銀行はカネをやめてモノ、ヒト、チエ、コトを貸したらどうだ

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 銀行は、顧客である企業に対し経営に必須の重要資源を提供してきたからこそ、そして、それがカネであったからこそ、社会的存在意義をもっていたのです。カネに希少性が失われた今、カネ貸しとしての銀行の存在意義は著しく低下したわけですが、ならば、原点に戻り、銀行の機能を企業経営に必要な資源の供給に求め、カネに替わって希少性のあるモノ、ヒト、チエ、コトを貸せばいいのではないか。 

昭和も遠くなりにけり

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 ここ数年の間に、金融行政のあり方は劇的に変貌しました。むしろ、変わらざるを得なかったといったほうが正しいかもしれません。カネの希少性が失われたことは、それほどに深刻な影響を日本の金融に与えているのです。なかでも銀行等の預金取扱金融機関の場合、大きな装置産業として多額の経費をかけて預金を集めても、その運用先がないのですから、事業の基本構造自体が崩壊の危機に瀕しているといえるわけです。

 ここで、金融庁にとっても、銀行にとっても悩ましいのは、預金が集まってしまうという問題です。普通の商売ならば、売れる見込みのないものを仕入れる必要もないわけですが、銀行は預金の受け入れを拒否できないのです。ここには、銀行等の社会的意義に鑑みた規制の効果があります。即ち、一方には、銀行等しか預金を取り扱えないという特権の保護があり、他方には、だからこそ必ず預金を受け入れなければならないという義務の賦課があるのです。

 戦後、絶対的なカネ不足のなかで、この国策によって作られた強力な仕組みは、国民の零細な貯蓄を集積し、それを産業界に還流させることで、奇跡の戦後復興と高度経済成長を実現したのです。ところが、とうの昔に高度成長が終わりを告げ、超成熟社会へと突入した今となっては、仕組みが強力なだけに、逆に、銀行等の経営を著しく圧迫するものとなっているわけです。 

間接金融から直接金融へ

 そこで、金融庁によって、金融構造改革が急速に進められているわけですが、要は、国民貯蓄の流れを抜本的に変えるほかないということです。

 これまで、国民貯蓄は預金を経由して銀行等に集積され、それが融資の形態で産業界に還流していました。即ち、間接金融が中心だったのですが、これからは、国民貯蓄は投資信託等を経由して資本市場に集積され、産業界は社債や株式を発行することで、それを吸収する仕組み、即ち、直接金融へ主軸を移すことになります。

 もちろん、金融行政によって国民の金融行動を変えることはできないので、国民が預金を選好する以上、それを無理に投資信託や社債等に移転させることはできません。当然のことながら、国民が預金を投資信託等に振り替えることに利益を見出さないといけないのです。

 しかしながら、金融構造を変えたところで、カネに資源としての希少性が失われた今、産業界がカネを必要としないのなら、社債や株式の発行が活性化するはずもなく、ならば、国民として、そこに大きな魅力を感じることもないのです。確かに、株価の回復に伴って、一部に株式や株式の投資信託への資金流入があるにしても、預金に偏重した国民貯蓄の構造を変えるには、ほど遠い状況です。 

カネにリスクテイクの力をつける

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 実のところ、より本質的な問題は、希少性の失われたカネに付加価値をつけて希少な資源に転換することなのであって、資本市場に金融の舞台を移すことも、カネに付加価値をつけるための工夫なのです。

 銀行等の預金取扱金融機関は、預金に元本保証を付している関係で、その保証を確実なものにするために高度な資本規制を受けているのです。そうしますと、産業界に融資等の諸形態で資金を還流する際には、自己資本の範囲内でしかリスクをとれないという限界が生じます。

 これに対して、投資信託や社債、株式には元本保証がありませんから、そのリスクは金融界で負担されるのではなくて、資本市場を通じて広く国民の貯蓄全体に拡散して吸収されます。つまり、預金を原資にした資金ではとれないリスクも、投資信託等を原資にした資金ならば、とれるということです。こうして、リスクテイクする力を強化して付加価値をつけるところに、直接金融の本質があります。

 カネの希少性がなくなったとはいっても、カネが銀行等に偏在していて、そこで、リスクテイクの視点からは、いわば無力化されたカネがあり余っているということであって、リスクテイクできる強力なカネは、依然として、希少であるわけです。

 これはいうまでもないことですが、リスクテイクした結果として、それが大きな利益につながらなければ意味はありません。国民がリスクテイクする、そして、カネに力をつける、産業界は、その力のあるカネを成長のために大胆に投資する、そして成果を生む、その成果は国民に還元される。こうしたカネの流れと、その反対向きの利益の流れができ、しかも、それが国民の実体験として認知されたとき、日本の金融に真の変革が訪れるのです。 

なるか好循環への転換

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 これが金融庁のいう好循環ですが、そもそも、好循環が起動するかどうかが大問題であって、金融行政の喫緊にして最重要の課題は起動させる決定的施策を断行することなのでしょう。おそらく多少は強引な施策になるでしょうが、なんとか回転を起動させることができれば、後は自律的回転により好循環の軌道に乗るのではないでしょうか。日本経済には、まだ、それだけの成長余力があるはずです。人口が減るにしても、減った分だけ個人生産性を高めればいいだけのことですから。

 しかし、仮に好循環が起動するにしても、金融構造の転換が完了するまでには、長い時間がかかると予想され、その間、銀行等の役割は極めて重要なものになります。資本市場のリスクテイクの力は、カネに付加価値をつける一つの方法ですが、銀行等には、自らができる範囲内で、別の工夫により、カネに希少な付加価値をつけなくてはならないのです。実際、金融行政は、その重点課題として、資本市場の育成を掲げると同時に、同等の重要性をこめて、銀行等の金融機能の強化も謳っています。 

顧客との共通価値の創造

 銀行等の伝統的な発想からいえば、カネに付加価値をつけるのは産業界の仕事で、銀行等の機能は単にカネを貸すことだというものでしょう。それは基本的には正しいのですが、銀行等のもつカネに希少性がなくなった今となっては、実質的な意味のない正しさに堕しています。

 銀行等が未来を放棄して自然淘汰の道を選ぶのならば、そして、実際、そうしたところも少なくないでしょうから、それは、それでいいのですけれども、もしも、存立を目指すのならば、自己否定の可能性も含めて、存立の社会的意義を再確立しなければならないわけです。

 金融庁の行政方針は、淘汰の道を選ぶ銀行等の存在を認める一方で、存立を目指すところについては、顧客との共通価値の創造を求めるに至っています。共通価値の創造ということは、カネに付加価値をつける作業は、銀行等と、その顧客との協働作業だということですから、金融庁自身が伝統的発想を根源的に否定したということなのです。 

実業に踏み込む金融

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 実業なくして金融なし、しかし、金融なくしても実業あり、ということになったわけですから、金融が存立しようと思えば、実業に踏み込むほかないでしょう。これは金融庁の施策の新奇性というよりも、理の必然です。

 だからといって、いうまでもないことですが、まさか、昔の財閥の時代に戻り、産業一体の機関銀行になれということではありません。そうではなく、カネが希少だったからこそ、その供給に社会的意義があり、故に銀行等が必要だったという原点に帰れということですから、実業の視点、顧客の視点にたって、カネに替わる希少な資源を提供しろということです。それは、当然、希少なモノ、ヒト、チエ、コトになるでしょう。

 このとき、銀行等の伝統的発想を引きずれば、カネが先にあって、それに付随してモノ、ヒト、チエ、コトの提供があるということになりますが、そこを抜本的な発想の転換により、希少なモノ、ヒト、チエ、コトの提供を先に行うことでカネに対する新たな需要を創造し、結果的にカネが流れる方向へもっていかなければならないのです。 

金融制度の抜本的構造改革

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 ここで、大きな問題は、金融規制上、銀行等の業務範囲を超え出てしまうことです。しかし、金融規制が金融機能の高度化を阻害すれば、規制の主旨を没却することになり、深刻な自己矛盾に陥ります。銀行等に原点への回帰を求めている金融庁は、真っ先に金融規制の原点に回帰しているのです。そのとき、直ちに気付かれることは、金融規制の構造が完全に金融機関本位にできていることに伴う弊害です。

 実は、法体系と規制体系は、銀行、信用金庫、信用組合、投資運用業者、保険会社、証券会社、信託会社というふうに業態別にできているのであって、預金、融資、投資信託というような金融機能別にはできていないのです。今、融資に着目し、銀行等の預金取扱金融機関の融資の限界を問題にしているわけですが、いわゆるノンバンクの融資ならば、はるかに自由度が大きいのです。つまり、融資の限界ではなくて、銀行等の業態の限界が問題になっているということです。

 現在、金融庁では、法体系と規制体系を金融機能別に再編する検討が始まっています。しかも、フィンテックを代表例として、金融の領域と金融でない領域との境目の流動化も検討されています。この検討は、なんと、金融庁の所管にとらわれずに行うと宣言されているのです。霞が関に、これほどの革命的動きがあるなかで、銀行等がモノ、ヒト、チエ、コトの提供を行えるように規制改革を行うことなど、それが顧客の真の利益になる限り、いとも簡単なことでしょう。 

モノ、ヒト、チエ、コトの提供

 では、例えば、モノ、ヒト、チエ、コトの提供として、どのようなことが考えられるか。代表例は住宅仲介です。顧客にとって住宅の購入か賃貸かは極めて重大な意味をもつ判断要素ですが、銀行等は住宅ローンしかできないので何がなんでも購入に誘導することになり、顧客の真の利益に反することにもなりかねません。ならば、住宅ローンと住宅仲介の事業を統合したほうが顧客の利益の視点で望ましいとも思えます。住宅ローンというカネから、住宅というモノ、あるいは住むというコトへの拡大です。

 また、モノやコトの提供というのならば、リースの範囲の拡大です。ノンバンクとして専業のリース会社が行っている業務範囲は、まさに実業そのものですから、極めて幅広いものです。ところが、銀行等が子会社等を通じて行っているリース業は範囲が制限されています。これをレンタル等にまで拡大し、顧客の利益の視点で、モノや、モノを使うコトを提供できるようにする余地は非常に大きいでしょう。

 チエとは、いうまでもなく、既に優良な銀行等が積極的に取り組んでいることですが、経営コンサルティングであり、ヒトは自明ですけども、特に地方においては企業の深刻な経営課題でしょう。 

優越的地位の濫用

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 ここで呈される懸念は、銀行等の債権者としての優越的地位のもとにおける弊害です。この銀行等の優越的地位の濫用というのは、非常に古くからある話で、確かに、カネが希少であったときには、その希少な資源を半独占的に支配していたわけですから、弊害防止措置は必須のものであったでしょう。しかし、カネの希少性が失われた今となっては、抜本的に見直しすべきものです。

 もちろん、金融庁が大胆な規制改革を行えば、既存の住宅仲介業者やリース会社等から優越的地位の濫用を懸念する声があがることは必至でしょう。しかし、その当否を決するものは、金融庁その他の行政当局ではなく、ましてや、業界の利害でもなく、国民の利益の視点でしょう。真に国民の利益になることならば改革に聖域を設けるべきではない、それが金融庁の立場だろうと思われます。