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【アジア枠】韓国で人生とバスケ修行をした中村太地の2年間。「かけがえのない経験を生かすのはこれから」

小永吉陽子Basketball Writer
190センチ/PG/今年25歳(写真/パク・サンヒョク、提供/WILL)

 アジア枠選手として、韓国プロバスケットボールリーグ「KBL」(Korean Basketball League)の原州DBプロミでの2シーズンを終えて帰国した中村太地。1年目(20-21)の個人平均スタッツは、37試合出場、15分49秒、4.6得点、1.9アシスト、1.9リバウンドを記録。しかし2年目(21-22)はポジションと役割に変化があり、25試合出場、10分36秒、2.7得点、1.1アシスト、1.2リバウンドと苦戦をしいられた。

 海一つ隔てた隣国でありながら、韓国と日本ではバスケットボールスタイルが異なる。環境と文化の違いに適応しながらプレータイムを勝ち取る競争の中で、修行のような毎日を送った。それでも「若いうちにたくさん経験を積みたい」とみずから飛び込んだ道に後悔はない。

「ここまでバスケに対して向き合ったのは生まれて初めてというくらい、毎日考えさせられることばかりでした。その時間は絶対に無駄ではないし、韓国でやってきたことを生かします」と語る中村太地に、韓国での学びと、目指すガード像について聞いた。

※KBLはレギュラーシーズン54試合、プレーオフは最大17試合/各チーム

■KBL1年目の振り返り記事(KBLはどんなリーグか、KBLの練習量、韓国のバスケスタイル等)

「KBLで奮闘中の中村太地。想像を超える韓国1年目のリアル」

1年目はゲームメイク、2年目は得点を求められた(写真/KBL)
1年目はゲームメイク、2年目は得点を求められた(写真/KBL)

厳しいチーム内競争。「ここまで試合に出られないとは思ってなかった」

――KBL2年目のシーズンは、なかなかプレータイムをもらえず苦しいシーズンになりました。振り返るとどんなシーズンでしたか?

一言では言い表せないのですが、とても大変なシーズンでした。リーグ前半はプレータイムをもらえていたのですが、12月に右の中指をケガしてしまい、これが予想以上に長引いたのもあって1か月くらいプレーできなかったし、シーズンを通してはなかなかプレータイムがもらえませんでした。

2年目はメンバーが変わる中で自分の役割を変更させなければならなかったので、アジャストするのが難しかったというのがあります。1年目はプレーメーカー的な役割をしていたのですが、2年目は自分で決めに行くシューティングガードの役割が求められました。その中で自分のスタイルを確立しなければならず、迷いが生じてしまいました。

――ポジションと役割が変わったのには理由があるのですか?

メンバー構成が変わったことが理由にあると思います。1年目はドゥ・ギョンミン、キム・テスルという代表経験のあるポイントガードのあとに出て行くことで、その2人が作る流れを見習ってやっていけば、ある程度はチームの流れの中で出来たことはありました。2年目はこの2人が引退と移籍をしたことで、違うポイントガードが入りました。パク・チャニという、これまた代表経験があるベテランのポイントガードが来たのですが、そこで、ポイントガードとの連携に自分をあてはめられませんでした。でも、それだけが理由じゃなく、実力不足だったと思います。

――チームの最終順位は8位。ずっとプレーオフ圏内(10チーム中6位)にいましたが、終盤に僅差の試合を立て続けに落としてしまいました。プレーオフ進出を逃してしまった原因をどう分析していますか?

チームの共通認識の部分が足りなかったと思います。外国籍選手の怪我もあったし、外国籍選手は2シーズン連続でフィットしなかった感じがします(※KBLの外国籍選手のルールは2人保有のオンザコート1)。でも一番の理由は、やはりチームの共通認識が足りなかったので、勝てるゲームを何試合も落としてしまいました。

――KBLはシーズン途中に兵役から帰ってくる選手もいれば、ドラフトで新人選手も加わり、20人近い選手が所属。そんな中で12人のエントリー枠を勝ち取るのはものすごい競争だったのでは。

チーム内競争が激しくて、1つの枠を争うだけでも大変でした。オフシーズンから練習でずっと競争をしてきましたが、そこで枠を勝ち取るまでいかなかったのは実力不足です。正直なことを言うと、韓国に行くまではここまで試合に出られないとは思っていなかったのですが、やっぱり、アジア枠があるといっても韓国選手を優先するところはあるので、そこを受け入れる難しさはありました。これは日本では感じられない競争でした。

――言葉や文化の違い、環境の面については2年間で慣れましたか?

言葉の理解度はかなり高まりました。ミーティングでは、言われていることの全部はわかりませんが、ニュアンス的にはわかるようになりました。単語はわからないことが多いので、そこは通訳さんに聞きますが、バスケ用語はだいたい理解できます。細かい話は無理ですけど、ある程度の会話はできるので、チームメイトとご飯に行く回数も増えました。

シュート力向上を目指した2年間(写真/KBL)
シュート力向上を目指した2年間(写真/KBL)

アップテンポの中で判断の連続。成長したのはシュート力

――「韓国はピック&ロールの使い方や2対2の攻め方がうまいので、その駆け引きを学びたい」と言っていましたが、2年間で学べた手応えはありましたか?

理解度は深まりましたね。韓国のバスケってアップテンポの中で判断の連続なんですよ。緊急事態になったときに自分で判断して動くことが多い。勘というか、予測で動くことばかりなので、予測する習慣はついてきたように思います。

――KBLのポイントガードは180センチ超えが多いですし、ウイングの国内選手は195センチから2メートルクラスの機動力ある選手が各チームにいます。サイズのある選手とフィジカル面での争いはどうでしたか?

2年目はポストアップで体を押し込まれるという場面はなくなりました。1年目が終わったオフシーズンにトレーニングで体重を5キロ増やしたので、フィジカル面ではある程度は戦えたと思います。でもだからといって、日本にはないサイズ感なので苦労もありました。まず、日本と一番に差を感じるのは国内選手がリバウンドを取りに行くことです。みんなデカイし、跳ぶし、自分から体を当てにいく。その気持ちの強さは見習いたいところです。

これは韓国に2年いて気づいたことなんですけど、韓国選手って動きが激しいじゃないですか。それって「味方やチームを助けよう」という思いで足や体が反応して、その一歩が出るからだと思うんです。KBLは外国籍選手がオンザコート1なので、国内選手で解決しなければならないことばかりなんです。人任せにできない中で、何とかしようと判断して動く状況は日本よりはるかにあります。その動きの量が激しいのだと感じました。

――実際に体験したからこそ言える考察ですね。では、成長した点について聞きます。2年目はシュートを躊躇なく打つシーンが増えたと感じました。シュートリリースも速くなりました。ドリブルからのプルアップシュートも日本ではあまり見たことがなかったけれど、韓国では打っていました。これは、意識して取り組んだのでしょうか?

そうなんです。僕の中ではシュートは変われたんじゃないかという思いがあります。1年目は今まで日本でやってきたプレーを出すような感じだったんですが、2年目は、「自分がこれからどうしていくのか」を考えながらやりました。今までの自分から脱却したいというか、もっと攻撃的にならなければいけないという思いから、シュートを迷わないで打つことを心掛けました。ドリブルからのプルアップシュートを打つようになったのもその一つです。

――韓国のいい面だけでなく、逆に「ここは改善したほうがいい」と感じたことはありますか?

食事の面ですね。食べ方についてはあまり深く考えていないような気がしました。あっ、DBのクラブハウスの食事はKBLの中でも一番美味しくてバランスがいいと評判なので、そこは書いてください(笑)。まだまだなのは、クラブハウスで食べる食事以外です。

というのも、試合の前後にファーストフードが出てくるのが当たり前なんです。脂っこいものをたくさん食べるのはどうかと思いますね。それに、韓国の人はせっかちだからか、食べるのが早くてあっという間に食べ終わってしまうんです。僕はもう少しゆっくり食べたいので、そこは慣れなかったですね。あと、夜食文化が根付いているので、個人練習をしたあとにみんなラーメンやチキンを平気でペロッと食べるんですよ。しかも夜遅い時間に。韓国ドラマでラーメンとかチキンとかよく食べていますが、その通りでした(笑)

いつでも何も気にせずに食べてもOKという体はすごいのかもしれません。ただ、韓国の選手はケガがとても多いので、それは食事の見直しが必要なのでは、とも感じました。過密日程とか、プレーのハードさも理由にあるとは思いますが……。それでも食べないと体重が落ちてしまうので、僕自身は体のことを気遣って食べたり、休みの日に日本食のお店を開拓して食べに行ってました。それが楽しみでしたね。

原州DBでは韓国代表のキム・ジョンギュ、ホ・ウンらとともにプレー(写真提供/中村太地)
原州DBでは韓国代表のキム・ジョンギュ、ホ・ウンらとともにプレー(写真提供/中村太地)

悔しさと孤独の中で考え続けた「自分が生き残る道」

――2年目はプレータイムが減ったことで葛藤もあったと思いますが、そうした試練の中でどのようなメンタルを持ち続けていたのでしょうか。

そうですね………(言葉に詰まって、しばし考えて)気持ちを整理できる部分とできない部分がありました。もっとできたことはたくさんあったと思うし、自分の中の精一杯を出そうとしたけれど、うまくいかなくて悔しい思いをしたことのほうが断然多かったです。でも僕のバスケットボールキャリアはここで終わるわけではないので、「今やっていることは必ず先に出てくる」と言い聞かせる毎日でした。

――そんな苦戦した状況の中でも、韓国で学べたことは何ですか?

プレーの面ではミッドレンジでの攻め方やシュートをすごく練習しました。ペイントエリアと3ポイントが大事なのはわかっているのですが、韓国ではミッドレンジの攻め方も、守り方も重要視されています。今までは、自分のやれるプレーだけをして試合に臨んでいたような気がしますが、今までやっていなかったプレーが徐々にできつつあるので、そこにチャレンジできたことは大きかったです。

――プレー以外で学んだことは?

気持ちの面で学んだことが一番大きいです。韓国に来てからは、とにかく生き残るためにどうすればいいのかを考えていたので、バスケットとの向き合い方がすごく変わりました。とくに1年目は、監督からバスケット以外のことで叱られることがとても多かったです。バスケットに対して誠実に向き合うことがどれほど大切か、人間性を高めることが一番重要だということを学びました。

監督から言われたことで忘れられないのは、「試合に負けたら夜も眠れなくなるくらいにならなければいけない」「プロとして試合に負けることは悔しくて恥ずかしいことだから、それくらいの気持ちで打ち込め」という言葉です。そういう気持ちでバスケットに向き合うことが大事だという、メンタル面での準備の大切さを学びました。

――こんなに大変な経験をしても、海を渡って良かったと思いますか?

絶対に良かったと言えます。

――韓国で学んだことで、今後のキャリアに生かしたいことは。

もう全部です、全部。この2年間は本当に簡単な挑戦ではなかったし、考えて、考えて、考えて……悩み抜いた先に何があるのかはわからないですけど、それくらい自分を見つめ直して考えることの繰り返しでした。海外挑戦をしている人はみんな感じることなのかもしれないけど、すごく孤独でした。一言では言えないくらいの勉強ができたので、KBLで学んだことは一生忘れないし、これからに生かしていきたいです。

イ・サンボム監督からはバスケのみならず人生訓も学んだ(写真/パク・サンヒョク、提供/WILL)
イ・サンボム監督からはバスケのみならず人生訓も学んだ(写真/パク・サンヒョク、提供/WILL)

経験は生かしてこそ。「競技運営」のできるガードを目指す

――新シーズンはBリーグに復帰し、シーホース三河でプレーします。三河を選んだ理由は?

鈴木(貴美一)ヘッドコーチと面談をしたときに「強いチームを作りたいから来てほしい」と言っていただき、チームのメンバーも若い選手が多くて勢いがあり、ノビノビとやっているのを見ていいなと思いました。(特別指定として大学1年次に)プロとして初めて経験させてもらったチームなので、何か不思議な縁を感じたのもあって三河に決めました。

――三河には福岡大学附属大濠高校の一つ後輩、西田優大選手がいます。高校以来のチームメイトとなりますが、一緒にプレーできるのは楽しみですか?

楽しみですね。大濠で2年間、大学でも代表チームで一緒にやっているので、お互いに成長しているところがあるので楽しみです。優大はもうチームの顔になっているので、持ちつ持たれつの間柄でやっていきたいですね。お互いのことわかっているので、相乗効果が出せると思います。

――韓国での学びを生かして、どのようなガードになりたいですか?

言葉がうまくまとまらないですけど………韓国バスケでは「競技運営」っていう言葉があるんですけど、競技運営ができるガードになりたいです。

最近のバスケは1番(PG)とか2番(SG)というこだわりはなくて、ポジションレスなところがありますよね。そんな中でも、やっぱり強いチームには絶対的なガードがいるのが最近の傾向だと思うんです。競技運営というのは戦術どうこうではなくて、バスケットボール選手としての判断と読みを、いかに自分の色として出せるか。コートの中で感じたことを自分のプレーとして選択して、勝利につなげるのが競技運営ができる選手なので、そういうガードになりたいです。

――尊敬するDBのイ・サンボム監督のもと、試練と向き合いながらも、ゲームメイクとシュートを求められるガードとして学んだからこそ、目指すガード像ですね。

そうです。本当にそうです。これは監督によく言われるのですが、「太地が日本で活躍しなかったら、俺が怒られるんだぞ」って。監督が誰に怒られるのかといったら、日本のバスケ界に怒られるということなんだろうと思いますけど、僕は本当にたくさんのことを韓国で学びました。監督の言う通りだなって思うくらい、日本でプレーすることにプレッシャーはあります。「日本で頑張ります」と言うだけじゃダメで、韓国でどれだけ成長できたのかがこれから試されるので、韓国で学んだことを日本のコートで発揮します。

※※※

インタビュー中、何度も何度も悔しさを募らせながらも、最後には笑顔で前を向いた中村太地。韓国の地で「自分がどういう選手になりたいのか」と考え抜きながら競い合った経験は決して無駄にはならない。韓国でもっとも学んだことは、選手としての考え方や技術力を含めたガードとしての「競技運営」。今年25歳を迎える。競技運営力のあるガードを目指し、KBLでの経験を生かすのはこれからだ。

専属通訳を務めたキム・ヒジュンさんとDBのホームコートにて(写真/パク・サンヒョク、提供/WILL)
専属通訳を務めたキム・ヒジュンさんとDBのホームコートにて(写真/パク・サンヒョク、提供/WILL)

Basketball Writer

「月刊バスケットボール」「HOOP」のバスケ専門誌編集部を経てフリーのスポーツライターに。ここではバスケの現場で起きていることやバスケに携わる人々を丁寧に綴る場とし、興味を持っているアジアバスケのレポートも発表したい。国内では旧姓で活動、FIBA国際大会ではパスポート名「YOKO TAKEDA」で活動。

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