相互扶助は、扶助を受ける立場になるかどうかわからないから、万が一に備えて、相互に助け合う仕組みです。扶助を受ける立場になれば、自分の掛け金の元が取れますが、それを喜ぶのはおかしいですし、自分が扶助を受ける立場にならなかったら、自分の掛け金は戻ってきませんが、それを損と考えることもおかしい。年金制度も相互扶助のはずですが、さて理屈は同じでしょうか。

不確実な死と相互扶助原理

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人は、いつでも、死の可能性に直面しています。死の可能性がある以上、自分の死について、確率を論じることはできます。しかし、自分の生を客体化して、確率を論じることに何の意味がありましょうか。主体的に生きられる自己の生においては、可能性としての死はなく、事実としての生しかないのです。

ところが、十分に大きな人の集団においては、確率を論じることに意味があります。人に寿命がある以上、集団のなかにおいては、死は、確実な事実として、どこかに生起するからです。ただし、集団のなかの誰に死が訪れるかは、わかりません。死は、集団において確実であり、個人において不確実です。

死に事前に備えることは、死が不確実な個人においては、できませんが、死が確実な集団においては、できます。個人において不可能なことを、集団において可能にする仕組み、それが相互扶助の原理です。

死の経済的損失

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死に備えるということは、具体的に、死がもたらす経済的損失を補償することです。死は、死ぬ当人にとっては、少しも経済的損失ではありません。なにしろ、死んでいますから、現世の経済には何の関係もありません。しかし、遺族にとっては、多くの場合、大きな経済的損失です。その損失は、保険によって、填補されなくてはなりません。

いうまでもなく、その填補の原資は、死ななかった人の負担になります。死亡保険とは、死ななかった人が死んだ人を助ける仕組みです。だから、相互扶助なのです。

相互扶助に損得なし

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では、死ななかった人は、保険料を損しているのか。純粋な生命保険を例に考えましょう。

まず、大きな被保険者の集団を作らなくてはなりません。大きなという意味は、生命表、即ち、死亡率の統計が十分に意味をもつだけの大きさということです。この集団では、死亡は、生命表に従って、確実に生起します。

死亡保険金の支払額は、生命表により、高い精度によって、推計されます。その予想支払額と同じだけの金額を、集団の構成員から保険料として徴収しておけば、収支は常に均衡します。これを収支相等の原則といいます。

収支相等ということは、保険料は全て死亡保険金に充当されるということですから、死ななかった人には、一円も戻りません。これは、保険理論の必然であって、損と考えるのはおかしい。もしも、これが損ならば、死んで保険金を受け取ることは利得ですが、まさか、そう考える人はいないでしょう。

純粋な生命保険の全く逆を考えると、純粋な生存保険ができます。純理論的にいって、生存保険は、生存という事故を付保対象としているのですから、生存という事故が生起しなかったら、保険料は、一円も戻ってきません。これは、死亡保険において、死亡という事故が生起しなかったら、保険料が一円も戻らないのと全く同じです。

生存という危険

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では、生存という事故とは、何か。生存という事故は、死亡という事故ほど明瞭ではありません。生存が危険であるのは、生存を支える所得がなくなることでしょう。典型的には、疾病もしくは老化によって、就労できなくなるような身体の状態に陥ることです。

老化による就労不能の定義は、身体状態の個人差が大きく、何よりも、仕事の種類や勤務形態によって就労可能年齢の上限も大きく異なるので、客観的な基準を設けないと決まりません。例えば、65歳をすぎても生存している場合というように。

65歳以上の生存を事故として、65歳から死亡するまで、生存を支える生活資金を定期給付金として支払う仕組み、これが典型的な生存保険としての終身年金保険です。公的年金というのは、このような終身年金保険を、政府が保険者となり、全国民を被保険者として、実施しているものです。

公的年金のうち、全国民を一律に対象とするのが国民年金、企業の被雇用者に対象を限定したのが厚生年金です。もっとも、現状では、まだ公務員は別の制度になっていますし、65歳への移行も完了していませんが。

公的年金資産の性格

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公的年金では、65歳に至る前に死亡すれば、年金保険料は、一円も戻りませんが、それを損と考えることはできません。なにしろ、公的年金は相互扶助の制度なのですから。

同様に、66歳で死亡する人と、100歳まで生きる人とを比較すると、年金給付額が大きく異なるわけですが、それを不公平ということもできません。なにしろ、公的年金は、自分の余命がどれくらいになるのかわからないからこその相互扶助の制度なのですから。

では、年金給付原資は、早死にする人から、長生きする人へ、継承されていくのか。

公的年金は、巨額な積立金をもっています。それは、その名も年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)というところが、その名の通り、管理して運用しているのです。確かに、年金給付のための積立金として、資産が存在するのですから、その資産について、国民の一人一人の持分のようなものを観念することができます。

そうした観念のもとでは、先に死亡する人の持分が、長生きする人へ贈与されていくような錯覚を生じます。現に、多くの国民が、そうした錯覚に陥っていると思われます。

なぜ錯覚か

純粋な死亡保険では、保険資産は形成されません。収支相等の原則により、保険料収入額は、保険金支払額と相殺されるからです。しかし、現実には、保険資産は形成されます。なぜなら、収入と支出との間に、時間の差があるからです。

本来は、加齢とともに死亡率が上昇するので、保険料も上昇するはずですが、それでは、死亡保障が重要な意味をもつ頃に、保険料負担が大きくなりすぎて、継続できないというような、本来の趣旨に反した結果を招来しかねないので、保険料を期間中一定にして、負担を平準化しておきます。

つまり、若いころは、実際の保険料は、理論保険料よりも高いので、その差額が前払いの保険料として、積み立てられているのです。故に、前払い保険料相当分は、保険契約者の持分になります。これは、錯覚ではありません。事実として、もしも、保険から抜ける、つまり保険を解約すれば、前払い保険料相当分は、一定の控除があるとはいえ、戻ってきます。これが、解約返戻金です。

しかし、公的年金に、脱退返戻金はありません。それは、個人の持分がないからです。それをあるかのように感じるのは、民間の保険契約からの連想による錯覚です。

確かに、年金の保険料こそ、全てが前払い保険料です。公的年金は、65歳まで保険料を払い、65歳から、生存を条件に、年金給付を受けるという仕組みですから、保険料は、全て、前納なのです。故に、巨額な公的年金資産が形成されているのです。

そこで、もしも、公的年金にも、任意の脱退という制度があるのならば、前納保険料は、一定の控除を経て、返戻されることになるのでしょうから、そこに個人の持分を観念することができます、しかし、それがない以上、個人の持分も、あり得ないのです。

公的年金は、国民全体について収支相等となるように設計された相互扶助制度なので、そこには、個人の持分を認め得ない、つまり、個人主義的原理は、一切、働かないのです。ですから、公的年金については、自分の保険料が戻ってこないので損だという人もいるようですが、それは、相互扶助原理に対する誤解に基づく考え方なのです。

相互扶助原理における公平性

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公的年金には、負担の公平性に対する批判もあるようですが、では、相互扶助原理における公平性とは何でしょうか。

生命保険にしろ、生存保険である年金保険にしろ、大きな被保険者集団の全体としての死亡は、極めて高い精度で予測される以上、収支相等の原則と適正な保険数理の手法に基づいて、各被保険者に保険料負担を配賦している限り、負担の公平公正性は、保証されています。この理論的な枠組みは、公的年金についても、原則としては、成り立ちます。

しかし、現実の制度は、純保険理論的に、運営されているわけではありません。公的年金は、民間の保険会社の年金保険とは、相互扶助原理を共有していても、根本の思想において異なります。

民間の保険は、純数理的に設計されていて、経済合理性のもとにおいて、公正公平性が保証されているのに対して、公的年金は、いうまでもなく、社会福祉政策的に設計されていて、所得再分配の要素をとりいれているので、公平公正性は、経済合理性のもとでは、保証されません。

しかしながら、経済合理性のもとでの公平公正性の要件を欠くということは、社会的公正公平性に反するということにはならず、逆に、経済合理性の徹底が社会的公正公平性に反する場合も多いわけです。

公的年金というのは、一定の経済合理的公正公平性を確保しつつも、広範に、所得再分配としての社会的公正公平性をもとりいれています。ですから、公的年金における公平性というのは、哲学的に、難解です。そこに、公平性をめぐる議論の混迷の原因があるのです。

保険料か税金か

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所得再分配というのも、ある種の相互扶助原理です。公的年金には、保険数理的な相互扶助と、政策的な所得再配分という相互扶助と、二つの原理が働いています。

しかも、所得再配分は、保険料を払う期間と年金給付を受ける期間が遠く離れているので、死亡してしまった世代から、まだ生まれてもいない世代にまで、長い時間の展開において、成り立っています。

この所得再配分的相互扶助について、公平性をどう考えるかは、税金を通じた所得再配分機能と同じことですから、純粋に政治の問題です。その結果、保険数理的な相互扶助の経済合理性に反することになるのは自明であって、それを不公平ということはできません。

ならば、なぜ、公的年金の国民負担が保険料と呼ばれるのでしょうか。社会保険税と呼ばれるべきではないでしょうか。それは、公的年金が、給付を受ける受益者の負担により制度を支えるものとして、発足したからです。

つまり、保険料と給付の収支相等という保険数理的な理念が基礎にあったのです。そこが、社会政策的な相互扶助制度とはいっても、税金を原資として運営されている生活保護等と、根本的に異なるところです。

ところが、収支相等とはいっても、公的年金の場合は、被保険者集団が複数の世代間にまたがっているので、次第に、曖昧化していきます。つまり、本来は、約束された給付が先にあって、それを賄うに足る保険料が徴収されていたはずですが、人口動態の影響で収支計画が大きく狂っていくに従い、収入先にありきで、給付を調整するようになっていきます。

こうなると、保険数理的な相互扶助よりも、社会政策的な相互扶助が優越してきます。ですから、確かに、そろそろ、保険料から税金への性格転換も、検討されなければならないでしょう。

もはや保険数理的な説明はできない

保険料を全く払わなかった人については、今の制度の仕組みからいえば、全く給付する要はありません。それが、公平なのです。しかし、そのような人が無所得である場合、結局は、生活保護等の給付がなされざるを得ないでしょう。それは、不公平ですか。

公的年金は、もはや、保険数理的な説明によっては、保険料負担の合理性を説明することができないほど、変質していますし、周辺の関連分野との調整なしにも、成り立たないのです。公的年金の公平性をめぐる議論は、社会政策的な相互扶助全体の体系のなかで、原資としての税金の負担の問題として、政治的に決着させるほかありません。

その場合、さらに、支給開始年齢も含めた総合的な雇用政策や、高齢者医療費の負担のあり方との関連も欠くことはできません。それが政府のいう「社会保障と税の一体改革」の真の意味なのでしょう。