な数字である。

 基盤を築いてくれたオシムさんの教えを遠藤は今もなおピッチで表現する。その経験値をいかんなく発揮し、主軸としてジュビロ磐田のJ1定着に貢献すること。それが恩師への最高の手向けになるはずだ。