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「教員は必要ない」と言っているようなものだ

前屋毅フリージャーナリスト
(ペイレスイメージズ/アフロ)

 文部科学省(文科省)が中央教育審議会教育課程部会に、「総合的な学習の時間」を週末や夏休みに振り分け、しかも教員以外が担当する案を示したという。これは、文科省が自ら謳っていることの放棄であり、教員の役割放棄につながる。

「総合的な学習の時間」を文科省は、「変化の激しい社会に対応して、自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てることなどをねらいとする」と説明している。

 そして新学習指導要領のテーマとして文科省は、「生きる力」を掲げている。「変化の激しい社会」で「生きる力」を養うのが、「総合的な学習の時間」のはずなのだ。謳い文句どおりであれば、「総合的な学習の時間」にこそ教員の力が注がれるべきである。

 文科省が示した案は、「総合的な学習の時間」の年間授業数(70コマ)のうち4分の1程度までを外部に任せ、教員の引率も必要ない、とするものである。教員の多忙が社会問題になっている現状で、教員の授業時間数を減らして負担を軽くしようというのが文科省の狙いのようだ。

 教員の負担を減らすことには、もちろん、反対しない。しかし、ほんとうに教員が力を注ぐべきところを減らすのは、問題ではないだろうか。

 ただ、「総合的な学習の時間」が形骸化しているのも現実である。「自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し」とは名目だけで、課題は与えられるものであり、パターン化した答を提出するだけになってしまっているのが現状でもある。

 それには、教員の力不足も大いに関係している。主体的な学習を指導できるだけの力をそなえた教員は、残念ながら少ない、といわざるをえない。

 そうした形骸化した「総合的な学習の時間」から少しでも解放されることに、好感を示す教員も少なくないはずだ。教員からも喜ばれ、教員の過重労働問題に対処したと社会的評価も得られるとすれば、文科省としては万々歳だろう。

 しかし文科省にしてみれば、自らが謳っている教育の姿を軽視していることを明らかにしているにすぎない。今回の文科省提案に反対する声が教員から起きてこないとしたら、かなりの問題である。

 念のためにいえば、「総合的な学習の時間」を外部に任せることには、必ずしも反対ではない。形骸化した状態に甘んじている教員に任せておくよりも、積極的に創意工夫をこらす外部に任せたほうが、子どもたちのためになる。そのとき、学校や教員が「上から監督する立場」になるなら、もはや弊害でしかない。

「総合的な学習の時間」を形骸化したままで放置し、一部とはいえ放棄するとなれば、もはや文科省や学校、教員そのものの存在意義が問い直されなければならない事態である。

フリージャーナリスト

1954年、鹿児島県生まれ。法政大学卒業。立花隆氏、田原総一朗氏の取材スタッフ、『週刊ポスト』記者を経てフリーに。2021年5月24日発売『教師をやめる』(学事出版)。ほかに『疑問だらけの幼保無償化』(扶桑社新書)、『学校の面白いを歩いてみた。』(エッセンシャル出版社)、『教育現場の7大問題』(kkベストセラーズ)、『ほんとうの教育をとりもどす』(共栄書房)、『ブラック化する学校』(青春新書)、『学校が学習塾にのみこまれる日』『シェア神話の崩壊』『全証言 東芝クレーマー事件』『日本の小さな大企業』などがある。  ■連絡取次先:03-3263-0419(インサイドライン)

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