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河川敷と三角州はなぜ「甲子園球場」になった?川をそのまま活用した道路と街 路面電車の名残を追う

宮武和多哉ライター(乗り物・モビリティ全般、観光、ご当地グルメ)

※この記事は2022年6月に発売された単行本「全国”オンリーワン”路線バスの旅”2”」掲載記事を、現在の状況にあわせつつ加筆・修正し、再掲載しています。

2020年9月発売の「全国”オンリーワン”路線バスの旅」では、他にもおなじ”阪神電車”の路面電車・北大阪線を取り上げています。

☆大阪からも神戸からも近い甲子園球場、なぜそこにできた?

甲子園球場の壁を覆う蔦は、1924年の球場完成後まもなく植えられた。この地の歴史を100年近く見守っている
甲子園球場の壁を覆う蔦は、1924年の球場完成後まもなく植えられた。この地の歴史を100年近く見守っている

 100年以上の歴史を持つ“夏の甲子園“こと「全国高校野球選手権大会」は、今年も阪神甲子園球場(兵庫県西宮市。以下「甲子園球場」)で開催されている。この球場はプロ野球・阪神タイガースの本拠地でもあり、高校野球の閉幕後はペナントレースの舞台として、夏が終わっても賑わいを保ち続けるだろう。

 最大で約4.7万人を収容できるこの球場は、何と言っても鉄道でのアクセスの良さが強みだ。試合開催日になると、最寄駅である阪神本線・甲子園駅までの特急・急行など臨時列車が頻繁に運転され、大阪・梅田地区から10分少々で到着できる。

 そして改札を出ると球場は目の前、最近はオンラインでのチケット購入が増えたせいか、入場待ちの列も以前ほどではない。思い立ったらすぐに甲子園に行き、スタンドで選手に声援を送ることができるのだ。

阪神本線・甲子園駅
阪神本線・甲子園駅

 阪神電気鉄道(以下:阪神電鉄)の手によって甲子園球場が建設され、開場したのは1924(大正13)年。大阪にも神戸にも近いこの場所に、同社がグラウンドの広さ・収容能力・アクセスともに理想的な球場を作ることができたのは「球場一帯が河川敷(三角州)で、ほぼ手付かずだった」ことが大きい。

 そして球場前の道路(甲子園筋)も100年以上前には川の流路、これが併用軌道の路面電車通りに変わり、現在はバス通りと役割をリレーしつつ現在に至っている。この記事では、甲子園球場とその一帯(西宮市甲子園・浜甲子園・上甲子園など)をぶらぶらと巡りつつ、歴史をさかのぼってみよう。

☆“球場とタイガースの街“甲子園 街ができる前は「枝川」が流れていた

 甲子園”と呼ばれる地域は駅・球場をを中心に半径1〜2ほどの範囲で広がり、「甲子園」「上甲子園」「浜甲子園」などの地区に分かれている。その中心を“甲子園筋”(兵庫県道340号)が南北に貫き、この道路を走る「阪神バス甲子園線」はおおむね1時間に3−5本ほど。周辺にはおおよそ4万人以上の人々が暮らし、歩道を歩く人々が絶えないほどの賑わいはあるようだ。

 甲子園駅の北側には庭付きの戸建て住宅も多く、場所によっては“お屋敷街“のような雰囲気だ。甲子園筋から少し脇道に入ると見事な松が路肩に根を張り、涼しい木陰を作っている。

近隣には「阪神タイガースコラボ」のコンビニも複数ある
近隣には「阪神タイガースコラボ」のコンビニも複数ある

 ここまでは他の町とさして違わないが、よく見ると沿道のコンビニが黄色と黒のタイガース仕様だったり、全体が縦縞の「タイガースタクシー」が走っていたり、牛丼屋さんの看板はオレンジではなくて黄色と黒だったり、「試合開催日のみ駐車料3000円、違法駐車は即通報!」などとと駐車場に大書されていたり・・・・やはりこの街は球場とタイガースを中心に回っているようだ。

河川改修前と後を地図で比較。三角州の北端あたりが現在の甲子園駅
河川改修前と後を地図で比較。三角州の北端あたりが現在の甲子園駅

 この甲子園筋には、1923(大正12)までほぼ同じ経路で、武庫川支流の「枝川」が流れていたのだ。枝川は現在の甲子園駅の南側で「申川」(さるかわ)と分流、2つの川に挟まった砂利だらけの三角州が、のちに甲子園球場の敷地となる。

☆「甲子園大運動場」たった5ヶ月弱で三角州に建設!

甲子園球場前交差点。この通りも枝川の河道を活用して造られた
甲子園球場前交差点。この通りも枝川の河道を活用して造られた

 「甲子園大運動場」として現在の甲子園球場が開場したのは1924(大正13)年8月1日、全国中等学校優勝野球大会(全国高等学校野球選手権大会。第10回大会)の開幕に合わせるように完成した。なお枝川が締め切られ、正式に「廃川(はいせん)となったのは前年のことで、甲子園球場は、昼夜を問わない突貫工事を経て、たったの5ヶ月弱で完成したのだ。

 阪神電鉄がここまで建設を急いだ背景には、前年の第9回大会で起きた“事件“がある。もともと誘致する形で阪急電鉄沿線の豊中球場から阪神沿線の鳴尾球場(現存せず)に開催地を移すことに成功したものの、増加する観客に対応できず、ついに兵庫・甲陽中対京都・立命館中の一戦で満員の観客がグラウンドに溢れ出して試合中断、という事態が起きてしまったのだ。その後急遽日程を組み替えて大会を終えた(なお優勝は和歌山中(現在の和歌山県立桐蔭高校)ものの、スポンサーである大阪朝日新聞から抜本的な対策を求められ、場所だけ決定していた球場の建設を前倒しすることになったのだ。

 そして完成とともに、その年の干支(甲子。読みは「きのえね」)から取って「甲子園大運動場」と命名。ここでようやく「甲子園」という名前が世に出た。

甲子園のスタンド。この試合には筆者の親戚が出場していたため、一族20人ほどが集結している
甲子園のスタンド。この試合には筆者の親戚が出場していたため、一族20人ほどが集結している

 完成した球場は陽が差し込む内野を銀傘で覆い、50段のスタンドで最大6万人を収容。どう頑張っても5000人程度しか入れなかった鳴尾球場との差は歴然としていたが、第1日目は内野席が何とか埋まる程度。あまりの収容能力の差に、関係者ですら「外野まで埋まるのに10年はかかる」と嘆くほどだった。

 しかし何と4日目にはぎっしり満員となり、主要駅に手書きで「満員につき来場お断り」と張り出さざるを得なかったという。なお阪神タイガースの前身・大阪タイガースの創設は1935(昭和10)年、リーグ結成にあたって声がかかったのはやはり「巨大な球場をすでに持っていたから」という部分が大きい。

 そして球場とともに臨時駅として設置された阪神本線・甲子園駅は2年後に常設駅に昇格。周囲に何もなかったことで広く確保できた駅前の空間はいまも、多客時に乗客を分散させたり、バスやタクシーを発着させるスペースとしてフル活用されている。

 なおこの球場は、建設時には「枝川大運動場」という仮称が用いられていた。ひょっとしたら球場名となっていたかもしれない「枝川」から水が消え、球場と住宅街ができるまでを辿る。そして旧・枝川の流路にそのまま建設された路面電車の歴史も振り返ってみよう。

☆川がそのまま路面電車通りに?阪神が総力を挙げた「甲子園の都市開発」

武庫川の堤防沿いにある「枝川樋門」。ここが締め切られたことで枝川は廃川となった
武庫川の堤防沿いにある「枝川樋門」。ここが締め切られたことで枝川は廃川となった

 廃川(はいせん)となった「枝川」は長年の土砂の堆積で天井川(河道が地上より高い状態)となっており、ほとんどの場所で平地より少し盛り上がっていたという。武庫川の水量が増した時には一気に濁流がなだれ込み、この周辺は水害の脅威にさらされ続けていた。なお1905(明治38)年に阪神電鉄・阪神本線が開通した時点では甲子園駅はなく、開業当時に見えるものといえば川を跨ぎ越す橋だけだったという。

 変化が訪れたのは大正時代も中頃になってから。兵庫県は武庫川の大幅な拡張と堤防の整備計画を打ち出したものの、先立つ予算がおぼつかず、分流の枝川を丸ごと廃川(はいせん・川の廃止)とし、土地売却益を本流整備の財源に当てようとしたのだ。

 しかし数Kmにも及ぶ細長い土地になかなか買い手が現れず、そこに手を挙げたのが当時の阪神電鉄だ。約80haにも及ぶ川の河道と周辺の土地を、何と当時の金額にして410円(現在の20億円相当)でほとんど買い上げてしまったのだ。この買い物は世間の目にも奇異に映ったようで、『阪神電気鉄道100年史』によると「狐か狸の巣みたいなところをえらい金で買うて、どないするつもりや」と散々に陰口を叩かれたのだとか。

 そうしている間にも、のちの球場から2kmほど上流にある武庫川・枝川の分流地点を締め切る工事が進み、1923(大正)年には流路が締め切られ、水が流れることはなくなった。

甲子園五番町近辺で道路は少しクランク気味に曲がる。川の流路の名残で、電車も同じように曲がっていた
甲子園五番町近辺で道路は少しクランク気味に曲がる。川の流路の名残で、電車も同じように曲がっていた

 枝川はその後、小高い天井川の河道を切り崩し、整地したのちに貨物線が敷かれる。しばらく造成が続き、現在の阪神本線の北側に現在の住宅街が形づくられていった。この街こそが、前述の「お屋敷街」の前身でもあり、宅地の中にぽつぽつと残る松の木やなだらかな下り坂は、天井川の河川敷であった当時の名残でもある。

 そして貨物線は道路・軌道併用の「甲子園筋」として整備され、甲子園筋を走る路面電車「甲子園線」として1928(昭和3)年までに順次開通。次々と切り開かれた住宅街の足として利用されていた。

阪神国道線・甲子園線などを走った車両は、尼崎市の「水明公園」に保存されている
阪神国道線・甲子園線などを走った車両は、尼崎市の「水明公園」に保存されている

 そして阪神電鉄としては、甲子園の開発を是が非でも自社の鉄道利用に繋げる必要があった。なにぶん阪神本線の北側には1920(大正9)年に阪急神戸線が開業し、勢力を伸ばせそうなエリアが限られていたのだ。甲子園一帯の住宅販売に賭ける力の入れようは凄まじく、ついに「梅田・三宮方面のいずれかの電車運賃1年間無料」というとんでもない大盤振る舞いを繰り出し、空き区画は好調に売れていったという。

奥に見えるのが甲子園線・浜甲子園停留所跡。右奥は阪神園芸の事務所
奥に見えるのが甲子園線・浜甲子園停留所跡。右奥は阪神園芸の事務所

 また宅地だけでなく、甲子園線の終点・浜甲子園を中心に競馬場やテニスコートなどのスポーツ施設などを擁するリゾート地を手掛けようとしていた。その当時開発の陣頭指揮を執っていた阪神電鉄・三崎省三専務は武庫川を日本のハドソン川・テムズ川に見立てて球場と街づくりの構想を語っていたという。三崎専務はここに、今でいうスポーツパーク・ボールパークのような都市を形成しようとしていたのかもしれない。

 そう言われて地図を見てみると「ハドソン川とハーレム川が近いヤンキー・スタジアム」と「武庫川と枝川(の跡地)が近い甲子園球場」・・・ちょっと似ていなくもない。しかし昭和不況から第二次世界大戦に世相が傾いていく中、構想は夢半ばで絶たれてしまう。

 その後、一帯の敷地が1962(昭和37)年から建設が始まった住宅団地「浜甲子園団地」(浜甲団地)として活用されたことで甲子園線の乗客は増加、150棟・4613戸の巨大団地を走る路面電車として賑わいを見せた。1975(昭和50)年に路線廃止となるが、これも「他の路面電車線(国道線)の廃止で車庫がなくなる」ためで、甲子園線単体としては最後まで単年黒字を保ち続けていた。

 なおこの浜甲団地は高齢化が進んだとはいえ、現在もおおよそ1万人の人口を擁している。さらに武庫川女子大学浜甲子園キャンパス・付属中高校も昔と変わらずこの地にあり、路面電車の代役を果たす阪神バス・甲子園線の営業成績を手堅く支え続けているのだ。

☆野球・ライブついでに、“甲子園の街“をぶらぶらしてみよう!

甲子園歴史館
甲子園歴史館

 球場と駅を中心にしたこの街は、かつての河川敷をうまく活用して発展を続けてきた。高校野球やプロ野球、そしてMr.Childrenなどのライブで甲子園球場を訪れた際には、この“甲子園の街“をぶらぶらと巡ってみてはどうだろう。

 例えば野球が好き方なら、球場の周辺に阪神タイガースに縁の深い人々の店を訪れるのも良いだろう。福本豊元コーチが経営するショットバー、阪神OBの湯舟敏郎投手が経営する飲食店、そしてランディ・メッセンジャー投手が好きだったラーメン屋さん・・・

 また球場内にある「甲子園歴史館」では、選択会議のあの画面に自分の名前を入れて大画面に出力してもらうこともできる。「昔ドラフト会議で指名された」というアリバイ作りには最適だ。(もちろん画面は偽物です)

甲子園球場の東側には、路面電車の河川を吊っていた柱が根元だけ残っている
甲子園球場の東側には、路面電車の河川を吊っていた柱が根元だけ残っている

 また鉄道が好きな人なら、かつての路面電車の痕跡を甲子園筋の至る所で見つけることができる。球場西側の歩道上には架線柱が根元だけ残っていたり、国道43号の跨道橋の下に僅かに残る、架線の金具をつけていた跡だったり。そして浜甲子園バス停の先に残るカーブを描く路地は、出屋敷までの延伸を視野に入れつつ戦前に1駅先の中津浜まで延伸されていた当時の名残だという。いかにも鉄道っぽいこのカーブは、甲子園球場のグラウンドを保全されている「阪神園芸」さんの事務所横にある。

 また同じ阪神の路面電車「国道線」と接続していた上甲子園停留所の近く、かつて乗務員詰所があった場所にはファミリーレストラン「かごの屋」が建ち、甲子園筋・国道2号のどちらにも乗務員が移動可能だった面影を敷地の形に残している。

 あと、甲子園筋を跨ぎ越す阪神本線の橋の名称は、今でも「枝川橋梁」のままだ。鉄骨の隙間にかろうじて表記が残っているので、探してみよう。

「阪神甲子園」バス停の前。写真中央の「アズナス」は「ローソン」に転換となり、今はない
「阪神甲子園」バス停の前。写真中央の「アズナス」は「ローソン」に転換となり、今はない

 この辺りの風景をじっくり眺めるなら、やはり路面電車・甲子園線の代替路線でもある阪神バス・甲子園線で巡るのが良いだろう。なお甲子園駅前のバスターミナルは、河川敷だった頃の面影を残す松並木が背後にあり、夏場はほんのり涼しく待てる。

〈了〉

ライター(乗り物・モビリティ全般、観光、ご当地グルメ)

鉄道全線完乗・路線バス1800系統乗車・フェリーなど船舶60航路乗船(いずれも国内・202年現在)47都道府県で通勤ラッシュ巻き込まれ&100Km以上ドライブを経験。モードにこだわらず「乗りもの」全般をカバー。 ☆☆ 全国の駅弁・駅そば・ご当地料理を食べ歩き、おうちで再現レシピも作成します(「再現料理人」としてNHK「さし旅」で指原莉乃さんと共演等経験あり)  ☆☆ 香川県高松市出身・兵庫県・大阪府・高知県・東京都・神奈川県などに在住経験あり  ☆☆ 著書「全国オンリーワン路線バスの旅2」(イカロス出版)2022年6月28日発売!

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