父親殺し事件のひきこもる30代被告が拘置所から伝えたかった「家族のリアル」

(ペイレスイメージズ/アフロ)

長年ひきこもってきた被告(33歳)が、父親(当時67歳)を刺殺して、12月19日、横浜地裁で開かれた裁判員裁判(松田俊哉裁判長)で、懲役9年(未決拘留200日参入)の実刑判決(求刑12年)を受けた。

被告は、母親亡き後、父と2人暮らしで、自立に向けて就労支援の作業所などに通い始めていた。親子の間に、いったい何があったのか。

事件直前まで書き綴っていた手記や、3回にわたる拘置所での面会、裁判の傍聴を通じて見えてきたのは、ひきこもる30代被告が犯行に至る背景にあった「親子共倒れ」へと向かう「家族のリアル」だ。

事件後、拘置所から手記が届けられた

事件が起きたのは、2015年12月30日午前1時頃。父親は、1年のおよそ半分を仕事で出張していたが、29日の夕方頃、帰宅していた横浜市のマンションで、息子の被告が料理した夕食を別々の部屋で食事した後、酒を飲んでいた。

自分の部屋で酒を飲んでいた被告は、包丁で父親の胸部を1回刺して、病院搬送後に失血死させた。被告は、自ら110番通報して「お父さんを包丁で刺しました。観葉植物を枯らしたって、強く責められて…」などと話したという。

事件の起きる1ヵ月ほど前、被告は、当時通っていた自助グループの友人の勧めで自分の半生を振り返った『体験談1983―2015』という手記は、A4用紙で13枚。もともと支援者に配布されたものだが、縁あって被告の意向により、事件後、筆者の元にも届けられていた。

被告は、両親、兄の4人家族の次男として生まれた。

手記には、長い不登校とひきこもり期間を経て、家族との関係のことや、出会いをきっかけに様々な人に支えられながら自立を目指していた様子などが記されている。

被告は、小学校5年の時、いつものように学校に行こうとしたものの、体が動かなくなった。そんな不登校のきっかけについて、こう記されている。

<5年生になって、若い男性の先生が担任になった時はそりが合わなくて、安心できないのが学校に行けなくなった原因のひとつだったと思う。他の原因は当時、友達との人間関係がわからなくて悩んでいたこともある>

以来、中学の入学式に母親と行っただけで、学校には行っていない。

父は母に任せていた感じでした

裁判員裁判は、2016年12月9日から横浜地裁で始まった。被告人質問で、弁護側はまず、事件に至る背景となった家族関係を浮き彫りにしていく。

弁護人「お父さんは、お酒を飲んで、お母さんとケンカすることはありましたか?」

被告人「ふてくされて母のことをよく叱責していた。僕はいまだに心の傷になってます」

弁護人「お母さんはどんな人でしたか?」

被告人「狭い世界に生きている印象でした」

弁護人「小学生の頃はどんな関係でしたか?」

被告人「学校へ行かなくなる前は、普通の母親だった」

弁護人「お兄さんとの仲はどうですか?」

被告人「兄はいつも高圧的で、気に入らないことがあると、僕の引き出しの中をぐちゃぐちゃにされたり、アスファルトに頭を叩きつけられたり……、いくつか忘れられないことがあります。兄に逆らうと反撃されるので怖かったです」

弁護人「お母さんは不登校を許してくれましたか?」

被告人「最初は“学校行きなさい”と言われ、強引に連れて行かれたこともあります」

弁護人「不登校について、お父さんから何か言われたことはありますか?」

被告人「ないです。基本的に、父は母に任せていた感じでした」

家族とさえもコミュニケートできなかった

13歳のとき、近所のマンションに引っ越したのをきっかけに、風呂とトイレの時以外、部屋から出られなくなった。

弁護人「ひきこもってしまった理由は?」

被告人「兄に対する恐怖心と、母親の言葉の攻撃に耐えられなかった。一方的にまくし立てられ、自分の置かれている状況を母に説明することができなかったんです」

部屋から出られるようになったのは、8年後の21歳になったとき。しかし、外出できるようになるまでは、さらに時間がかかった。

<13歳から16歳までの3年間、僕は誰とも家族とさえもコミュニケートできなかった>

弁護人「部屋から出られた理由は?」

被告人「兄が家を出たからです」

<兄が家を出たので家の中で自由に過ごせるようになり、母や父とも少し話せるようになる。それでも母との諍いは続いて、なかなか心休まる日がないのが大半だった>

22歳のとき、兄が喪服を借りに自宅に戻ってきたとき、包丁を持ち出した。

弁護人「22歳のとき、お兄さんが喪服を取りに帰宅しましたね。そのとき、包丁を持ち出してしまった理由は?」

被告人「せっかく安心して家にいられるようになったのに、兄が帰ってきて、今までの恐怖心がよみがえった」

弁護人「そのことで、お父さんから何か言われましたか?」

被告人「とくに何も言われませんでした」

裁判では、東京都内に住む1学年上の兄の供述調書も読み上げられた。

「私が家を出たのは、弟と一緒に住んでいたくないというのが大きな理由です。弟は不登校が始まったころから、些細なことで癇癪を起こしてしまい、そんな弟に対処することができず、お互いに避け合うようになった。弟が部屋にひきこもってからは、会話どころか顔を合わせることもなくなりました。自宅に喪服を取りに戻ったとき、なぜ弟が台所から包丁を持ち出して部屋に閉じこもったのか、いまだにわかりません。包丁を突きつけられたわけではなく、私への怒りだったと思いますが、奇声を発していただけでした」

勇気を出して保健所に電話した

23歳になった06年8月、被告は勇気を出して、区の保健所に電話している。

<前から母は保健所に相談に行っていたみたいだけど、僕は母に反抗していたので、あまりいい気分がしていなかった。でも電話に出た担当のEさんは凄くやさしい感じで、電話をかける前に感じていた不安な気持ちが少し和らいだ。(略)Eさんはちゃんと受け止めてくれて、それから1週間に1回電話するようになる>

8月末、Eさんと精神保健福祉センターの担当者が自宅玄関を訪問。12月には、Eさんと精神科医が玄関まで来た。

翌07年2月、精神保健福祉センターの担当者と一緒に保健所まで歩いた。

<3年ぶりに外に出て前と同じ開放感を味わった。あの瞬間は今でも忘れられない>

同年9月、病院で年上の女性からカウンセリングを受けるようになった。

翌08年7月、13年ぶりに電車に乗って、小学3,4年当時に慕っていた担任のN教諭に近所の公園まで会いに行った。

2010年、デイケア室で「いつも騒いでいたグループがうるさくて」暴れてしまい、出入り禁止になった。その後、保健所の担当者と一緒に生活支援センターを見学し、通うようになった。

28歳になった翌11年、生活支援センターでSSTに参加し、就労体験プログラムを体験し始めた。しかし、その年の夏ごろから、母親の体調が悪化した。

母の死後、父親と2人暮らしに

宗教に熱心だった母親は、1年前から身体に違和感があるのを知りながら、父が説得しても病院の検査を受けるのを拒んだ。

<日に日に衰弱していく母を見るのは辛かった。でも「病院で検査を受けて」とは勇気がなくて、とても言えなかった> 

母親はやがて歩けなくなり、どうしようもなくなって入院する。

兄も、母への見舞いに来て、6年ぶりに再会した。

再び被告人質問。

弁護人「そのとき、お兄さんに対して、以前感じていた恐怖心はあったか?」

被告人「最初は不安とイライラで胃が痛かった。だんだん慣れてきて、兄に歩み寄らなければって思い、次第に恐怖心はなくなりました」

母親は、入院して1ヵ月も経たないうちに亡くなった。

<最後に、今まで言えなかった「ありがとう」と「ごめんなさい」が言えたことだけが良かったと思う>

そして、被告は生活支援センターとともに、翌12年からは、その合間に作業所やデイケアにも通うようになった。一方、父親と2人暮らしになり、2人で酒を飲むことも多くなった。

そのことについて、被告はこう陳述する。

弁護人「父と2人暮らしになって、お父さんのお酒の量は?」

被告人「母がいたときはセーブしてたのに、歯止めが効かなくなって、僕も一緒に飲むようになって酒の量が増えました」

生活支援センターでのトラブル

1年ほど後、被告は通っていた生活支援センターの利用者とトラブルになり、相手は出入り禁止になったものの、恐怖心が消えなかった。

弁護人「どんなトラブルですか?」

被告人「利用者が“表に出ろ”って因縁をつけてきたんです。その人は出入り禁止になりました」

その年の12月頃から、<ひきこもりの自助グループはないのか、支援センターのスタッフに聞いてもわからないと言われたので>、自分で調べて見つけた自助グループに足を運ぶようになった。以来、自助グループのメンバーとの付き合いは、事件後も続いていく。

30歳のとき、生活支援センターで面談中、以前トラブルになった利用者が来ていた。

<僕は気持ちが高ぶって興奮して>、面談室を飛び出して台所から包丁を持ち出し、利用者のところへ駆けていこうとした。以来、支援センターは出入り禁止になった。

弁護人「翌年、その人とまたトラブルになってしまって、支援センターで包丁を持ち出したのですか?」

被告人「兄に対する恐怖心と同じものを感じたんです。焦燥感と閉塞感に押し潰されそうだった。父も夜中まで酒を飲んでいて、僕は吐いていて、ずっと悩んでいしました」

弁護人「包丁を持ち出したきっかけは?」

被告人「その人がスタッフに僕の悪口を言っていたんです。我慢していたものが抑えられなくなって。台所でスタッフに止められて、落ち着いた」

父から自立したくてA型作業所へ

翌14年、31歳のとき、現在の横浜市のマンションに転居。新しく通うようになったB型作業所を保健所の担当者と一緒に見学した。しかし、最低賃金を得られるA型作業所も見に行くことになり、保健所の担当者と一緒にハローワークでA型の求人に応募した。

同年9月、作業所で10日間ほど、農作業を体験した。また、通信制高校に通うことも目指した。

弁護人「A型作業所に行きたかった理由は?」

被告人「父から自立したい気持ちが強くなった」

弁護人「どのくらい通ってましたか?」

被告人「週に4日です」

弁護人「頑張った実感は?」

被告人「ミツバチを育ててはちみつをつくる農作業は、充実感がありました」

その頃、父親が酒気帯び運転で人身事故を起こす。逮捕され、免許も取り消された。

弁護人「事故後、お父さんはお酒を控えたか?」

被告人「釈放されて、すぐ焼酎を飲んでいました」

そして、事件の起きる9か月前の翌15年3月、兄が家に来て、父子3人が近所の寿司屋で食事した。

<家に帰ったあと、僕はひきこもっていた時のことを兄に謝ることができた>

食事会の後、兄から、こんなメッセージがLINEで届いたと記している。

「当時、A(被告の名前)のことを気遣ってやれなくてごめん」

被告の体験談は、ここで終わっている。

父とは酒なしで話したかった

弁護人は、被告人質問でこう続ける。

弁護人「体験談をお父さんに読んでもらいましたか?」

被告人「もらえなかったです」

弁護人「お酒の飲み方は?」

被告人「父親は出張から帰ってくると、昼間から飲んでました」

弁護人「どうしてほしかったですか」

被告人「父と酒なしで話したかった。このまま一緒にいると、親子共倒れになるって不安が常にあって、だから自立したかった」

2015年12月28日、午後5時頃、父親は出張先から帰宅。すぐハイボールを飲み始めた。

弁護人「お父さんから何を言われましたか?」

被告人「100円ショップで買った観葉植物が少し枯れている。“ちゃんと水やらなきゃダメじゃないか”“この観葉植物は、父と子の絆なんだ”と言われました」

弁護人「以前から、絆と言われていたのか?」

被告人「その日に初めて、勝手に決め付けられました」

弁護人「観葉植物を枯らしたことをお父さんに謝りましたか?」

被告人「何度も謝りましたが、許してくれなかった」

観葉植物が枯れたくらいで壊れる“絆”

翌29日、父親は朝から焼酎を飲んでいた。夕食は、父がリビングのテーブル、被告が自分の部屋で、いつものように別々にとった。

被告は夕食後、ハイボールを飲み、本を読みながら音楽を聴いた。そのうち、酔いで記憶がおぼろげになった。

次に覚えていることは、向かい合った父の胸のあたりに包丁が刺さっている場面が脳裏に焼き付いていて、それまでの記憶がないと陳述する。

被告は法廷で訴える。

「取り返しのつかないことをしてしまったという後悔の念と複雑な気持ちがある。たかだか100円の観葉植物が枯れたくらいで壊れる“絆”なんて、最初から存在しないという思いがある。絆って言うのなら、昼から夜中まで飲んでないで、ちゃんと話し合う時間をつくって欲しかった」

被告からは、自立に向けて自分なりに一生懸命に頑張ってきたことを認めてもらえず、責められたことがショックだったという思いが強く滲む。

「だんだん暴力的な性格になっていると感じますか?」

弁護人の質問に、被告は答えた。

「人との関係は、慎重に一歩一歩、信頼関係を築いていた。安心できる人でないと、心を開かなかった。僕は元々、人との関係で神経質な面があって、慎重なタイプなんです」

父とも母とも関係が一方通行だった

一方、検察官は、13日に行われた被告人質問で、被告人の犯行に至る身勝手さを印象付けようとした。

検察官「お父さんは、1ヵ月も2ヵ月も出張して、ひきこもりのあなたの面倒を見てきて、帰ってきたら大事にしていた観葉植物が枯れてた。お父さんの気持ちになって考えたことはあるか?」

被告「あります」

検察官「その気持ち、事件当時は理解できてたの?」

被告「できなかったです。なぜ事件に至ったのか、一線を越えた瞬間が、僕の中でわからなかった」

検察官「自分のことをわかってくれと言っているだけで、他人のことをわかってないのでは?」

被告「それもあると思います」

検察官「あなたが事件を起こしたことと、今、言ってることに何か関係あるのか?」

被告「父との関係も、母との関係も、お互いが一方通行だった。今となっては、父や母の思いがわかるけど、兄との関係もそうだけど、糸がこんがらがってしまった。僕自身、ひきこもりたくてひきこもったわけではない。いろんな状況が重なった」

検察官「(自宅で)包丁を持ち出したときに厳しく注意されていたら、どうしましたか?」

被告「僕自身、母ともわかり合いたかったんです」

検察官「あなた自身が壁をつくっているのでは?他人から注意されると反発してたんじゃないのか?」

被告「ひきこもっていたとき、心から安心できる場所ではなかった。自分のホームではなかった」

「今後のことだけが心配」と祖母

また、検察側の証人として証言に立ったのが、被害者の母親でもある被告人の祖母(91歳)だ。

検察官「A君が精神的に過敏だと感じたことはありますか?」

祖母「……」

検察官「答えにくいですか?以前、そう検察官の前で言っていましたよね?A君を前にすると言いにくいですか?」

祖母「はい」

検察官「自宅で暴れたことがあると聞いたことは?」

祖母「私はあまり聞いてないです」

検察官「あまり聞いたことはないけど、聞いたことはありますよね?」

祖母「……だと思います」

検察官「A君はお母さんのことを好きじゃなかった?」

祖母「お母さんのほうが…」

検察官「いやお母さんの話ではなく…」

こんな感じで検察官が誘導するように引き出そうとするやりとりがしばらく続いた後、最後に祖母は、こう孫を気遣った。

「少しでもAのためになるのかなと思って受けたのですが…。あなたのためにならないんじゃないかと思いました」

弁護人「兄弟げんかしているところを母親はどうしてましたか」

祖母「Aだけを注意してました」

弁護人「どう思いましたか?」

祖母「間違ってるなと思いました」

裁判員「被告は面会に行ったとき、どんな話をしていましたか?」

祖母「お母さんとの生活で、こんなに我慢していたことがあったんだと、初めて聞いたこともある。几帳面だったのかな…」

そして、弁護人が「いちばん心配なこと」を尋ねると、このときはハッキリと、こう答えた。

「Aが帰ってきたときに、誰もいないということです」

大正生まれの気丈な祖母は、尋問後、筆者に「Aが不憫で。今後のことだけが心配です」と話した。

一方、被告の兄は、こうも陳述する。

「父親は子育てに関しては母親任せで、あまり記憶がない。出張で家にいなかったこともあり、接点はあまりありませんでした。酒を飲むと、何度も同じ話を繰り返す癖があり、母が亡くなると、実家への足は遠のきました。精神状態がまったくわからない弟に対して、どのような対応をすればいいのか、自分が何をすべきなのか、まったく整理がつかない状況です」

13日の公判では、被告人を精神鑑定した医師が「精神疾患や発達障害などではなく、パーソナリティ障害」と診断したことを証言した。

問われる家族への支援体制のあり方

19日の判決で、松田裁判長は、量刑の理由をこう述べる。

「被告人は、長期ひきこもり生活を脱して自分なりに適応しようと努力し、体験談を被害者にも読んでもらって頑張りを理解してもらいたいと思っていた。ただ、観葉植物を枯らしたことを責められ、理解してくれない被害者に怒り、飲酒の酩酊状態も影響して犯行に及んだ。犯行は短絡的だが、成育歴やパーソナリティ障害との関係、いささか配慮に欠けた被害者の言動が、不幸にも重なってしまった」

もちろん、自分のことをわかってくれないからと、一線を越えてしまった罪は反省しなければならない。ただ、ひきこもらざるを得なくなった本人の気持ちを家族がどこまで理解しようとしてきたのか。周囲も、親とのつながりを持つなど、孤立しがちな家族への支援が十分できたのか。そうした支援体制のあり方も問われている。

同じような「親子共倒れ」の危機を抱えながら、外部にSOSを言えずにいる家族は水面下に数多く、決して他人事ではない。ひきこもり本人と家族の長期・高年齢化が進む中で、地域における家族への関わり方も考えていく必要がある。

<今までの自分をふり返ってみると、色々な人に支えられて、なんとかここまでやってこれたんだなと思う>

被告が、こう前向きな思いを手記の「あとがき」で綴った1カ月余り後、事件は起きた。

判決後、拘置所で面会したとき、被告は「判決に納得した」としつつ、こう語った。

「僕なりに精一杯、社会復帰しようと頑張ってきた。一線を越えてしまった事実は重い。悲しいけれど、これから先ずっと、父と母がどんな気持ちでいたのかを考えて、生きていくしかない」