素人裁判官が原子力発電所の運転禁止を命じてもいいのか

大津地方裁判所が関西電力高浜原子力発電所3号機および4号機の運転を禁止する仮処分申立てを認める決定をしたことについては、直ちに、科学技術的に素人の裁判官の判断によって、科学技術的に玄人の原子力規制委員会等の判断を否定できるのかという疑問を生じさせます。さて、素人裁判官は、いかにして社会的公正の実現に寄与し、また、社会的利益を損なうのか。

運転禁止仮処分決定について疑問

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関西電力高浜原子力発電所は、2月26日には、原子力規制委員会の全検査を終えた3号機が本格運転を再開し、また、同4号機も、原子炉起動が行われて、再稼働へ向けた最終準備段階にはいっていたのです。ところが、3月9日に、大津地方裁判所が3号機および4号機の運転禁止仮処分申立てを認めたので、翌10日には、稼働中の3号機の運転が停止される事態となりました。

3号機は、原子力規制委員会の新規制基準を満たしたものとして、本格稼働を再開しており、また、4号機も、新規制基準を満たすことを前提にして、最終準備段階にはいっていた以上、この裁判所の決定は、原子力規制委員会の法定手続きの適法性を完全に否定したものと考えざるを得ません。

もちろん、原子力規制委員会の法定手続きに瑕疵のある可能性、また新規制基準に論理的整合性を欠く不備のある可能性は排除し得ない以上、行政処分の違法性を問題とする余地はあります。しかし、今回の決定は、新規制基準を論理的に検討しているかのような装いは整えていても、実質は、新規制基準の根底の策定思想を主観的に否定することで、なされています。

はたして、科学技術的知見をもたない裁判所として、そうした主観的断定は、可能なのか、より根源的に、司法の機能として、許容されることなのか、また、仮に、原子力規制委員会の正式な規則である新規制基準の内容を問題にし得るにしても、法制度論的に、本件のような民事の仮処分申立ての場でなされるべきことなのか等、たちどころに、多くの疑問を生じさせる決定といわざるを得ません。

「非常に不安を覚える」という心情の吐露

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では、具体的に、裁判所の論拠として、顕著におかしなところは、どこか。やはり、裁判所の考え方(というよりも、むしろ、裁判官の個人的意見としか思えませんが)を一番よく表明しているのは、過酷事故対策にかかわるくだりでしょう。そこでは、東京電力福島第一原子力発電所の事故をうけて策定された新規制基準を、正面から否定しているのです。

例えば、事故後の本質的に有効な対策は、事故原因の究明抜きには不可能であるとし、完全な調査が未了である現状では、真の原因究明はなされていないわけで、それにもかかわらず、新規制基準を策定した原子力規制委員会の姿勢について、「非常に不安を覚える」としています。

つまり、「津波を主たる原因として特定し得たとしてよいのかも不明」と述べることで、原子力規制委員会が前提としている多くの専門家の見解を否定しているわけです。このような主張(というよりも、「非常に不安を覚える」という心情の吐露)は、仮に調査が完了して事故原因の究明がなされるにしても、それが数十年先であることを考えれば、事実上、全ての原子力発電を根底から否定するものとして、結論先にありきで、表明されたものとしか思われません。

司法の逸脱

そもそも、原子力規制委員会は、法律の規定に基づき、公権力の行使として、新規制基準を定め、それを適用して、高浜原子力発電所3号機の再稼働を認めたのです。

裁判所の職務は、法律に準ずべき新規制基準について、適用の適法性を判断することであって、適用における手続きの瑕疵や、上位の法律との矛盾等の内在的非合理性を指摘すること以上のことは、なし得ないはずです。

なお、念のため確認しておけば、原子力規制委員会は、「原子力規制委員会設置法」に基づいて、「国家行政組織法」第三条二項の規定による環境省の外局(いわゆる「三条機関」)として、設置されたものです。

また、「原子力規制委員会設置法」第二十六条は、「原子力規制委員会は、その所掌事務について、法律若しくは政令を実施するため、又は法律若しくは政令の特別の委任に基づいて、原子力規制委員会規則を制定することができる」としています。

そして、実際に、「核原料物質、核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律」(長すぎるので、普通、「原子炉等規制法」と略されます)は、例えば、第四十三条の三の五において、「発電用原子炉を設置しようとする者は、政令で定めるところにより、原子力規制委員会の許可を受けなければならない」としていて、故に、原子力規制委員会は、設置許可の基準として、規則を制定しているわけです。

このように、原子力規制委員会の現在の新規制基準とは、福島の事故を受けて抜本的に改正された法体系のなかに組み込まれたものであって、事実上、法規範としての効力を有するわけです。

故に、裁判所としては、新規制基準を前提とした判断しかなし得ないところ、今回の決定は、新規制基準自体を否定するという意味で、司法の逸脱ともいえる内容になっているのです。

「人格権が侵害されるおそれ」

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実は、これは、民事として処理されたからです。行政訴訟とは、枠組みが違うという裁判所の理解なのです。

行政訴訟として、例えば、原子力規制委員会による原子力炉の設置許可処分や設置変更許可処分等の取消を求めるのならば、裁判所は、公権力の行使としての行政処分の適法性と合理性に限定した判断をするほかありません。

つまり、四国電力伊方原子力発電所の原子炉設置許可処分の取消を求める行政訴訟にかかわる最高裁判決が示したように、原告は、処分に「不合理な点のある」ことにつき証明責任を負うが、被告行政庁は、「不合理な点のないこと」の証明責任を負い、「不合理な点のないこと」を証明できない限り、「不合理な点のあること」が事実上推認される、という法理です。

しかるに、原子力発電所の運転差止を求める民事訴訟や、仮処分の申立ては、例えば、本件のように、「人格権が侵害されるおそれ」を根拠としているわけです。有名なのは(あるいは、悪名高いのは)、関西電力大飯原子力発電所3号機と4号機の運転差止訴訟(運転停止中の原子力発電所の再稼働の差止を求めるもの)において、差止を認めた2014年5月21日の福井地方裁判所判決です。

ここでは、まず、「生存を基礎とする人格権が公法、私法を問わず、すべての法分野において、最高の価値を持つ」とし、「人格権は憲法上の権利であり(13条、25条)、また人の生命を基礎とするものであるがゆえに、我が国の法制下においてはこれを超える価値を他に見出すことはできない」ので、「人格権の根幹部分に対する具体的侵害のおそれがあるときは、その侵害の理由、根拠、侵害者の過失の有無や差止めによって受ける不利益の大きさを問うことなく、人格権そのものに基づいて侵害行為の差止をもとめることができる」としています。

そのうえで、裁判所として、「具体的危険性が万が一でもあるのかが判断の対象」になるとして、さらに、この理は、「原子炉規制法をはじめとする行政法規の在り方、内容によって左右されるものではない」としています。

つまり、裁判所として、原子力規制委員会の規則に拘束されないことを宣言しているわけですから、当然に、科学技術の専門性について素人の裁判官に、大津地方裁判所の裁判官の「非常に不安を覚える」という心情の吐露と同じように、人格権の具体的侵害のおそれについて、あまりにも自由な裁量のもとに、主観的判断を許容することになったのです。

行政訴訟に一本化すべき

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しかし、人格権をもちだしさえすれば、民事においては、法律に基づく適正な行政処分の効果でも否定できるというのでは、法秩序の安定性の点で、いかがなものかと思われます。

民事において、「人格権は憲法上の権利」とし、「公法、私法を問わず、すべての法分野において、最高の価値を持つ」いう法体系の頂点の高みから、あるいは、法を超えた理想の高みから、関連諸法を無視して、原子力発電の危険を科学技術的に制御不能なものとして断定することは、どうして許されるのか。

福島の事故を受けて、原子力規制の構造が抜本的に改められ、法体系のなかに明確な位置付けを得た新規制基準が導入されたことは、従来のように、民事で規制基準を問題とする余地を小さくしているはずで、行政訴訟に一本化することを含めて、法制度論的な再検討が必要でしょう。

仮に、民事による道を残すにしても、自由裁量には一定の統制も不可欠なはずで、伊方原子力発電所にかかわる行政訴訟の最高裁判決の主旨を活かして、合理性の基準等、客観的な枠を設けることが必要だと思われます。

素人の常識の意義

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では、好意的にみて、民事固有の存在意義として、一般人の参画を許さずに専門家集団による高度に科学技術的判断によって制定された新規制基準に対して、常識人の立場からする牽制機能を認め得るのでしょうか。

裁判官は、素人だからこそ、専門家が陥りがちな視点の偏り、説明の省略、科学技術への過信等につき、素人ならではの常識に基づいて、批判的見解を表明することで、注意を喚起し、牽制し、是正し、改善することができるということは、おそらくは、その限りにおいて、正しい見解でしょう。

しかし、その前提として、裁判官は、原子力規制委員会の新規制基準が法律に準じた効力を有することを尊重し、また、専門家の判断に対して十分な敬意を払うことが必要です。そのうえで、手続き上の瑕疵、論理的不整合、説明不足等について、常識人の理性と良識のもとで、客観的な判断基準を示したうえで、是正を求めるべきです。

つまり、裁判所の判断が常識として社会的に有益に機能するためには、裁判所自身が常識に従うことが必要であって、裁判官の個人的で独善的な見解をふり回すことは許されないのです。

ところが、今回の大津地方裁判所の決定は、例えば、関西電力の説明不足を指摘するだけで、何をもって説明がなされたことになるのかの客観的基準を示さず、また、「非常に不安を覚える」という心情によって、専門家の判断を否定するなど、あまりにも非常識なものとなっています。

なお、常識人としての素人裁判官の意義ならば、民事ならずとも、行政訴訟においても、十分に発揮し得ることを付け加えておきましょう。

素人の権威と社会的費用

最後に、何よりも問題なのは、裁判官の場合、素人判断に権威がつくことです。今回の決定は、行政庁である原子力規制委員会の専門家としての権威の偏向専断を、より上位の司法の正義の権威で断罪したかのような外貌を呈しています。これは、国民を誤導する可能性のある危険なことです。

また、裁判官の個人的な「非常に不安を覚える」という心情の吐露にすぎないことに、稼働中の原子力発電所を停止せしめるという権威を与えているのです。今回の決定については、万歩譲って被保全権利にかかわる裁判所の判断を認めるにしても、保全の必要性は、到底、認め得ないところです。

また、稼働中の原子力発電所を停止させたことの社会的費用大きなものになる点も重要です。実際、関西電力は、高浜原子力発電所4号機の本格運転を前提にして、5月1日より電気料金を引き下げる手続きに入る旨、発表していたところ、稼働中の3号機まで停止させられたことで、その約束を撤回することになってしまったのです。

こうして、停止による社会的費用は、既に顕在化しています。一体、その費用の公正公平な社会的負担のあり方は、どうあるべきか、大津地方裁判所の見解を聞いてみたいところです。