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「感覚がズレてるならやめるしかない」プロ26年目、中村俊輔43歳の葛藤

元川悦子スポーツジャーナリスト
プロ26シーズン目を迎える率直な心境を語る中村俊輔(筆者撮影)

 かつて日本代表のエースナンバー10を背負い、2006年ドイツ、2010年南アフリカの両ワールドカップ(W杯)に出場した稀代のレフティ・中村俊輔(横浜FC)。彼にとってプロ26年目となる2022年シーズンは3年ぶりのJ2参戦だ。背番号を10から新人時代につけた25に変更し、J1昇格に挑むことになる。

 同じ南アW杯組の玉田圭司、阿部勇樹(浦和ユースコーチ)、大久保嘉人ら年下の面々が引退する中、43歳になる大ベテランはなぜピッチに立ち続けるのか…。自身が追い求める理想像とは…。

 新シーズン開幕直前の本人に偽らざる胸の内を聞いた。

「自分にしかできないことが絶対にある」

――昨季は12試合の出場にとどまり、クラブもJ2に降格しました。

「ここまで来ると『シーズンを通して毎試合出よう』って思うと逆に苦しくなってしまう。そんなに欲を出し過ぎても自分の首を絞めちゃうだけだから。『もう40歳を過ぎてるし、試合に出られないのも当たり前だよな』ってたまには思わないとストレスがたまるし。『でも、やろう』とは思いますよ。毎回の練習で自分のベストを出して、目の前の試合メンバーに滑り込むことに集中するしかない」

――チームメートには息子のような年代の若手もいる中、どこで勝負する?

「『俺の方が動けてないけど、他のところでは勝ってる』というのを見せなきゃいけない。それを見せることが大事。サッカーは1人ではできないから、誰かとコンビを作ってパイプを太くすれば、相手の嫌なこともできるし、勝つこともできる。そう思いつつ、『18歳より走ってやろう』という気持ちはありますよ(笑)」

2022年は横浜FCのJ1復帰に全力を注ぐ覚悟だ(写真:日刊スポーツ/アフロ)
2022年は横浜FCのJ1復帰に全力を注ぐ覚悟だ(写真:日刊スポーツ/アフロ)

――具体的なプレーのイメージが湧いている?

「湧いてはないよ。でも、シーズン中には、大事な場面がいろいろと出てくる。セットプレーもそうだし、そこを見てたのかっていうスルーパスとか自分にしかできないことって絶対にあると思うから。今はその段階かな」

――頼もしいですね。今季はどうなれば自分自身が納得できそうですか?

「四方田(修平)監督の考えるサッカーや戦術を理解して、表現することが第一。でもそれだけではなく、監督が持ってる感覚や選手を見る目、サッカー観をうまく取り入れつつ、新しいものを生み出したい。

 昔、ヤナギさん(柳沢敦=鹿島ユース監督)にスルーパスの感覚を教えてもらって自分自身に生かしたように、選手同士で化学反応を見つけたり、新しい形を作り上げられたらすごくいい。与えられた戦術をやってるだけじゃだめだと思うからね」

追い求める理想のサッカーとは

――それは選手側の応用力が問われます。

「そうだね。一例を挙げると、2月1日のサウジアラビア戦で南野(拓実=リバプール)君が挙げた1点目かな。酒井(宏樹=浦和)君が伊東(純也=ゲンク)君に出したパスが目に留まった。普通なら相手DFに引っかからないようにちょっと弱めに出す。でも酒井君は伊東君がDFを振り切れると思って長めに入れたでしょ。あれは教えるもんじゃないし、2人の関係から生まれたプレー。ホントすごいし、素晴らしい。ああやってお互いの長所を生かしあう関係を横浜FCでも作っていけたらいいですよね」

――さすがは着目点が違いますね。

「監督から言われたことをやれれば評価される。それはあくまで基本で、そこからどうアレンジしていくかがサッカーの醍醐味。そういう部分は指導者になっても追求していきたい」

――18歳の頃、「子どもを教えたい」と言っていました。同世代の仲間が次々と指導者に転身している今、指導者への関心はいかがですか?

「同世代が指導者になってるのは、それぞれのタイミングだから別に比較するものじゃない。長くやっていれば、自然とそういう目線になることもあるけど、俺自身に焦りはないしね。かといって、選手にこだわってるわけでもない」

ピッチ上での会心の笑顔を多くの人々が待ちわびている(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)
ピッチ上での会心の笑顔を多くの人々が待ちわびている(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)

――引退することへの迷いがある?

「迷いはないけど、引退がよぎることはありますよ。32~33歳から1年契約を続けているし、覚悟を持って毎年やってるから。

 今は横浜FCを強くしたいし、若い選手とお互いにレベルを上げたい。だから、頑張ってる仲間を見ると『こういうのもあるよ』『自分はこうやってきたよ』って助言してます。ただ、本当にいい選手は勝手にうまくなるから、言い過ぎはよくないけどね。自分が若手だった頃も井原(正巳=柏コーチ)さんや能活(川口=U-19日本代表GKコーチ)さんみたいなプロフェッショナルな人が周りにたくさんいて、自分で考えて成長していける環境を作ってくれた。そのことはつねに頭にありますよ」

25年間で最も苦しかった記憶

――97年にプロ入りしてからの長いキャリアを振り返ると?

「振り返ってみると、ほとんどが苦しい感じじゃない? いいことの方が少ないし、いいことは一瞬で終わるから(苦笑)。だけど、課題を見つけて、自分を奮い立たせて、またやるっていうサイクルは今でも楽しめてる」

――その中でも最も苦しかったのは?

「2002年(日韓W杯)とか2010年(南アW杯)の後かな。自分の中でも『どうなっちゃうんだろう』っていうのが一番強かった」

集大成と位置付けた南アW杯では納得いく活躍はできなかった(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)
集大成と位置付けた南アW杯では納得いく活躍はできなかった(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)

――32歳で迎えた2010年のW杯は、ご自身でも「集大成」と位置づけていた分、出場機会を得られなかったことはショックが大きかった?

「あの時は近くで寄り添ってくれる人がいたから、何とか心が折れないで済んだと思う。大会前の事前合宿で監督の岡田さん(武史=FC今治会長)に『自主練をさせてほしい』とお願いして、フィジカルトレーナーの早川さん(直樹=長崎フィットネスコーチ)が一緒に練習してくれたんです。

 W杯の後、マリノスで木村和司監督の下でキャプテンをやらせてもらって、チーム全体のことを考えられるようになったのも大きいかな。大事なのは、苦しい時、うまくいかない時ほど『逆に伸びるチャンス』と思って奮い立たせられるかどうかだよね」

苦悩があるからピッチに立ち続ける

――今季に臨む思いを漢字一文字で表現するとしたら?

「『挑(む)』はつまんないしな…。『悩(む)』かな。人は悩むことで成長するから。答えは見つからないけど、とりあえずガムシャラにやって、『今日はダメだった』『試合に絡めなかった』と思いつつ、少しずつ前進していく感じです。

 自分はまだやれるし、できるって感覚がある。監督の評価と自分の中でできてることの感覚がズレてたら、それはもうやめなきゃいけない。そうやっていろんなことに悩み続けるってことです」

 サッカー選手に苦悩や葛藤はつきもの。中村俊輔ほどそれを繰り返してきた人間はいないと言っても過言ではないだろう。

 レフティの目指す理想は常人の想像をはるかに超えるほど高い。43歳になった今もそこに辿り着けている実感を持てていないからこそ、彼はピッチに立ち続け、高みを目指し続けるのだ。

 まさにストイックな男の2022年シーズンは果たしてどのようなものになるのか。「求道者」の行く末を興味深く、温かい目で見守りたい。

年齢を重ねても左足のキックの精度は誰よりも高い(写真:徳原隆元/アフロ)
年齢を重ねても左足のキックの精度は誰よりも高い(写真:徳原隆元/アフロ)

■中村俊輔(なかむら・しゅんすけ)

1978年6月24日生まれ。神奈川県出身。桐光学園高校を経て、1997年に横浜マリノスに入団。2000年には史上最年少の22歳でJリーグMVPに輝く。2002年にイタリア・セリエAのレッジーナに移籍。2005年からスコットランドの名門セルティック移籍。2006-07シーズンにはUEFAチャンピオンズリーグ(CL)のマンチェスター・ ユナイテッド戦でFKを決める活躍で決勝トーナメント進出に貢献した。スペイン1部のエスパニョールを経て、2010年に古巣・横浜F・マリノスに復帰。その後はジュビロ磐田でもプレーし、2019年から横浜FCに所属。日本代表としては、2000年シドニーオリンピック、2006年ワールドカップドイツ大会、2010年南アフリカ大会でメンバーに選ばれた。国際Aマッチ通算98試合出場24得点。

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スポーツジャーナリスト

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から7回連続で現地へ赴いた。近年は他の競技や環境・インフラなどの取材も手掛ける。

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