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なんでもかんでも文科省が決める、は「雰囲気」でしかない

前屋毅フリージャーナリスト
(写真:つのだよしお/アフロ)

 こんなことまで、なぜ文部科学省(文科省)に指示されなければならないのだろうか。

  今月6日、文科省は来年度から使用が認められるデジタル教科書について、健康面を配慮して各教科の年間授業時数の半分未満とする利用指針(ガイドライン)の素案を有識者会議に示した。デジタル教科書の使用時間を文科省が決めることになりそうだ。少し前には、文科省は自宅で使わない教科書を学校に置くなどして「重いランドセル」の解消の工夫をするように教育委員会に求める方針をだしている。

 健康面であれ、ランドセル問題であれ、いちばん的確な判断ができるのは、子どもたちと間近で接している教員である。だから、教員の判断に任せるべきであるし、教員が率先して判断すべきである。

 ところが、なんでもかんでも文科省が決めてしまっているのが日本の教育の現状である。

 そんな権限が文科省にはあるのだろうか。その疑問に、高橋哲・埼玉大学教育学部准教授は次のように答えた。

「文科省が教育委員会に何らかの命令をだす権限は、建前的には、ありません。できるのは教育委員会が明らかに法令違反した場合と、子どもたちの権利等が侵害される可能性がある場合に指示ができる是正指示権だけです。それ以外は、命令ではなく『こういうふうにしてください』と『お願い』する通達というかたちになっています」

 にもかかわらず日本の教育は、文科省が教育委員会に命令し、それを教育委員会が学校に命令して徹底させるという流れが「当たり前」のようになってしまっている。高橋准教授が続ける。

「そういう教育文化、行政文化というものをつくってきたわけです」

 さらに高橋准教授によれば、そもそも教育課程は学校ごとに作成することになっているという。子どもたちの発達に即して何を教えるかカリキュラムを組み立てていくのが、教育課程である。ところが現実は、文科省の定めた学習指導要領に沿った全国一律の教育課程になっている。

 最初の学習指導要領は戦後の1947年につくられるが、そのときの名称には「(試案)」の文字がつけられている。その「序論」には、次のように述べられている。

「直接に児童に接してその育成の人に当たる教師は、よくそれぞれの地域の社会性の特性を見てとり、児童を知って、たえず教育の内容についても、方法についても工夫をこらして、これを適切なものにして、教育の目的を達するよう努めなくてはならない」

 そして、「この書は、学習の指導について述べるのが目的であるが、これまでの教師用書のように、一つの動かすことのできない道をきめて、それを示そうとするような目的でつくられたものではない」と「学習指導要領」を位置づけている。つまり、教育課程は「学習指導要領」によって固定化されるものではなく、教員が子どもの現実に即してつくっていくものだと明記している。「学習指導要領」は参考程度の「試案」でしかない、と当時の文部省(2001年の中央省庁再編で文部科学省に変更)と言い切っているのだ。

 ところが文部省は、1958年改訂の「学習指導要領」から「官報」に掲載することによって、「国家基準として法的拘束力をもつ」と主張していく。「絶対的なもの」にしてしまったのだ。その理由を、高橋准教授が説明する。

「当時の日本社会党や日本共産党の支持母体と考えられていた日本教職員組合(日教組)が急速に力をもちはじめたため、そこに自主的な教育課程編成を認めてしまってはマズい、と保守党が考えた。その意向で、文科省が動いたことになります」

 その根拠のひとつとして高橋准教授は、『戦後教育はなぜ紛糾したのか』という本を示した。著者の菱村幸彦は1958年入省の元文部官僚(文部省官僚)で、文科省行政に詳しい人物である。当時の日教組は「学習指導要領」は国による教育への不当な介入であるとして反対運動を繰り広げており、それに対抗して文科省は法的拘束性を主張したのだという。菱村は次のように述べている。

「法的拘束性の論理は、文部省が好んで言い出したことではない。日教組が宗像理論を楯に学習指導要領への反対運動を強めたゆえに、やむをえず持ち出した法理論である」

 日教組の反対運動の理論的支柱的存在が、当時の宗像誠也・東京大学教授である。ともかく当時の文部省は学習指導要領を絶対的なものにすることには否定的だったものの、政治的な判断で絶対的なものにしてしまった。

 政治状況は変わったが、これが現在まで続いている。それも、かなり強化されて続いているといっていい。

「ただし、法的な根拠は存在していません。だから文科省の意向と学校現場が従わなくても、文科省からの直接的なサンクション(制裁措置)はできないのです」

 かつて、愛知県犬山市は文科省の意向を無視して全国学力テストに参加しなかったことがある。そのときも、犬山市に文科省はサンクションを科すことはできなかった。

「文科省や教育委員会が、自分たちの指示に学校や教員は従わなければならないという『雰囲気』をつくっているだけです。学校や教員も、文科省や教育委員会の意向を忖度して動いてしまっています」

 と、高橋准教授は言う。なんでもかんでも文科省が決める、のは間違いでしかない。決めるのは、子どもたちと直に接し、その発達を目の当たりにしている学校であり、教員である。それが忘れられていることが、現在の教育の最大の問題である。

フリージャーナリスト

1954年、鹿児島県生まれ。法政大学卒業。立花隆氏、田原総一朗氏の取材スタッフ、『週刊ポスト』記者を経てフリーに。2021年5月24日発売『教師をやめる』(学事出版)。ほかに『疑問だらけの幼保無償化』(扶桑社新書)、『学校の面白いを歩いてみた。』(エッセンシャル出版社)、『教育現場の7大問題』(kkベストセラーズ)、『ほんとうの教育をとりもどす』(共栄書房)、『ブラック化する学校』(青春新書)、『学校が学習塾にのみこまれる日』『シェア神話の崩壊』『全証言 東芝クレーマー事件』『日本の小さな大企業』などがある。  ■連絡取次先:03-3263-0419(インサイドライン)

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