「あんたらメディアの人は、10年を1つの区切りと捉えるかもしれないけどさ。私らは、ずっと同じだっちゃ」

 震災で児童を亡くした父親の言葉が、ずっと心に引っかかっていた。

 10年前のあの日、何が起きたのかを記録し、事実を伝え続けていくことは、僕らメディアに携わる者の務めだ。しかし、10年などの節目の時期にならないと企画が通りにくく、震災の当事者たちの大事な思いをなかなか伝えられないのは、メディアの都合であり、もどかしくもあった。必然的に、この時期になると当事者たちの元には取材が殺到することになる。

「東日本大震災から10年」

 筆者も昨年ごろから、そんなようなテーマの執筆依頼を複数受けていた1人だ。

 ところが、遺族たちに相談すると、今になって「10年を振り返ってどうですか?」などと取材にやって来ては「1から説明を求められる」ことに、誰もかれもうんざりしていた。

「みんな10年言うけど、心にあった傷は、ずっと変わらないっちゃ」

 冒頭の父親も、そうこぼした。言うまでもなく節目というのは、人それぞれであって他者から押し付けられるものではない。

 父親は、児童・教職員計84人が犠牲になった宮城県石巻市立大川小学校で、児童である息子を亡くした遺族。10年前のあの日、地震発生から津波到達まで50分ほどの時間があった。しかし、学校側が児童たちを連れ、川の堤防上にある三角地帯を目指して避難を始めたのは、津波が到達するわずか1~2分前。当時学校にいた児童78人と教職員11人のうち、生還できたのは児童4人と教務主任だったA教諭のみだった。

「だって、学校に預けていたから安心していた。子どもたちは裏山にいるんだろうと思っていたんだよ」

 裏山は、子どもたちが待機していた校庭から、小走りなら1~2分で逃げられる。その山には、かつて子どもたちがシイタケ栽培をしていた場所や、授業で使われたことのある平坦地のある法面があった。

 遺族たちは、ずっと「校庭で何があったのか、本当のことを話してほしい」と、保護者説明会で学校や教育委員会に訴えていた。しかし、一部始終を目撃したであろうA教諭が保護者の前で説明したのは、震災1か月後のときのみで、市教委によって質問も遮られた。以来、ずっと休職扱いとされたまま、1度も姿を見せていない。

あの人たちは本当に変わろうとしているのか?

 2年も経った2013年になって、文科省主導による検証委員会が設けられ、皆は一時期待した。ところが、この検証委員会も、遺族の知りたい真実に迫ることなく迷走を続けた。

 当時、大川小学校付近にいた子どもたちが、津波に襲われた時刻は、校舎に設置されていた時計の針が15時37分前後を指して止まっていたことや、直前まで現場にいて生還した目撃者の証言などから、ほぼ15時37分頃だった事実は、市教委と遺族の合同検証で確認されていた。しかし、この検証委員会は、川を遡上した津波の到達時間を一生懸命計算して、実は「5分ほど早かった」とか、「誰かが(校舎に)時計を持ってきた可能性がある」とか、学校には「ラジオがなかった」とか、誰も求めていない「新たな見解」の説明に力を入れ、遺族のどよめきに「ゼロベースですから」と語気を強めた。

 とくに驚いたのは、最初の検証報告書案に記された、子どもたちが校庭で待機しているときの様子だ。

<津波が学校まで到達するのかどうかも話題にのぼったが、「もし来てもたいしたことはないだろう」といった危機感のない様子だったようである><ほとんどの会話は、ゲームやマンガのこと、次週の時間割のことなど、児童が日常的に行う会話だったと考えられる><校庭の樹木で遊び始める児童もいた>

 当時、子どもたちが「山へ逃げよう」「校庭にいたら死んでしまう」などと先生に訴えていたことは、震災直後の5月に作成された市教委の聴き取り記録にも残っていて、校庭で待つ子供たちの泣く姿や嘔吐する子供、恐怖感や緊迫感が、そこかしこから伝わってくる。しかし、この子どもたちの聴き取り記録は後に、市教委によって破棄されていたこともわかった。

 結局、検証委員会は1年余りの時間と5700万円の予算を費やし、「監視カメラを設置する」「衛星電話等によるシステムの確立」などの一般的な24の提言を発表して終わった。とくに遺族たちが許せないと言っていたのは、「子どもが自ら判断・行動する能力の向上」という文言だった。なぜなら、子どもたちは「山へ逃げよう」と口々に訴えていた。

「24の提言は、大川小の課題を踏まえたものではない」

 当時、児童遺族の佐藤敏郎さん(現在「大川伝承の会」共同代表)は、そう言っていた。

 こうして2014年3月、児童の遺族23人が裁判を決意するまでには、それぞれの苦渋の末のやむを得ない理由があった。佐藤敏郎さんのように裁判をあきらめた遺族たちもいる。こうした事後対応による、それぞれの苦難もしっかりと伝えていかないといけない。

 裁判は5年半に及んだ。2019年10月、最高裁は上告を棄却し、市や学校の事前防災の組織的な過失を認めた控訴審判決が確定した。

 判決では、市や学校は児童の生命や安全を確保すべき義務を負っていたと認定。児童を預かる立場として必要な知識や経験は、地域住民よりもはるかに高いレベルのものでなければならないと指摘している。そして、大川小が津波浸水予測域に入っていなかったとしても、立地条件や川の遡上津波の知見などから津波の被害を受ける危険性はあり、校長が危機管理マニュアルに避難場所や経路、方法を記載せず、市が同校を避難所に指定したのは誤りだったとも判断している。

 結審後、市の代理人は「高台に逃げるようなマニュアルにしておけば助かった可能性は、結果としてはあったかもしれないが、そもそも津波が来ない前提なのに、そこまでする義務があったのか」とコメントしていたが、判決が確定してようやく、市は遺族側に謝罪した。

 しかし、冒頭の父親は「判決は確定したけど、行政や教育者は本当に変わろうと思っているのか」と首をかしげる。

「判決の指摘は、簡単なこと。それが、あの人たちは縦割りの組織の中でできなかった。本当に変わる気があるのなら、震災後から動くことができた。我々と闘うこともなかった。どこで変わろうとするのか?我々のことより、本当はそういうことを追及してほしいんだよ、メディアには」

 コロナのこともあり、筆者の3月11日は、10年目にして初めて自宅から、訪ね歩いた東北の被災地のことを思い出しながら、そっと心を寄せた。

 10年を過ぎると、メディアでは東日本大震災の話題が一気に減るかもしれない。それでも大川小のような犠牲を2度と出さないために、今後も震災の教訓を伝えていきたいと思う。