KBL日本人選手第1号 中村太地<前編>直談判の行動力で韓国進出を決めた舞台裏
6月16日、今年度から導入されたアジア枠を活用し、韓国バスケットボールリーグ(以下KBL)の原州DBプロミ(以下DB)への入団を発表した中村太地。契約は1年、年俸は5000万ウォン(約500万円)。KBLでの登録名は「タイチ」として申請中だ。
今年の夏で23歳になる中村太地は、法政大学1年次から3年連続でBリーグの特別指定としてプレーしてきたチャレンジスピリットあふれる選手。大学4年次はバスケ部を退部し(大学は卒業)、プロ契約した京都ハンナリーズで主力の一人としてプレー経験を積んだ190センチのポイントガードだ。
男子バスケットボールにおいて日本と韓国の関係は、圧倒的に負け越してきた歴史があり、常に目の前に立ちはだかる学ぶべき相手。そのライバル国に飛び込んだ背景には、中村が福岡大学附属大濠高校(以下大濠)時代に指導を受け、師と仰ぐイ・サンボム監督(51歳)の存在があった。そう。中村が入団するDBの監督である。
中村太地を韓国進出へと突き動かした原動力と、KBL日本人選手第1号として契約に至った舞台裏をインタビューした。前編はDBと契約するまでの背景をリアルに紹介する。
韓国バスケの奥深さに衝撃を受けた高校時代
――6月16日、DBとの契約が発表されました。入団が決定した今の気持ちは?
韓国行きが実現して本当にうれしいです。高校2年のウインターカップが終わってからの1年間、アドバイザーという形でイーさん(※)に大濠で指導してもらい、自分の可能性が広がりました。その監督のもとでプロとしてプレーできることは高3からの夢だったので、夢が現実してうれしいです。
※DBのイ・サンボム監督のことを、大濠の選手は「イーさん」、またはフルネームでは呼びやすい発音から「イーサンボン」さんと呼ぶ。韓国では名前をフルネームで呼ぶ文化があることと、ヘッドコーチの役職は「監督」と呼ばれているため、「イ・サンボム監督」と表記する。
――イ・サンボム監督から影響を受けたのはどんなところですか?
一番はピック&ロールですね。一つのスクリーンで起こるパターンと韓国のボールムーブをみっちり教えてもらいました。その頃の日本ではまだピック&ロールが主流ではなく、韓国ではこんなに緻密なことをやっているのかと驚きました。あまりにも衝撃的でバスケの深さを知りました。
それまで大濠のスタイルは自由なフリーランスの中で1対1をするのがメインだったんですけど、イーさんに教わってからはシステマチックにボールを回して、チャンスを作ることもしました。高校でああいう風にシステマチックにやっていたのは、当時は大濠だけだったと思います。ただ、その頃は頭で考えすぎてしまって、小手先でやろうとしてあまりうまくいかなかったんですけど……。でも、今は伸びている選手が多いので、必要な技術だったのだと身に染みて思います。大学生でプロになっても通用することができたのも、この時の教えがあったからだし、感謝しかないですね。
――中村選手の大濠時代の同期には牧隼利(琉球ゴールデンキングス)、増田啓介選手(川崎ブレイブサンダース)がいて、3年次は大型チームで中村選手はポイントガード(以下PG)に挑戦し始めました。当時、PGへのコンバートを強く勧めたのがイ・サンボム監督だと聞きました。
高3のときは大濠自体が大きなチームだったので、ガードも大きくしようという片峯(聡太)先生の考えはあったのですが、「太地はサイズを生かしたPGになったほうがいい」というイーさんのひと押しがあったから、より本格的にメインでPGをやることになったのだと思います。それまでもボールを運んだり、コントロールすることは好きだったのですが、PGとしてピック&ロールを仕掛けることや、ゲームの組み立てを学んだのはこの時がはじめてで、高3のときは僕の大きな転換期でした。
――イ・サンボム監督は中村選手の師匠のような存在なんですね。
大師匠です。イーさんと片峯先生の影響はすごく大きいです。その2人のおかげでバスケの考え方が変わりました。イーさんと片峯先生に教えてもらったものが僕の土台にあります。
――片峯コーチからはどんな影響を受けましたか?
やっぱり人間性の部分です。コートでの取り組み方もそうだし、コート外の視点でもそうだし、「バスケだけできればいいわけじゃない」というのを教わりました。高校時代はどうしようもないことで叱られましたが、一人の人間として生き方を考えるようになり、成長できました。
「イーさん、韓国でバスケがしたいです!」
――DBとの契約に至った経緯を教えてください。
イーさんにバスケを教わりたいとずっと思ってたし、去年3x3の試合で韓国に行ったとき、一週間ほど原州(ウォンジュ)にあるDBのクラブハウスに寝泊まりしてDBの練習に参加していたので「ここでバスケがやれたらいいな」とは思っていました。でもBリーグには昨シーズン中にアジア枠ができても、韓国にはアジア枠がなかったから現実的じゃないというか、頭の片隅でただ漠然と思っているだけでした。
それで、KBLにも今シーズンからアジア枠ができるという情報が入ってきたのが5月上旬でした。急なタイミングでしたけど、ちょうど京都との契約が満了になるので、「やっぱり韓国に行くしかない」と思って考え始めました。それで、イーさんに自分から連絡してみました。
――直談判したのですか!?
しました(笑)。「イーさん、韓国でバスケがしたいです。DBでイーさんにバスケ教わりたいです」って(笑)。自分でも連絡しましたし、韓国に詳しいエージェントを通しても今の状況とか、自分の意志を伝えてもらいました。
――でも5月上旬は、KBLのアジア枠はまだ承認されていない時期でしたよね。
KBLにアジア枠が正式にできるかどうかもわからないけど、韓国からは承認間近という話も聞こえてきたし、アジア枠が今年できると信じて、ダメ元でイーさんに連絡してみました。
――「DBでプレーしたい」と直談判したときのイ・サンボム監督の反応は?
「本気か!? 韓国はまだアジア枠が承認されてないぞ」って(笑)。でも僕の話をきちんと聞いてくれて、前向きに考えてくれました。ただ、正式にアジア枠が承認されて入団できたとしても、KBLにはサラリーキャップ(※)があり、すでに今年の選手契約も進んでいるから、年俸は5000万ウォン(約500万円)しか出せないと言われました。
「5000万ウォンでも韓国で経験するか、もっと条件のいいところでプレーするか。経験と条件のどちらを取るか?」とストレートに聞かれたので、「経験を取ります!」と即答しました。そうしたら、「太地の気持ちはわかった。フロントと話し合って決めるから、返事は数日待ってくれ」と言われました。
※KBLの国内選手のサラリーキャップ(チーム)は25億ウォン(約2億5千万円)。アジア枠の選手は国内選手のサラリーキャップに含まれる。
――そして5月27日に晴れてKBLのアジア枠が承認されたわけですが、返事を待つ間の気持ちは?
すでに京都とは再契約せずフリーになっていたので、ダメだったらどうしようという不安はありました。でも、ここで自分の価値を試してみようと思いました。評価されればKBLでプレーできるだろうし、ダメだったらまた日本でプレーすることは視野にあったので、チームを探せばいいと思いました。ただ、コロナの影響があるので、Bリーグではどれくらいのオファーがもらえるかわからなかったので、「これでよかったんだろうか?」と結構悩みましたね。
――実際にDBと契約できると告げられた時の気持ちは?
もう発狂しましたね。「よっしゃー!」って(笑)
誰もやったことのないことに挑戦するのが好き
――条件と経験で『経験』を取ったわけですが、サラリーのことは問題視していなかったのですか?
まったく気になりません。イーさんに何度も「日本の半分もないサラリーでいいのか?」と聞かれたのですが、自分には条件よりも経験できる環境で成長することが必要だったので、サラリーは関係ありませんでした。ちょうど大学を卒業して社会人1年目のシーズンなので、ルーキーだと考えればいいし、日本を出るのは若いうちがいいと思いました。
――中村選手は法政大学1年次から毎年Bリーグの特別指定制度を活用し、4年次は大学のバスケ部を退部して京都と契約。こうしたチャレンジは計画的に進めてきたのですか?
誰もやったことのないことに挑戦するのが好きですね。法政に入った1年目は関東リーグの3部に降格していたこともあり、特別指定制度を活用して上のレベルに行きたいという思いがありました。特別指定として選ばれるには、イーさんから学んだことができていたから、目にかけてもらえたのだと思います。
ちょうど、僕が大学に入った年にBリーグが開幕して、特別指定制度ができたんですよ。B1の特別指定の最年少記録が19歳の僕でした。今回のアジア枠もそうですけど、タイミングがすごく良くて、本当に運がいいなと思います。今ではその記録は河村君(※)にあっさり抜かれましたけど(笑)
※河村勇輝(東海大1年)=福岡第一高3年次に特別指定制度を活用して三遠ネオフェニックスでプレー。
<インタビュー後編>Bリーグの4シーズンで得たもの、韓国での生活環境とDBのチーム特色、KBLで学びたいことについてインタビュー。