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喘息持ちを告白したロマチェンコの宿敵テオフィモ・ロペス。一家の人生ドラマはまだまだ続く

三浦勝夫ボクシング・ビート米国通信員
ロペスとロマチェンコ(写真:Mikey Williams/Top Rank)

4冠統一戦を熱望

 タイソン・フューリーがデオンテイ・ワイルダーをストップしてWBC世界ヘビー級王者に就いた夜、試合後の会見場にIBF世界ライト級王者テオフィモ・ロペス(米)の姿があった。フューリーと同じ米国興行大手のトップランク社所属のロペス。その背景からうなずける話だが、当日は他のトップランク所属の選手も観戦しており、ロペスが同社の総帥ボブ・アラム・プロモーターの寵愛を授かっていることを物語った。

 ロペスはただ席に座っていただけでなく、壇上のフューリーから直に名指しされて巧妙なトークに興じた。すでに2人は面識があるらしく、フューリーは「次はお前とやるぞ」と軽口を叩いている。ロペスは昨年12月、リチャード・コミー(ガーナ)を2ラウンドで倒してベルトを奪取。ライト級の他の3冠を保持する現役最強ボクサーの呼び声高いワシル・ロマチェンコ(ウクライナ)との4冠統一戦がクローズアップされている。

 ロマチェンコもトップランク傘下の選手。ロマチェンコvsロペスは5月30日、ニューヨークのマジソンスクエアガーデンで挙行の予定で交渉が進んでいた。しかし新型コロナウイルスの感染拡大により、ボクシングは他のスポーツ、ショービジネス同様、中止、延期を余儀なくされている。通常、試合が決まると米国カリフォルニアでキャンプを敢行するロマチェンコはウクライナへ避難。一方モチベーションを高めていたロペスは大物との対決が消滅する不安が芽生え、フラストレーションがたまっているという。

鮮やかにコミーを倒して王座を奪取したロペス(写真:Mikey Williams/Top Rank)
鮮やかにコミーを倒して王座を奪取したロペス(写真:Mikey Williams/Top Rank)

死んでいたかもしれない

 とりあえずトレーニングは続行するロペス。だが地元のニューヨークではなく、南部のアーカンソー州へ移動して行っている。これもコロナウイルスの影響。そして22歳の新王者は“アズマ”(喘息)が持病であることを明かした。

 「コロナウイルスは自分にとっても心配すべき事態。何とか感染を避けようとしている。だからニューヨークを脱出してここへ来た。それに私は喘息持ちなんだ」

 スペイン語メディアESPNデポルテスのインタービューでロペスは打ち明けた。スターへまっしぐらの男が難病を患っているとは驚きだ。「5歳の時から喘息持ちなんだ。実質、これまでの人生すべてだね」(ロペス)。これまで憂慮すべき状況にも直面した。

 「3度、死ぬかもしれないと思う危機があった。最後は11歳の時。もうアマチュアで始めていて、12月の試合だった。試合後、咳が止まらなくなり入院。ドクターに『もしここ(病院)に来なかったら死んでいただろう』と言われた」

 元ヘビー級統一王者イバンダー・ホリフィールド(米)も一時、心臓病を患ったことがあるが、ロペスはいまだに病魔との戦いが続いている。ではリングで抜群の強さを発揮できる秘訣は何だろう。

 「冬と夏はとくに難しい。家に専用の器具があって胸の動悸を和らげている。だから十分にロードワークができるし、食事も問題ない。野菜とフルーツをたくさん食べ、水を多く飲むように心がけている。気持ちも前向きに対処している」

 以前、他のメディアのレポートでロペスは就学年齢期、ほとんど通常の学校へは通学せず、自宅で通信教育を受けていたと伝えられた。これは彼のボクシングの才能が飛びぬけていたため、それを伸ばすための特別な措置だったらしい。だが彼が持病を抱えていたことも原因だったのかもしれない。

波乱万丈な父の半生

 これまで15勝12KO無敗。連続KOは2戦前に対戦した中谷正義の健闘により阻まれたが、勝利を収めるとコーナーのトップから豪快な宙返りを披露するロペス。そのスペクタクル性は「どうしたら人々の目をボクシングに向けさせるか。ファンはエンターテインメントを求めている。ただ美しく勝つだけでは彼らはついてこない」という彼のポリシーの表れだ。ロマチェンコ戦は予想不利が否めないが、番狂わせが起こる予感を感じさせる。アラム氏をはじめトップランク陣営はすでにロマチェンコを見切っているとも憶測できるほどだ。

 早くもカリスマ性を発散するロペスを語る上で触れなければならないのは父でトレーナーのテオフィモ・シニアの存在だ。コミー戦を中継したESPNはシニアにインタビューしながらロペス一家のストーリーを紹介。これがファンに大きな反響を呼んだ。

 シニアの父、つまりロペスの祖父はスペイン人で、第二次世界大戦後、中米ホンジュラスに移住し靴屋など商売を始めた。祖父は当時18歳のヨランダ・ロメロという女性と知り合い、1968年にシニアが誕生した。祖父はその時51歳。年齢に開きがあったせいか祖父とヨランダ(祖母)は折り合いが悪く、祖母はシニアを連れてニューヨーク・ブルックリンへ移住。工場で働いて生計を立てた。

元ドラッグ売人

 だが苦しい生活のためか祖母は事あるごとにシニアを虐待。ぐれたシニアはすでに10歳の時から偽造品の麻薬を製造して町で売り歩くいっぱしのドラッグの売人になっていた。そして14歳頃からアル中、ヤク中だったという。当時シニアはニューヨークとホンジュラスを頻繁に往復する生活。そしてホンジュラスにいた時、祖父が急死。シニアが17歳の時、祖母が自殺する悲劇が起こった。

 シニアはその後もブルックリンでドラッグ・ディーラーをしていたが、2人の女児に続いて1997年7月30日、ロペスが誕生。改心したシニアはロペスが5歳の時、フロリダへ移住を決断。ドラッグに身を染めた罪は11日だけの刑務所入りという幸運に恵まれた。ちなみにロペスの母ジェニーはブルックリンの一角レッド・フックで、ストリップクラブのバーテンダーをしていた。アマチュア時代のロペスは時々、母の仕事をヘルプしたこともあった。

父テオフィモ・シニア(左)母とのショット(写真:HonduSports)
父テオフィモ・シニア(左)母とのショット(写真:HonduSports)

祖国愛でロマチェンコを倒す!

 波乱万丈の半生を送ったシニアはフロリダで念願だったボクシングを息子に教え、リオデジャネイロ五輪代表の座へと導いた。米国代表の出場枠確保のため、ロペスは本番で両親のルーツであるホンジュラス代表として出場。ライト級1回戦で銀メダリストのステファン・ウミア(フランス)に30-27のポイント負けしたが、不運な裁定だったと見られている。

 同じ2016年の11月プロ入りしたロペスは順調にキャリアを進めた。唯一、中谷には公式スコアこそ大差が記されたものの、内容は苦戦を強いられた。それでも、その貴重な経験がコミーを倒す結果につながったと思われる。

 その中谷戦の後、ロペスはラスベガスで知り合ったシンティアさんと結婚。ハネムーンに旅立った。しかし式の写真に母ジェニーと2人の姉は写っていない。「母は誠実な女性で、ずっと父について来る人」と常々語っていたロペスだけに、両親に何か異変が起こった様子。まだまだロペス家のドラマは続く気配がする。

 それはともかくコロナウイルス、そして喘息の妨害を受けても打倒ロマチェンコに向けてロペスは闘志を燃やす。最新のインタビューを「ホンジュラスよ、次に訪れる時は必ずベルトを4本持って行く」と締めくくっている。

ボクシング・ビート米国通信員

岩手県奥州市出身。近所にアマチュアの名将、佐々木達彦氏が住んでいたためボクシングの魅力と凄さにハマる。上京後、学生時代から外国人の草サッカーチーム「スペインクラブ」でプレー。81年メキシコへ渡り現地レポートをボクシング・ビートの前身ワールドボクシングへ寄稿。90年代に入り拠点を米国カリフォルニアへ移し、フロイド・メイウェザー、ロイ・ジョーンズなどを取材。メジャーリーグもペドロ・マルティネス、アルバート・プホルスら主にラテン系選手をスポーツ紙向けにインタビュー。好物はカツ丼。愛読書は佐伯泰英氏の現代もの。

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