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「いまは自分らしさ爆発」安藤美姫、ありのままに語った32歳の胸の内

元川悦子スポーツジャーナリスト
清々しい笑顔を見せる安藤美姫さん(撮影・倉増崇史)

 安藤美姫さんは人々の注目の的であり続けた。14歳で女子史上初の4回転ジャンプを成功させると、「ミキティ」の愛称で呼ばれる人気者となった。2006年トリノ、2010年バンクーバーの2度の冬季五輪に出場し、2007年と2011年の世界選手権ではチャンピオンに輝いた。そんな華やかなキャリアを歩んできたスター選手が2013年、「長女を出産していた」とテレビ番組で公表。アスリート以外の面でも注目を浴びた。それでも、彼女は全日本選手権を目指して復帰し、競技生活を最後まで全うした。引退後はプロスケーターやコーチ、タレント業を並行しながら長女を育て、この春からは小学校に入学した。

「いろんなことがありましたけど、いまでは『批判的なファンの方も友達』って思えるようになりました」と爽やかな笑顔を見せる勇敢な彼女が、32年間の壮絶な人生をありのままに語った。

18歳、4回転失敗でメディアは一斉に離れた

 安藤さんがフィギュアスケートを始めたのは8歳のとき。父を交通事故で亡くし、その悲しみを癒やしてくれたのが、最初の恩師である門奈裕子先生の笑顔だった。氷上を滑る魅力に取りつかれた少女はメキメキと実力をつけ、14歳で女子史上初の4回転ジャンプに成功。シニアに転向した2003年の全日本選手権を16歳で制すると「安藤美姫フィーバー」が起きる。その華々しいデビューが足かせになるとは、彼女自身も考えていなかった。

「あのころは日常生活がない状態でした。高校の門の前にメディアの人が何人もいて、家の前にもパパラッチが集まる日々で、『隠れて生きたい』と思っていました。トリノの前もそんな状況だからスケートに集中できない。そこから逃げるようにアメリカに拠点を移し、ようやくスケートに向き合えるようになった。でもシーズン直前の拠点変更で調整がしっかりできずに骨折もしましたし、精神面も不安定ですべてが空回りした。それがトリノの15位という結果に表れたのかなと思います」

2006年トリノ大会で五輪初舞台を踏んだが…。(写真:Panoramic/アフロ)
2006年トリノ大会で五輪初舞台を踏んだが…。(写真:Panoramic/アフロ)

 トリノの惨敗で安藤さんは人間不信に陥った。ショート8位と出遅れ、フリーで4回転に挑んだが失敗。期待を裏切る結果となって、大きな批判にさらされた。それまで彼女のところに押し寄せていたメディアも瞬く間に去っていった。

「『なぜ4回転をやったのか』『4回転=日本の恥』『結果を残さないやつはいらない』というネガティブな言葉が飛び交いました。それまで近づいてきたメディアの人もぱたっと来なくなった。母から『人を信じなさい』と教わってきたので、それまでは『応援してくださっているんだ』と思っていましたが、現実はそうじゃなかった。18歳で『大人の世界』を突きつけられることになりました(苦笑)。『大好きなスケートのせいで、自分の人生がグチャグチャになるんだったら、もうやめたい』とさえ考えましたね。

 そんな私を救ってくれたのが、1人の女性でした。トリノの会場で『こんな大舞台で4回転に挑戦してくれてありがとう。日本から見に来て本当によかった』と言ってくださったんです。1人でもそう思ってくれる人がいるのなら、もう一度、ゼロから頑張ってみようかなという気持ちになりました。その人がいなかったら、やめていたと思います」

18歳当時の苦しみを述懐する安藤さん(撮影・倉増崇史)
18歳当時の苦しみを述懐する安藤さん(撮影・倉増崇史)

 再出発を決意し、アメリカに戻った安藤さんはニコライ・モロゾフコーチに師事。彼との親密な関係を取り上げるメディアは後を絶たなかったが、まったく気にならなかった。

「『世の中には世界チャンピオンも五輪チャンピオンもたくさんいる。その肩書は消えないけど、いつかは現役を退いて違う道に進む。女性としての人生の方が長いからこそ、どういう生き方をしたいか真剣に考えろ』とニコライに言われて、悔いを残しちゃいけないって痛感したんです。そこからは自分の意見もどんどん言うようになった。日本って黙ることが美学だったり、思っていることを我慢するところがあります。でも、アメリカのホームステイ先では、目上の方に意見をしたとしても大丈夫だと学びました。だから、1つの作品を作り上げるときも自分の言葉で素直に表現して、信頼関係を築き上げていくようになりました」

「批判的なファンの方も友達」人間として向き合う

 ゴシップを取り上げる報道陣や批判的な声に対する考え方も変化していった。高校時代は「とにかく隠れていたい」としか考えられなかったが、「そういう仕事をしなければいけない人もいる」と相手の立場を理解し始めたのだ。苦言を呈する人も、自分に興味関心を抱いていなければ、貴重な時間を割くこともない。次第に「すべての人が敵ではない」という気持ちになった。

「ゴシップ雑誌の人も仕事として書かなければいけないことはありますよね。そう考えると動じなくなりました。娘が生まれたときも報道が過熱して、パパラッチのような人に追いかけられましたけど、こちらから『何もお話しできないけど大丈夫ですか?』とご挨拶をしたら、名刺をくださって『意外に丁寧なんだ』と感じることも多かった。誰が相手でも1人の人間として向き合うことで伝わるものはある。年齢を重ねていくうちに、そう考えられるようになったのは確かです。

 自分にはアンチが多いのかなと思うんですけど、わざわざ私のことに時間を割いてくださっている。そういう人のストレス発散になるのであれば、人の役に立っていると思えるんです。人間って幸せなときばかりじゃないし、うまくいってないときには『すべてが嫌になる』という感情は誰にでもある。そこで私に当たってスッキリするなら、それもありかなと。いまは『批判的なファンの方も友達』みたいな感じですね(笑)」

年齢を重ねて今の境地にたどり着いた(撮影・倉増崇史)
年齢を重ねて今の境地にたどり着いた(撮影・倉増崇史)

妊娠に賛否両論「さまざまな幸せの形、私はそれを選んだ」

 2010年のバンクーバー五輪で5位入賞。2011年の世界選手権でも2度目の女王に輝いた。東日本大震災では、大事な人が亡くなる悲しみを幼少期に体験していたこともあり、リンクに立てなくなるほど落ち込んだが、被災地から「こんなときこそ美姫さんのスケートが見たい」という手紙を読んで奮起した。精神的に安定していた彼女の滑りは圧巻だった。しかし、本人はその世界選手権を機に引退を考えていた。

「諸事情でやめることは難しくて、長期休養という形でリンクから離れたんです。そんなときに娘を授かった。公表したときには賛否両論がありましたけど、私自身は『なぜだろう』という感じでした。女性のさまざまな幸せがある中で、出産も1つの形。自分はそれを選んだだけなんです。

 その間、てんこ盛りになっていた手紙を1枚1枚、読む時間ができて『また戻ってきてね』というメッセージをたくさんいただいた。生まれてくる子に何を見せてあげられるだろうと考えたとき、私にはやっぱりスケートしかない。1つのことをやり遂げる意味、諦めない大切さを教えることしかできないと思いました。それで2013年夏に復帰を決意し、全日本選手権を目指すことにしました。

 当時25歳。筋力も落ちていて、ジャンプも飛べなくなっていました(苦笑)。4回転どころか1回転からのスタートでした。それでも『気持ちがあれば絶対にできる』と信じて、門奈先生と取り組みました。最後の試合は2013年12月の全日本選手権。目標としていた舞台で、母親業をしながらリンクに立つ強い女性の姿を見せられたのかなと。娘がいたからこそフィギュアスケーターの安藤美姫がいたんだということを、彼女が大きくなったときに知ってほしいです」

見る者を魅了した現役最後の2013年全日本選手権(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)
見る者を魅了した現役最後の2013年全日本選手権(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)

32歳の今「この瞬間を生きていたいです」

 32歳の彼女はさまざまな紆余曲折を経験し、常人には想像できないほどの喜怒哀楽を味わってきた。現役引退後はアイスショーに出演するプロスケーターやコーチとして活躍する傍ら、テレビ出演などをこなし、娘を育てている。母や仕事のスタッフ、ママ友、友達らに支えられながら多忙な日々を乗り越え、娘を小学校に入学させるところまでたどり着いた。数えきれないほどの荒波をくぐり抜けて来られたのは、何があってもブレることなく前向きに生きようとしたから。その強さこそ、安藤美姫という人が持つ最大の魅力なのだ。

「引退してからも、根本が変わらないからなのか、何しても周りからいろいろ言われるんです。やんちゃなんでしょうね(苦笑)。でも、自分らしくいたいので、いまは自分らしさを爆発させてます。この瞬間を悔いなく生きていたいです」

全力で自分らしく今を生きる安藤さん(撮影・倉増崇史)
全力で自分らしく今を生きる安藤さん(撮影・倉増崇史)

■プロフィール

1987年12月18日生まれ(32歳)、愛知県名古屋市出身。8歳からスケートを開始。14歳のときに女子選手初の4回転ジャンプに成功して、一躍脚光を浴びる。2003年全日本選手権では16歳で初優勝。翌年も制して全日本連覇を果たす。初出場の2006年トリノ五輪では15位だったが、2007年世界選手権で日本人4人目の世界女王に輝く。2010年バンクーバー五輪では5位入賞。2011年東日本大震災の影響で開催地が東京からモスクワに変更された世界選手権で2度目の優勝。その後、競技生活を休養。2013年7月、テレビ番組でのインタビューで長女出産を公表した。同年12月の全日本選手権で現役引退を表明。現在はプロスケーター、指導者として活動している。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】

スポーツジャーナリスト

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から7回連続で現地へ赴いた。近年は他の競技や環境・インフラなどの取材も手掛ける。

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