高浜原子力発電所の運転停止は「権利のための闘争」の勝利なのか

大津地方裁判所が関西電力高浜原子力発電所の運転禁止を命じたことについては、運転禁止仮処分を申立てていた住民の立場からすれば、人格権を守るための闘争における法的正義の勝利なのだと思われますが、関西電力の立場からすれば、正規な法定手続きを踏んだうえで稼働していた発電所を停止せしめられたことは、不法の極みということにならざるを得ません。さて、理は、どちらにあるのか。

イェーリングの『権利のための闘争』

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イェーリングの『権利のための闘争』(村上淳一訳)は、岩波文庫のなかでも、人気のあるもので、長く、読まれ続けているのだと思われます。そこには、以下の記述があります。長いですが、引用しましょう。

「人格そのものに挑戦する無礼な不法、権利を無視し人格を侮蔑するようなしかたでの権利侵害に対して抵抗することは、義務である。それは、まず、権利者の自分自身に対する義務である、- それは自己を倫理的存在として保存せよという命令に従うことにほかならないから。それは、また、国家共同体に対する義務である、- それは法が実現されるために必要なのだから。」

高浜発電所の運転禁止仮処分を勝ちとった申立て住民からすると、自分たちの闘争によって、人格権を守るための人間の倫理的義務を果たし、また、よりよき国家の実現のために大きな貢献をなすことで、国民としての義務をも果たしたわけですから、まさに、イェーリングの掲げる理念を最もよく実現したものという評価になるのでしょう。

しかしながら、ここでイェーリングのいう権利とは、法によって定立された権利なのであって、法の侵害に対して闘争によって法を守ることは、法によって定立された権利、即ち、人格そのものを守るという意味で、人間個人の倫理的義務であり、かつ、法に活ける法としての力を付与するという意味で、市民社会における国民の義務なのだといっているのです。

さて、高浜発電所運転禁止仮処分の根拠となった申立て住民の人格権は、イェーリングのいう権利=法と同等に解していいものなのか、そこが問題なのです。なぜなら、高浜発電所は、正規な法定手続きを経て稼働していたのですから、そこには、法によって定立された関西電力の権利=法があるからです。自己の権利=法を否定された関西電力の立場からすれば、運転禁止仮処分は、「無礼な不法」なのであって、実際、関西電力は、当決定は不当であると主張し、争っています。

いつの日か、新たなる法が創造されることにより、確定的に、即ち、法律上争う余地が全くなく、原子力発電所の運転が禁止された場合においては、本決定は、稼働中の発電所を停止せしめたという意味で、権利のための長い闘争に期を画す勝利として、歴史に残ることになるかもしれません。しかし、現時点では、疑い得ない事実として、原子力発電所の運転には、明確な法的根拠が存しているのです。

権利=法

イェーリングの『権利のための闘争』の権利とは、ドイツ語のRecht(レヒト)であって、権利と法の両義をもつもので、実際、この本でも、両義に用いられているのです。岩波文庫の村上淳一訳では、丁寧に、特に両義を意味するときには、権利=法と訳出されています。

イェーリングは、レヒトの客観的側面、即ち、法的側面に焦点を当てて、法の創造のための闘争にも言及してはいるのですが、論述は、主として、レヒトの主観的側面、即ち、法によって定立された権利を守るための闘争に充てられているのです。

実際、法の創造のための闘争というのは、政治の領域であって、大きな変革(例えば、革命のような)は、新たに成立した新法秩序の立場からすれば、正義の闘争であるにしても、崩壊せしめられた旧法秩序の立場からすれば、無法の極みなのであって、そこでは、普遍法の進展(社会の進化)を論じることはできても、実定法秩序を論じる余地はないのです。

ただし、実定法内の権利のための闘争においても、法を活かし、法の動態に作用する限り、そこには、一定の法の創造もあるわけです。『権利のための闘争』は、法として定立された権利について、それを守る闘争を通じて、法が権利として活き、同時に、権利が法として強固になっていくという動態を論じたものなのです。

高浜発電所の仮処分決定についても、それが司法の手続きである以上、自明のことながら、本来は、現行法秩序の枠内における法創造の問題にすぎないのであって、現行法秩序自体を超えようとするものならば、関西電力においては、断固として、自己の法律上の権利を守るべく、闘争するほかないのです。それが「国家共同体に対する義務」だというわけです。

シェイクスピアの『ヴェニスの商人』

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その意味で、シェイクスピアの『ヴェニスの商人』の裁判についてのイェーリングの論述は、興味深いものです。

この有名な話については、説明は不要でしょう。アントーニオは、シャイロックとの契約において、債務不履行のときは、自分の肉体から一ポンドの肉を切り取らせる約定をしていたところ、シャイロックは、その権利の正当な行使を求めて、訴訟を起こしたのです。

問題は、この契約の有効性ですが、裁判所は、実は、契約を有効としたうえで、シャイロックの権利を認めています。しかるに、判決では、付帯条件において、一滴の血も流してはならないと命じたのです。これでは、結局、シャイロックの権利は行使され得ず、事実上、裁判所によって否定されてしまったのです。

イェーリングが問題とするのは、契約の有効性を裁判所が認めていることです。つまり、シャイロックの権利は、法によって、動かし難いものとして確定しているのです。それを、裁判所は、詭計をめぐらすことで、自ら否定したのです。これは、裁判所がシャイロックに与えた「人格そのものに挑戦する無礼な不法、権利を無視し人格を侮蔑するようなしかたでの権利侵害」なのです。

イェーリングにとって、権利のための闘争とは、自己の正当な権利を否定されたシャイロックの権利回復のための闘争なのです。しかし、シャイロックには、もはや、闘争の手段がない。故に、彼は、全人格を否定されたのです。イェーリングが問題としたのは、まさに、この点です。

もちろん。シャイロックの契約は、公序良俗違反として、無効なのではないのか、そこに、法的権利を認めるべきではなく、判決は正当なのではないのか、そう問うこともできます。実際、そこは、イェーリングにも、わかっているのです。

故に、もしも、公序良俗違反として、裁判所が契約の効力を否定したのだったら、イェーリングには全く文句はなかったのです。しかし、裁判所は、契約の効力を否定せず、有効に成立したものとして、シャイロックにアントーニオの肉一ポンドを切り取ることを許したのです。

この瞬間、シャイロックの権利は絶対に動かし得ないものとして、確定したはずであるところ、裁判所は、偽計を用いて、シャイロックの権利を否定し、その人格を否定しました。このような不正に対して、イェーリングは、人間の倫理的義務として、国民の義務として、闘争を求めたのです。

公序良俗違反で、契約の効力が法的に否定されれば、シャイロックに権利はない。しかし、逆に、契約の効力が法的に認められれば、シャイロックに権利があり、その権利は、絶対に動かし得ない。これがイェーリングの権利=法の理解です。

なお、ここで、『ヴェニスの商人』の背景として、地中海交易という重要な経済活動のあったこと、その経済活動においては、契約の効力が法によって保証され疑義の排除をされていること、即ち、予見性のあることが極めて重要であったことを、忘れてはなりません。権利=法のための闘争は、経済の根幹を支える原理であったのです。

更にいえば、古い時代には、公序良俗違反で契約の法的効力を否定することができなかった、そこで、裁判所は、超法規的な奇策を用いることで、逆に、法の正義と理念を守ったのではないのか、そうとも考えられます。

しかし、ならば、公序良俗違反という法を創造する闘争は、アントーニオによる闘争として、正面から展開されるべきであったし、その闘争の勝利は、契約の無効という形で、アントーニオの権利=法として、実現されなくてはならなかったのです。偽計によってシャイロックの権利=法を否定することからは、いかなる法創造もあり得ない、それがイェーリングの立場です。

シャイロックとしての関西電力

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東京電力福島第一原子力発電所の事故を受けて、原子力法制は抜本的に改められ、現在の新規制基準は、法に準じた効力を有しています。当然のこととして、原子力発電所の近隣住民の人格権は、新規制基準において、法的に保障されているというのが現行法の前提です。

この法の前提のもと、関西電力は、正規の法定手続きを経て、発電所を稼働していたのですから、そこに、関西電力の保護されるべき権利=法のあることは、誰にも疑い得ない。これを否定することは、経済活動の合理性を否定し、法秩序そのものを否定することなのですから。

しかし、他方で、新規制基準の合理性については、人格権を守る権利のための闘争において、常に、問われ続けられるべきなのですから、原子力発電所をめぐる訴訟や仮処分申立てには、それなりの社会的意義を認めざるを得ません。ただし、司法の手続きである以上は、現行法秩序のなかで、新規制基準の合理性を論ずるほかないのです。そこに、司法の限界があるはずです。

さて、そこで、究極の論点です。大津地方裁判所の決定は、新規制基準の合理性を根底から完全否定することにより被保全権利を認め、保全の必要性について全く検討することなく運転禁止仮処分を認めた点において、司法を逸脱している可能性があるということです。

つまり、本決定では、全ての安全性に関する説明を不十分として退けることで、一滴の血も流すことなく生肉を切れというのと同等な不可能を強いることにより、関西電力をシャイロックの立場に置き、事実上、原子力発電を禁じる法創造が行われたのではないのか、そのような疑念を拭うことはできないのです。

近隣住民等は、新規制基準が前提としている人格権の保障について、合理性を争い、より高度な基準を求めるべく、権利のための闘争を行う、それは、人間としての義務の行使、国民としての義務の行使として、社会的意義のあることです。

結果として、最高裁判決による法創造が行われ、新規制基準が進化することもあるでしょう。しかし、それは、どこまでも、法律によって定められた原子力事業者の権利を前提にしたことです。

原子力発電の廃絶により、原子力事業者の権利を否定しようとする闘争は、法の創造のための闘争であり、純然たる政治の領域の問題です。そのような政治活動は、各自が自己の信条に従って自由にやればいいことですが、全くもって、司法の埒外だということです。