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「鬼の覚悟」で挑んだ東京五輪で夢散る… 女子バレー荒木絵里香にいま伝えたいこと

元川悦子スポーツジャーナリスト
4度目の五輪でメダルに手が届かなかった荒木絵里香(写真:ロイター/アフロ)

「力不足を痛感しています」

 8月2日の東京五輪女子バレーボール1次リーグA組最終戦・ドミニカ共和国のアネリス・バルガスのクイックがコートの真ん中に落ちた瞬間、女子日本代表の準々決勝進出の夢は絶たれた。2016年の就任時から「金メダル獲得」という大目標を掲げ、強化を続けてきた中田久美監督率いる日本女子だったが、96年アトランタ大会以来の1次リーグ敗退というまさかの結果を余儀なくされた。

「チームとして焦ってしまい、バタバタした試合運びになって終わってしまった、力不足を痛感しています」

 背番号11をつける荒木絵里香(トヨタ車体)は試合直後にこうコメントしたという。

韓国との死闘が大会の明暗を分けた

 中田監督から2012年ロンドン大会に続くキャプテンの大役を託されながら、チームを勝利へと導けなかった無力感や不甲斐なさに打ちひしがれたに違いない。誰よりも真面目な彼女は不本意な結果の責任をひしひしと受け止めていたはずだ。

 本番直前のFIVBネーションズリーグ(イタリア・リミニ)では4位に滑り込んでいただけに「女子はメダルも狙えるのではないか」という期待も高まっていたが、メンバーを固定して戦ったことで、逆に対戦国に丸裸にされたのが苦戦の一因と見る向きもある。

 そこへきて、7月25日の初戦・ケニア戦で古賀紗理那(NEC)が負傷。いきなりチーム全体に暗雲が立ち込めたのだ。

 キーマンを欠いた日本は27日のセルビア戦、29日のブラジル戦をそれぞれ0-3でアッサリ落とし、迎えた31日の韓国との大一番。古賀が中田監督に出場を直訴して復帰を果たし、レフトからスパイクを決めまくるなど奮闘。荒木もミドルブロッカーとしてブロックやブロード攻撃などで力強く仲間をけん引する。互角の勝負は5セット目までもつれ込み、日本が先にマッチポイントに到達。「これで勝った」とテレビの前の多くの視聴者は確信しただろう。ところが、2度のアドバンテージを生かせず逆転負け。これが大会の明暗を分けることになってしまう。

 ドミニカ共和国との最終戦も入りが悪く、3セット目は辛うじて奪い返したものの、巻き返すのもそこまでが精一杯。最後の最後まで日本らしいバレーボールをさせてもらえず、敗れ去ることになった。

「若い選手たちにはこの五輪の経験を糧にしてほしい」

「2012年ロンドンの時は、大会前に世界選手権やワールドカップなどの大会があり、メダルを取ったり強いチームに勝ったりと成功を収めて大会に挑めた。今回とはそこに差があったのかなと思う。日本はディフェンスで勝たなければいけないが、他国もディフェンスが強化されてボールが落ちなくなっているので、世界のレベルが上がっていると感じる。勝たなければいけないという焦りもあり、苦しい状況を断ち切れない時間が長かった。チームとして日本が強くあるためには、この力が必要だと思う。(若い選手たちには)この五輪での経験や今の思いを忘れず、糧にしてほしい」

 荒木はバレーボール協会の公式HPを通じて、大会をこのように総括していた。

愛娘との時間をお預けにした5年間の覚悟

 小学2年生の娘・和香ちゃんの母として36歳で挑んだ4度目の大舞台。彼女には特別な思いがあった。

「今は東京五輪を最終的な一番の集大成として考えてるし、そういう方向で家族とも話をしている。そこに向かって全てをやり尽くしたいんです。やっぱり自分はバレーが好き。ホントに好きなことをここまでやり尽くせるというのは、幸せなことですね」

 1年延期となった東京五輪に向けて再始動したばかりの昨年6月、荒木は偽らざる本音を口にした。ここで代表生活に区切りをつけることをほぼ決めていたのだ。

 2014年に愛娘を出産してからというもの、「妻・母・競技者」を掛け持ちするのは並大抵の苦労ではなかった。実母・和子さんが全面的に子育てに協力してくれたからこそ成り立った生活だが、子供の側にしてみれば、どうしても母親でなければいけないこともある。幼い頃は、所属先の遠征の時でさえ「今日は帰ってくる?」「一緒にご飯食べる?」と毎日のように聞かれ、複雑な感情を覚えたという。

 それが代表合宿になれば、何週間、場合によっては月単位で家を空けることになる。「ママ、行かないで」「どうしても行っちゃうの?」と泣き叫ぶ娘を置いて、合宿先に赴かなければならない彼女の心情を他人が推しはかるのは難しい。本当に鬼のような覚悟を持たなければ、代表活動は続けられなかったのだ。

バレー人生の全てを懸けて高みを目指したが…。

 荒木自身、家族に負担をかけていることは重々承知していた。「家族に迷惑をかけている」という発言も何度も耳にした。それでも東京五輪にチャレンジしようという決意は新型コロナウイルス感染拡大や五輪1年延期があっても揺らがなかった。

 娘の小学校入学に合わせて一家は千葉県柏市に引っ越ししていたから、荒木は所属先の本拠地・愛知県に単身赴任。これまでのように自由に実家との行き来ができない中、貪欲に高みを追い求めてきたのだ。

 2021年3月以降は代表活動が再開。この4か月間はほとんどバブル生活で、家族にもまともに会えない日々が続いたが、「日本を勝たせるんだ」という一心で取り組んできた。

 こうした努力がメダルという形で報われれば最高だったが、勝負の世界というのは非情なもの。必ず好結果が出るとは限らない。敗戦から間もない今は「なぜ自分たちのスタイルを出せなかったのか?」「自分にできることは他になかったのか?」と自責の念に駆られているだろうが、荒木が歩んできた道のりに決して嘘はない。妻・母・競技者の三足の草鞋を履いた女性トップアスリートが東京五輪まで全力で駆け抜けたことに我々は今一度、敬意を表するべきである。

「妻・母・競技者」の経験を次世代につなげて

 日本女子は今後、中田監督が退任し、次の指揮官の下で2024年パリ五輪を目指すことになるが、おそらく荒木は第一線から退くだろう。それでも彼女には女子バレー発展のためにできることはある。とりわけ、結婚・出産を経て競技生活を続ける選手のサポートは彼女以外にはできないこと。女子バレー界は長時間練習や長期合宿が当たり前になっていたが、そういった伝統も含めて見直すべき時期に来ている。そこで荒木が自身の経験を踏まえて発言していけば、女子バレー界はもちろん、スポーツ界全体が前向きな方向に進む可能性は大いにある。

 いつも優しく頼もしい荒木なら、力強く未来に向かって進めるはず。その前に今はゆっくり休んでもらいたい。1人の母親として娘に持てる愛情の全てを注ぐ穏やかな日々を取り戻してほしいものだ。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】

スポーツジャーナリスト

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から7回連続で現地へ赴いた。近年は他の競技や環境・インフラなどの取材も手掛ける。

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