バブルの語源となった南海バブルの崩壊とは
スコットランド人のジョン・ローは、フランス王立銀行の設立に寄与し、1717年にフランス領ルイジアナミシシッピー金鉱開発を目的としたミシシッピ会社を設立した。その後、フランスの東インド会社や中国会社を併合し、造幣局そして中央銀行の王立銀行までも傘下に収めた。
新会社はルイ14世による総額15億ルーブルに及ぶ政府債務をすべて肩代わりした。新株発行の払込については国債を額面の2割で引き取ると発表し、払込については4回の分割払いとし最初の1回だけ現金、残りの3回は手形でよいとした。これらのプロジェクトは「ミシシッピ計画」と呼ばれた。
国債そのものや手形で新株が購入され、1720年に政府の全負債はこの会社に移り、フランス国債の保有者はこの会社の株主となった。政府は多額の債務返済を一時的に免れ、債務免除されたような状況になった。
さらに王立銀行の株式払込手形を貨幣として機能させ、金貨が紙幣へと置き換えられた。ミシシッピ会社の株が値上がりすると紙幣が増発され、これにより資産バブルが発生、未曾有の投機ブームが起こった。当初500ルーブル以下であった株価は1719年後半には2万ルーブルを上回るまでに上昇したのである。
ところが1720年に入り投資家が売却益を得ようと売りが殺到し、株価は急落した。さらに払込手形という紙幣を金に替えようと王立銀行に人が殺到した結果、ローは払込手形の金との互換性を失効させる宣言をし、ミシシッピ計画は破綻したのである(ミシシッピ計画)
投機資金がイギリスからパリに流れるようになり、それを危惧したイギリス政府はジョン・ローの制度を利用し「南海会社」を設立した。
1711年にイギリスで南アメリカのスペイン植民地との貿易の独占権を与えられた南海会社が設立された。ただし貿易では収益が上げられず、富くじ(宝くじ)の成功により金融機関として成功を収め、1719年に総額170万ポンドの年金型国債を引き受け、それを自社株式に転換したのである。
国債の保有者には当初の転換比率より有利な条件で株式の転換を提案し、また南海会社の株価が高いほど国債との交換に必要な株数が減り、会社と政府に分配される利益が多くなる仕組みを取り入れた結果、関係者すべてが南海会社の株価上昇で利益が享受できる仕組みとなっていた。
南海会社の株の売り出しは年4回にわたり実施され、ジョン・ローがミシシッピ会社の株式発行の際に使った方法を取り入れ、当初の払込は総額の2割に抑え、自社株を担保に株主に融資するなどしたことで、その都度株価は大きく上昇していった。
これをきっかけに投資ブームが起こり、毎日のように新興企業が設立され(泡沫会社)、投機熱は社会階層の壁を超えて強まり、株価は大きく上昇した。1720年の夏に、類似企業との過当競争を回避しようと、会社の設立には議会の許可を義務付ける法律が制定された。この法律の制定などが結果として株式市場の加熱を冷ますこととなり、一気に地合が悪化し南海会社の株価は急落、経営陣までもが株を手放した。売りが売りを呼び、バブルは崩壊していったのである。当時王立造幣局長官を務めていたアイザック・ニュートンはこの暴落で結果として巨額の損害を被った。
1721年、イギリスはバブル防止法(泡沫会社禁止法、Bubble Act)を制定、企業に新たに株式公開することを禁止し、それは100年の間続くこととなった。