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日本型雇用の課題とこれからの雇用社会④~日本型雇用の何が残り、何が変わるか~

倉重公太朗弁護士(KKM法律事務所代表)

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「日本型雇用の課題とこれからの雇用社会 ~昭和的働き方から脱却せよ」のイベントレポート第4回。第4部は「日本型雇用の何が残り、何が変わるか」をテーマにしたパネルディスカッションです。第1部から3部までの講師、倉重公太朗、白石 紘一氏、濱口 桂一郎氏が再び登壇。弁護士法人キャストグローバル弁護士、芦原一郎氏がモデレーターとなり、日本型雇用の実態と問題点、あり方について議論を交わしました。

<ポイント>

・メンバーシップ型は仲間だけを守る「一企業社会主義」

・昔から存在していた「働かないおじさん」が今問題になっている理由

・これからの労働組合はどうあるべきか

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■日本社会における「能力」とは何か

芦原:このような形で豪勢なメンバーを仕切らせていただく機会を頂きまして、非常に光栄です。関連する質問にお答えいただきながら、先生方のご主張やお話を補足していきたいと思います。

 まず「仕事ができる、できないの定義や概念の議論というようなものがあるのでしょうか」というご質問をいただいています。これは濱口先生が「能力」という言葉とスキルは違うのですというようなお話がありました。仕事の評価が、先生のご主張の「整理されたジョブ型」と「メンバーシップ型」の中でどのような役割を果たしているのかという確認になればいいかと思います。ご説明お願いします。

濱口:この質問とダイレクトになるかどうかよく分からないのですけれども、私は日本の企業あるいは人事労務管理で使われる能力という言葉はとても変な言葉だと言いたいのです。スキルであれば、どの仕事についてどれくらいできるという定性的・定量的な議論が可能だと思いますが、「能力」にはそれがありません。

「あいつはできる奴だ」という言葉がありますね。何ができるのかという目的語のない言葉なのです。だから不合理だと言っているわけではありません。「何でもやる」という職務無限定である以上、限定しないほうがいいのです。「無限定さに対応した能力」というものがフルに発揮できなくなるから、「何でもできるかもしれない能力」が重宝されるのです。これは入ったばかりであればあるほど、意味のある言葉です。

 私はiPS細胞に例えるのですが、新入社員は何もできないけれども、びしびし鍛えれば何でもできるようになるかもしれません。その能力概念が20代、30代、40代、50代になっても同じように使われています。40代のおじさんに、「やらせれば何でもできるはずだ」と言ってやらせてもできません。「このコンピューターはいったいどうやるのだ」と言われて、ただでさえ仕事がいっぱいある若者が困ってしまうという話なのです。

日本語にしろ、法律にしろ、本当はジョブ型を前提にできているはずなのです。けれども、なぜか日本の戦後確立した人事労務管理の仕組みの中では、具体的な仕事を前提とした「できる、できない」からかけ離れた形で能力を作ってしまいました。それで訳が分からなくなってしまっているのではないかというのが私の話です。

芦原:少し順番が逆ですけれども、白石さんがおっしゃっていたコーポレートガバナンス・コードの指標として、KPIのいくつかは従業員の仕事のスキルや生産性に関わってくるのではないかと思います。

そういう観点で言うと、今コーポレートガバナンス・コードで仕事ができる、できないというのはジョブ型のほうに近いようなイメージではないかと思って聞いていたのですが、白石先生、どう思いますか?

白石:コーポレートガバナンス・コード自体は、人材の要素、あるいは能力というところに、そこまで注目していないのではないかと思います。会社の存在意義や経営戦略が何であるかというところから順々にブレークダウンしていったときに、最終的に「ではどのような人材が必要だ」というところに行き着くはずです。

どちらかというと、どういう施策をとっているか。さらに進んでその施策のアウトプットのほうが注目度が高いのではないかと思います。

芦原:ジョブ型、メンバーシップ型というのは、分析のツールというイメージが強くて、どうあるべきなのかという話になると、倉重先生の出番かと思います。先生のイメージしている「あるべき姿」や、どういう点を特に注意しなくてはいけないというお考えを聞かせてください。

倉重:日本の雇用社会で使われる「能力」は一般的な意味ではないという話が先ほどありました。それは、「あいつはいろいろな仕事を頑張っている。転勤して頑張った。子どもが生まれて最近頑張っている」というような、いろいろな要素を含む概念になってしまっています。しかもその「能力」は一度獲得すると下がりません。

評価制度を入れて上げ下げするという規定になっていても、きちんと運用していない会社がとても多いわけです。まず能力とは何であるか、どうやって上がり下がりを賃金でしていくのか、企業自身が決めなくてはいけない話です。

芦原:制度設計あるいは会社のポリシーを作っていく過程で、日本型雇用に縛られずに、一歩引いた見方をきちんとしていこうというご提案だと受け止めました。次の質問に行く前に、濱口先生に『日本の雇用終了』が売り切れているのではないかというご質問がありました。

濱口:『日本の雇用終了』は販売終了しています。その後また実態調査をして、今度は『日本の雇用紛争』という本を改訂版のような形で出しました。そちらはまだ売られていますので、そちらをお買い求めいただければ。

倉重:濱口先生の「日本の雇用終了」は私も持っているのですが、全国であっせん事例の分析をされています。「有休を使ったから解雇」「妊娠したから解雇」というレベルのものが10万円や8万円などで解決している現実を突きつけられるのです。そのような現実があるのに、金銭解決は反対だというのは詭弁(きべん)ではないかと、まず圧倒的なリアルを基に議論すべきだと思っていつも言います。

芦原:本自体は終了しているけれども、議論は終了していないということですね。

■所得の再配分について考える

芦原:いくつか頂いた質問の中で、所得の再配分という観点からの問題提起も頂いています。

「メンバーシップ型ではなくてジョブ型になると、所得配分はどうなるのだろう」ということです。「ジョブ型だと結局企業に任せられなくなるから国が出てくるのか」というようなご意見の方もいらっしゃいます。では、濱口先生からお願いします。

濱口:これは言い出すと非常に大きな話になります。メンバーシップ型というと、1つの企業の、正社員までを含めた1個の国家なのです。一国社会主義ならぬ一企業社会主義になっています。同じ会社の中でも非正規は、あるいはよその会社がどうなろうが知ったことではないという仲間内の甚だ崇高なる平等を実現するメカニズムなのです。

歴史的をたどるとマクロ的な意味もありました。先ほどの私の説明の中でちらっと出たのですが、出発点は戦時体制です。一種の戦時社会主義体制で、国家総動員法の下で国家が企業に対して年功制で年齢と家族数に応じて賃金を払えということを賃金統制令で命じました。これはまさに一国軍事社会主義なのです。ある意味でマクロ的な整合性はあるとも言えます。

 終戦直後にそれを労働組合がやりました。いわゆる電産型賃金体系です。実はやっている連中はマルクス主義者で、日本というレベルで一国社会主義を実現するのを先駆的にしていました。

良いか悪いかはともかくとして合理的な説明がつきます。しかしマクロ的な社会主義の理想が雲散霧消して、企業の正社員だけでかつての一国社会主義ならぬ一企業社会主義をひたすら続けると、企業外の人々や、非正規の方々に全部そのツケが押し付けられます。矛盾が極大化したというのはそういうことだと思います。

倉重:所得の再分配という時点で、ジョブやパフォーマンスに見合っていない賃金の人たちがいることが前提なわけですよね。象徴的なのが、「働かないおじさん」問題です。処遇とパフォーマンスが見合っていない人が生まれてしまうこと自体が今の時代においてはむしろ不公平ではないか、おかしいではないかと思う人が多いわけです。「不均衡な処遇」と見る人が増えたことによって「変えるべきではないか」という議論が強まっているのかと思っています。

芦原:白石先生のほうからは、ガバナンス・コードの1つの機能で、選んでもらう会社という話がありました。「こういう所得の再配分の1つの機能になり得るのか」と思って聞いていたのですが、コーポレートガバナンスを推進する側には、何かイメージがあるものでしょうか。

白石:何をもって所得の再分配なのかという感じではあるのですが、少しさかのぼると、いかに健全な仕組みにするかどうかという話だと思うのです。

所得の再分配というのも、社会を健全なものにしていくためにある機能の1つと考えたときに、企業間に立つ壁が高過ぎて移動することが困難な仕組みが、かえっていびつさを増大させているのではないかと思っています。

その壁を低くする仕組みは、基本的には社会を健全なほうに持っていくのではないかとは思っています。

芦原:ありがとうございます。ご質問の趣旨をそれぞれのお立場で解釈した面もありますけれども、確かに所得の再配分という言葉、あるいはその意味というのは、少し真面目に考えなければいけない問題だと思います。

最近ネットの記事を見ていて面白い切り口だと思ったのが、磯野波平さんです。設定では50歳過ぎでした。

倉重:55歳定年制の時代の話ですね。

芦原:もうすぐ定年だし、定年した後の残りの人生も限られている中で、彼の生活観があるわけです。けれども今のわれわれはもう100年生きなければいけません。20歳から60歳まで40年働いて、残りの40年分のお金もためなくてはいけないという人生だと、やはり考え方を変えなくてはいけません。

■退職金のルールについて考える

芦原:今日はあまり議論に出なかったのですけれども、それぞれの先生方の今日お話しいただいた問題意識から見ると、退職金のルールについてどのようにご覧になっているのかというのを教えていただきたいと思います。では、また濱口先生からでよろしいでしょうか。

濱口:年齢ということで一番大きいのは、かつてはピラミッド型の人口構造だったということです。今は逆ピラミッドになっています。昔も働かないおじさんはいたのだけれども少数で、ぴちぴちと若くて働く若者がたくさんいました。今はごく少数の若者が一生懸命ヒーヒー言っている隣で、ごろごろ働かないおじさんがいっぱいいて、高い給料をもらっています。ずっと存在はしていたのかもしれないけれども、その矛盾がより増幅され、極大化するようになってきた一番大きな要因は年齢構成かと思っています。

 本来、退職金というのは変な話なのです。何が変かというと、もともとは失業手当や年金がなかった戦前に、公的なセーフティネットの代わりとして企業が細々とやっていたものなのです。

年金がいつできたかご存じですか? 六法全書に厚生年金保険法を見ると、昭和16年と書いています。実は大東亜戦争開戦の年に労働者年金保険法としてできているのです。これが1944年に厚生年金保険法になって、今に至っているのです。戦後非常にインフレになったでしょう。だから、掛けた保険料は全部帳消しになりました。

 当時労働組合は、「公的年金はないも同然ではないか」「公的なセーフティネットがないから、企業がやれ」と迫りました。賃金も退職金も、福利厚生も全部そうなのです。本来ナショナルなレベルでの再分配の議論としてあるべきものを、全部企業に要求し、できる企業がどんどんそれをやっていきます。大企業ほど手厚くて、中小零細になればどんどん手薄になっていくというものが確立してしまいました。

 退職金もまさにそれです。いったん退職金ができた後で、厚生省が一生懸命頑張って、厚生年金がまたぼちぼちと増えてきました。今は公的年金について文句を言う人はたくさんいますけれども、これだけ確立しているのです。

公的な年金あるいはその他諸々の高齢者のためのいろいろな社会保障システムと退職金制度という私的なものとの関係を、半世紀前の段階から考え直さなくてはいけません。

 今の問題はこれまでずるずる来てしまったことのツケだろうと思っています。おそらく質問した方の意図をはるかに超えるような歴史的な話になって申し訳ないのですが。

芦原:そのほうが楽しいです。白石先生、コーポレートガバナンス・コードなどの中でも、企業の退職金や年金のような、リタイアした人たちに対するサポートも開示するものでしょうか。あるいは今後それが展開していって影響を与えることはありますか?

白石:正直何とも言えないですね。開示しようとする企業がそれほど出るとも思えないですし、退職金に関する仕組みが開示義務の対象となることも、あまり考えられません。

 「終身雇用的な仕組みであることこそがうちの強みなのです」という会社が出てくれば発信していくのだろうとは思います。ただ結局ストーリーの問題ではあると思うので、今後それが成長のドライバーになり得る業種、業態が出てくるかというとちょっと分かりません。

 経営戦略やビジネスモデルとは一致しないかもしれませんが、何とか同じ人に長く働いてもらいたいというタイプの会社であれば、正面から打ち出していくというのはあり得ると思います。

芦原:例えば離職率であったり、平均勤続年数であったりが、従業員の定着度合いを示すものは、ある程度会社が大きくなってくると経営者も気にし始める数字です。積極的なアピールの観点だと、確かに活用される可能性はあるかもしれないですね。

白石:かもしれないですけれども、ある程度大きい会社で新陳代謝をしなくてはいけないタイプの会社になると、そういうストーリーはおそらく作りづらいのではないかと思います。

芦原:なるほど。ありがとうございました。退職金も、このようないろいろな見方があると思いますが、昭和型の制度から脱却しようという観点で、倉重先生、退職金の問題について、どういう問題意識をお持ちなのか、ぜひお聞かせください。

倉重:本編でも退職金の税制優遇をなくしてしまえというお話をしました。よく同一労働同一賃金の最高裁の判決などを見ても、長期雇用のインセンティブのために設けられると言われているわけなのですが、若い世代にとって本当にインセンティブになるのかと。今の給与をきちんと評価しろという声が若い世代を含んで多いわけです。長期的に見ると、税制優遇があるからトータル1社で勤めた場合の年収は確かに多くなるかもしれませんが、仮にそれが少数派になっていくのだとしたら、社会として本当に正しい選択なのでしょうか。むしろ今の給与に対する税制を考え直したほうがいいのではないかという話です。

 「人生100年時代」のお話がありましたけれども、老後資金が2,000万円足りない問題もありました。結局年金の支給開始年齢をいつにするかによって大きく変動するわけです。

 年金の支給開始年齢を70歳まで遅らせれば、老後資金の不足額は減ります。高年齢者雇用安定法の改正によって就業確保が努力義務ですので、当然「いい人だけ残ってね」となりますし、フリーランスでも仕事が来る人と来ない人は大きく分かれるわけです。例えば60歳になってから「フリーランスになってください」と言われたら無理に決まっています。

 退職金という一時的な問題だけではなくて、最終的に自分のキャリアをどう考えていくのかという問題に帰着します。企業では、「退職金はすぐ使わないで投資しましょう」という研修はしていると思います。しかし、そもそも60歳を過ぎてからどのように働いていくのかあるいはそれまでに気づいた資産を取り崩して過ごすのかを、40代などから考えておかなくてはいけなくてはいけません。それが根本かと思います。

芦原:実際にしっかりした会社などの場合には、役職定年が何歳で、定年後の雇用は何年までという段階ごとの支給水準を説明するためにかなり早い段階から呼びつけて、自分の人生を考えさせています。ソフトな部分も組み合わせて考えないといけない問題ではありますね。ありがとうございます。

■経営者と社員の構造的な違い

芦原:ご質問の中で、経営者と正社員、非正規、自営業者の線引きにフォーカスが当たっています。例えば自営業者という法律上の位置づけで入っているけれども、実態は社員という問題もあるかもしれません。正社員と経営者との線引きというか、構造としての在り方などについて、何か問題意識なりメッセージがあればお聞かせいただきたいと思います。

倉重:個人事業主、フリーランスという形で働く場合は、経営者なのか、それとも労働者側の人なのかという根本問題があるわけです。屋号を持っている人も、結局は下請けで労働者と変わらない働き方をしている人はたくさんいます。業務委託だから、フリーランスだからという理由で、働く人であることには変わりないので、守らないというのはおかしな話です。ただ大きくなって人を雇うようになってくると、今度は経営という話になってくるので、雇う側と働く側、労働者側というのは、明らかに相反します。

 例えばコンビニのフランチャイズオーナーが、コンビニのフランチャイジーのほうに団体交渉を求めるという事案がありました。人を雇っている人が労働組合に入って団体交渉をするというのは、よく分からないことになってしまいます。やはり労働者という概念で考えるとおかしくなる話ですから、働く人、就労者をどう保護するのかという視点のほうが、これから議論すべきなのだろうと思っています。これはテクノロジーの発達によって、ギグワーカーの問題などが世界中で議論されている話ですから、考えなくてはいけない問題だと思います。

芦原:ありがとうございます。Uber Eatsなども他国の規制の動向がニュースで先に入ってくる時代になってしまいました。日本の裁判所が外国の労働法制の状況などを証拠に引用する時代もきっと来るのだろうなどと思っています。

労働政策の観点から濱口先生はどうご覧になられるでしょうか。

濱口:いくつかの局面があると思います。1つは今、倉重さんが言われた1人の中に経営者的な側面と労働者的な側面が両方ある人をどういうふうに見ていくのかという話です。だいたいどこの社会でも人間が作る組織というのは3つの階層に分かれています。組織体の経営機能を主として担う、いわばハイエンドなレベルの人たち。経営的な機能を持ちながら、実際に労働者として業務に従事しているミドルな人たち。経営的な側面がほとんどなく、専ら作業に従事するローエンドの人たち。法律構造として、どこに線が引かれるかといえば、日本の法律もそうですけれども2番目と3番目が労働者です。

2番目と3番目は労働法の適用の仕方が違って、例えば「2番目は労働時間規制がそれほど厳しくない」というふうな形になっているのが普通だと思うのです。

 日本はそういう意味から言うと変です。何が変かというと、2番目と3番目の間に非常に太い線をぶんと引いて、「この下は社員にあらず」と人外境のようにしています。島耕作に「お前は社長になったつもりで働け」という感じです。つまり社長の仕事は無限定でしょう。部長の仕事は、部のこと全てです。だんだん下のほうに行けば行くほど分かれていって、一係員は、その係の仕事をやるというのが、ジョブ型の本来の発想なのです。

 不思議なことに、係員に「課長になったつもりでやれ」と言い、係長には「部長になったつもりで仕事をしろ」ということに、かつてはメリットがあったわけです。つまりそれぐらいフレキシブルに、自由闊達(かったつ)に何でもできる若者が大勢いて、iPS細胞がうじゃうじゃして、働かないおじさんは窓際にごく少数しかいない。そういう中では非常に合理的といいますか、活発な組織のエネルギーをくみ出す仕組みだったかもしれません。それが今相当程度逆に機能しているのです。

 やはり2の末端のところまで「1になったつもりで働け」という仕組みが非常に矛盾をしています。それは1の経営者が純粋の経営者としての覚悟を持たずに、依存しているのです。

 要するに社長島耕作が係長島耕作のつもりでやられたのではたまったものではないという話です。2のところが1になったつもりで働くというのはいい面もあるけれども、無限定にやられたらたまったものではありません。

本来2と3がひとつながりです。2のところと連続的な形で保護されるべき3のところは人外境のような扱いになると、全部で矛盾が生じてきます。

コーポレートガバナンス的に言うと、1、2、3のどこに線が引かれるかという、線引きのずれのようなところに、ある意味淵源するのではないかという感じもします。少し話が大きくなり過ぎますけれども。

芦原:なるほど。ブレークダウンしていきましょうというキーワードが白石先生のお話の中でもちらりと出てきました。その辺りは、今の英米的なジョブ型のイメージが強いのかと思います。実際私も外資系の会社と日本の会社と、両方社内弁護士をしました。特に外資系の場合には、ジョブディスクリプションは契約なので、約束していない仕事をしたり、あるいは自分の直属の上司でない別の部の人などに対して気を利かせたりつもりすると「余計なことだ」と怒られてしまうのです。

 ところが日本の場合には、そういうポテンヒットになりそうなこぼれ球を積極的に拾うことが評価されるところがあります。ジョブ型の僕のイメージは、契約というマッチ棒で組み上げた組織と、日本のようにおかゆのような組織の違いとして聞いていたのですが、皆さんはどう受け止められたでしょうか。今の経営者と3つの段階でブレークダウンしていくという観点からのお話について、白石先生のほうから何かもしコメントがあれば。

白石:例えばコーポレートガバナンス・コード1つをとっても、会社の対応部門がIRなり何なりに閉じた話ではなくなっているというのは感じています。非常に大きい会社だったら分からないですけれども、例えば会社があるプレスリリースを出すに当たって、広報や法務、採用部門などいろいろな視点が必要になってきていると思います。おそらくSNSあるいはITの発達でさまざまな情報が目に触れるようになっているせいではないかという気がします。

 今回のコーポレートガバナンス・コードにおいても人事のコミットが必要であるという話をしたわけなのですが、やや横断的に、「自分の業務は人事」「自分の業務は法務」という決め方よりは、もう少し広い範囲を自分で取りに行くという形になったほうがよりいいのだろうと思います。

 各人が自分で動いて「やったほうがいい」と思うことを増やしていくことが必要なのだろうと思います。それが「できる従業員をいかに増やしていくのか」という発想であり、いわゆるエンゲージメントを高めていくという発想になるのではないかとお話を聞いていて思いました。

■これからの労働組合の在り方とは

芦原:ありがとうございます。あと日本の労働環境といいますか、倉重先生がおっしゃっていた働き方の問題の1つに集団的労使の関係があります。私もこれに関しては、日本の労働組合法は団体自治という観点から言うと、裁判所も入り込まないという統制権があるわけです。その統制権が多様性や透明性、議論の客観性を担保する方向と逆に、「違う思想の者は排除してもいいのだ」という組織の昭和の戦後の対立関係、組合を分裂させようとする動きに対抗する能力というイメージが強いのではないかと想像します。

 統制権は結構透明性や客観性と真逆で、かなりの権限を組合執行部に与えてしまうという、多様性の反対側に行くような働きもあります。構造的な面も組合の活動の存在感を弱めている面があるのではないかとも思っているのです。

 倉重先生にお聞きしたいのは、そういう集団的な関係性をもっと活用していくべきであるという問題意識の場合に、労働組合の在り方は、制度論や運用論を含めてどれぐらいのところまでどのように変えていくべきでしょうか。

倉重:この辺りは濱口先生がご専門のところなのですけれども。今のやり方ですと、まさに誰の視点で統制するのかというと、企業内組合は正社員を中心として組織されているのがほとんどなわけです。基本的には非正規の方は入っていませんし、高年齢者の方などもいないわけです。

 一方で、労働組合は、同一労働同一賃金の関係では「非正規の労働条件はこれでいいのか」と意見を言う立場にあります。高年齢者雇用安定法においてもフリーランスでいいかと言う立場にあります。

 非常に微妙な立ち位置で、正社員しかいない人たちなのに、全体の代表をしなくてはいけないのです。労働組合という在り方が本当にいいのかは疑問を感じています。

 日本の場合は、1人でも入っていたら労働組合ではないですか。ですから外部の労働組合も入ってくるわけですけれども、1人だけで公正な代表になるのでしょうか。結局その人に有利なことしかやらないという話になってくるので、いかに公正に労働者側、全体の利益を代表する人たちを組織すべきなのか考えなくてはいけません。

 ヨーロッパのような職場委員会のような公正な代表義務を負っている人たちを組織するという在り方を考えてもいいのではないかと思っています。

 ただし、労働組合の存在意義は極めて重要だと思っています。特に、働き方改革により、企業側から働く意味、働きがいなどを伝える機会が少なくなっている今、その機能を果たすべきは労働組合だと思っています。「カッコイイ先輩」の背中を見せる役割ですね。

芦原:そういう議論を深めていく前提で、濱口先生に歴史も含めていろいろ聞かせていただきたいです。

濱口:日本の労働組合というのは、ある意味ではそれほど変ではありません。なぜかというと、これはemployees’ organizationであって、実はドイツやフランスにあるものと似たような性格です。

 ただし自発的に作って組合費を払わないとその利益を受けられません。かつ非正規は排除されているという意味で、やや欠陥品ではありますが、やっていることがそれほど変ではありません。ただし、これはトレードユニオンではないのです。トレードユニオンとは何かというと職種です。

 中世のギルドに由来するのですが同じ仕事をする仲間が寄り集まるものです。逆に言うと、だからこそ統制権があるのです。芦原さんの話に少し逆らうと、ギルドなので統制権があるのは当たり前なのです。「ギルドのおきてに逆らうような奴は、ボコボコにぶん殴って働けないようにしてやる」というのがもともとのトレードユニオンなのです。今はそのようなことはしませんが、「俺たちの仕事はいくらだ。このジョブのこのスキルはいくらだ」ということを決めるのがトレードユニオンなのです。

 その機能が、実は日本で労働組合と称している団体にはありません。あるのは社員平等、年齢による社員平等の論理しかないので、どうやって差をつけたらいいかというロジックが自分たちの中にないのです。

 なぜこの30年間日本の賃金が上がらないかという話をします。どれほど景気が悪かろうが、「この仕事はいくらでなくてはいけない」というロジックがあれば、断固としてやるのです。

 それを一番よく貫いたのは、実は日本医師会です。日本において最もトレードユニオンの性格が一番強いのは、実は武見太郎時代の日本医師会です。その証拠に厚生省を相手に回して全国一斉ストライキをやるわけです。私が小学生のころ病院へ行ったら、保険に入っているのにスト中だから全額払わなくてはいけないことがありました。このようなことができる労働組合は、日本にないです。

 ただ、職場の仲間をうまくまとめていくという機能も必要です。それはヨーロッパにもきちんとあります。日本の企業別組合はトレードユニオンではないけれども、その従業員代表的な性格は、少なくとも正社員部分についてはきちんとしています。

 それを前提として、非正規や中小企業にも拡大していく形で作っていったほうがいいと思います。何でもかんでもたたけばいいという話でもないと思っています。

芦原:なるほど。勉強になります。ありがとうございます。今日のお話の中で、もう1つのキーワードは、やはり労働マーケットでした。白石先生は資本市場のほうから切り込んでいただきましたが、労働マーケットがないと敷居も下がらないと思います。労働市場に関して、今一番気になっていることを一言ずつお聞かせいただけますでしょうか。

白石:私は会社が健全であるために、企業間の壁は低いほうがいいのではないかと思っています。閉じた組織がどれだけひどい結果を引き起こすかというのも言うまでもありません。ただいきなり転職というのは、普通はなかなかハードルの高い話なので、私は兼業、副業というものがもっと健全な形で定着するといいのではないかと思います。今、厚労省のほうでの兼業・副業ガイドラインを作っています。自然と人のほうが動くようになっていて、従業員に自社のストーリーラインの中で「ぜひ兼業して自分のスキルを伸ばしてきてほしい」と発信できる会社のほうが、今の若い人からは選ばれるようになるのではないかと思います。

芦原:企業の健全性のためにもということですね。倉重先生、お願いします。

倉重:本編で少し触れましたが、ゲーム理論を用いた市場マッチングというのが個人的には関心があるところです。日本ですでに研修医の間で使われているのです。研修医に「どこの医局に入りたいですか」と聞き、医局の人に「誰を採りたいですか」と質問してマッチングさせると、かなり満足度が上がるアルゴリズムの組み方があるのです。それを雇用で使えないかと思っています。その前提として多くの雇用主と求職者が参加する必要があるので、ハローワークと転職業界の大企業が共催で大転職フェアを年に4回ぐらいやってくれないかと考えています。そうするとかなりミスマッチはなくなってくるのではないかと思っています。

芦原:倉重先生のパワーだったら、何年か後にそれを実際やってしまいそうな気もします。濱口先生、お願いします。

濱口:要するに労働市場がうまく回らない最大の理由は、コモンランゲージがないことです。「この仕事」ということが共通ではありません。「この仕事がこれくらいできる」といったものが、企業を超えると外国語であるかのごとく断絶してしまっているのです。歴史を振り返ると、終戦直後から日本政府は繰り返しその共通語を作ろうと一生懸命努力してきたのです。ところが、10年前の某政権がそういうものは要らないと言ってつぶしました。自分たちは企業を超えたコモンランゲージが要らない世界で生きてきているから、「無駄な税金を使って何をばかなことをやっているのだ」という話になるのです。その結果として、コモンランゲージがない状態が続いています。

 民間職業紹介事業者は、個々の今までの経歴を洗い出して、経歴書に書いたことをつぶさに見て、全部具体的に何をやったかということを全部洗い出して、他の企業の人にも分かるようにしなければなりません。

 その都度その都度のインターフェースでしていることをコモンランゲージにしていくような試みをしなければなりません。非常に日暮れて道遠しではあるのですが、そこからやっていかないと難しいのではないかと思います。その延長線上に、ある程度のコモンランゲージの世界ができるといいのではないでしょうか。

芦原:社内弁護士歴が長かった私は、時々ヘッドハンターなどと話をしますけれども、社内弁護士の中でマネジメントレベルを測定する大きな指標は、今まで部下を何人持ったかと、英語がどれぐらいできるかということです。その2つが外資系のハイレベルの社内弁護士を評価する指標として、だいぶ定着してきている気はします。そういうものが全業種で増えていくと、動くときの敷居が1つ減るというのはよく分かります。

いろいろな切り口から働き方の在り方に対する問題意識が少しでも共有できれば、今日みんなで集まったかいがあると思いますので、今後の参考にしていただきたいと思います。今日はありがとうございました。

(おわり)

2021年11月29日開催

「日本型雇用の課題とこれからの雇用社会~昭和的働き方から脱却せよ~」

より抜粋編集の上掲載。

【登壇者】

■倉重 公太朗(KKM法律事務所)

■白石 紘一(東京八丁堀法律事務所)

■濱口 桂一郎(独立行政法人労働政策研究・研修機構)

■芦原 一郎(弁護士法人キャストグローバル)

弁護士(KKM法律事務所代表)

慶應義塾大学経済学部卒業後司法試験合格、オリック東京法律事務所、安西法律事務所を経てKKM法律事務所 第一東京弁護士会労働法制委員会外国法部会副部会長、日本人材マネジメント協会(JSHRM)理事 経営者側労働法を得意とし、週刊東洋経済「法務部員が選ぶ弁護士ランキング」 人事労務部門第1位 労働審判等労働紛争案件対応、団体交渉、労災対応を得意分野とし、働き方改革のコンサルティング、役員・管理職研修、人事担当者向けセミナー等を多数開催。代表著作は「企業労働法実務入門」シリーズ(日本リーダーズ協会)。 YouTubeも配信中:https://www.youtube.com/@KKMLawOffice

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