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ロストフでのベルギー戦。取材現場の記憶

小宮良之スポーツライター・小説家
日本が激闘を演じたベルギー戦(写真:ムツ・カワモリ/アフロ)

 現場で取材者が陶然となる瞬間、それは「紙一重」だと思うことがある。その場に身を置けているのは、実は奇跡に近い。自ら現場を選び、取材申請が通っている必要があり、それには十分な実績や人脈が必要で、病気もケガもなく、時間とお金をかけ、その場に足を運ばないといけない。そして本物の勝負に立ち会えるのは、長年、取材を続けても数えるほどしかないのだ。

 20年以上、スポーツの現場に立った筆者がベストゲームを選ぶとするなら――。ロシアワールドカップのラウンド16、日本対ベルギー戦を選ぶ。フットボールの醍醐味が詰まっていて、人生の縮図のようでもあった。日本人として、誇らしさも感じた。

https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/jfootball/2020/06/08/___split_14/

 しかし当時を振り返ると、やはり「紙一重」だったと感じるのだ。

ソチでのポルトガル対ウルグアイ
ソチでのポルトガル対ウルグアイ

ロストフへの旅

 2018年7月1日、ソチにいた筆者は、前夜にポルトガル対ウルグアイの試合取材を終えていた。ソチからロストフへの寝台特急のチケットをすでに購入。当日は万全を期し、数時間前には駅に着いていた。海岸線では海水浴にいそしむ人々を眺め、雄大な黒海を目の前に、決戦の行方を思った。

海水浴でにぎわうビーチ
海水浴でにぎわうビーチ

 夏の匂いがした。同行のフォトグラファーは雑感撮影にいそしんでいた。余裕綽々である。

 まだ30分以上前だったが、なんでも行列になるのがロシアなので、早めに駅内に入ることにした。荷物検査でチケットを見せた時、怪訝な顔をする係員の表情が気になった。しかしチケットを確認するのは車掌で、列車に入る前だ。

 荷物検査を通過し、すでに待っていた列車に入ろうとした時だった。

「ノー」

 恰幅の良い、フィギュアスケートの有名な女性コーチに似た雰囲気の女性車掌は、冷淡に言った。チケットと身分証明書を突き返された。何が何だかわからない。

 当然、我々は抗議した。ソチからロストフへの、この時間の列車で、間違いはなかった。

「アドレル」

 しかし彼女は冷徹に言い放った。繰り返し言い、チケットと駅の看板を交互に指さした。なるほど、そこはソチ郊外の駅だが、ソチではなかった。海沿いの町、アドレル駅だったのである。アドレルは、ソチ空港よりソチに近い。ソチのオリンピックスタジアム(ワールドカップ試合会場、フィシュトスタジアム)もある。ソチ以上にソチと言える町だ。

 しかし、駅はアドレルだった。間違えやすい事情は知っていたが、宿の主人が「車で駅まで送ってやる」という言葉を、二人して無条件に信じてしまった。確認が足りなかったのである。いや、ベルギー戦を前に浮ついていたのか。

ベルギー戦に間に合うのか

 とにかく、交渉である。アドレルから一つ先の駅がソチだ。日本なら、難しいことではない。しかしロシアだ。

「窓口はクローズ」

 車掌はにべもなく言った。フォトグラファーはパソコンを開いたが、ネットも受付が終わっていた。

「この場でソチまでだけお金払うからさ、お願いだから乗せてよ」

 懇願する。

「満席だ」

「いや、どうせ次の駅だし。一駅は立ったままでいるから」

「規則でできない」

「お願い!」

「ノー」

 無駄だった。女性車掌の牙城は少しも揺るがない。北方領土以上の頑固さだ。これは袖の下か、なんて怪しい手段も考えていると、警察が駆け足で二人三人とやってくる。

「とにかく出て行け」

 是非もなしだ。ロシアは会う人会う人、親切で優しかったが、ルールに対しては少しも融通が利かない。

 日本人二人は、すごすごと駅から退散した。寝台列車で、一室借り切っている部屋を横目に撤退する口惜しさと言ったらなかった。

タクシー激走

「やばい、やばい」

 フォトグラファーと連発し、善後策を考える。乗り逃した場合、次は翌日の列車で、ベルギー戦には間に合わない。時間が勝負だ。

「タクシーで30分だから、飛ばせば間に合う」

 ここに至っては、駅を出る時に話しかけてきた見知らぬロシア人青年の言葉に賭けることにした。列車がアドレルを出るのが10分後で、さらに到着まで30分はかかる。何一つ保証はないが、迷っている余裕はなかった。

「急いでくれ」

 タクシー運転手にプレッシャーを与え、乗り込んだ。アクセル全開で、高速では車体が揺れるほど。これは相当スピード出てる、とメーターを見たら、80キロだった。おんぼろなので100キロ以上出ない、と言う。神でも、仏でもいいから、祈りたくなる。パワーウィンドウではない、手動のドアが閉まり切らないまま、ガタガタ揺れていた。

 どうにか出発時刻8分前に駅を着いて、「釣りは要らねぇ」と現金を渡し、スーツケースを出し、全速力で引きずって運び、検査を受ける。そこから構内を爆走し、プラットホームに着いたら、ちょうど列車が来た。20キロ以上あるスーツケースで階段を駆け上がるのは、体に良くない。

再会

海沿いの風景
海沿いの風景

「また、会ったわね」

 優雅な表情のタラソワ、もとい、ロシア人女性車掌が迎えてくれた。

 舌打ちしそうになりながら、あえて笑顔を向ける。仕事を真面目にしただけなのだろう。20時間以上、車内では一緒。ラブアンドピースである。念願の車内に入った。約1時間前、離れ離れになった部屋にやって来た嬉しさと言ったらない。

念願の寝台室
念願の寝台室

 猛ダッシュをして汗が引かず、喉が渇いていた。車内の売店で、冷たいジュースはないか、と聞いたが、なかった。そんなことでへそを曲げたりはしない。現場に行けるだけで、他には何にもいらないのだ。

「旅で失敗して大変な時のことって、後になっても覚えていますよね」

 フォトグラファーとそんな話をしたのを覚えている。紙一重を切り抜けた高揚感は、何にも勝る。そんなことを思い、夜はビールで乾杯した。

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 2018年7月2日、ロストフ。筆者はフォトグラファーと一緒に、夜行列車で朝7時に駅へ到着している。

ロストフ駅
ロストフ駅

「よく着いたな」

 そんな感慨を抱いて、笑いあった。駅のホームは、日本対ベルギー戦の観戦に訪れたと思しき観光客で沸き返っていた。朝の静けさと乾いた冷たい空気に、熱気が満ちつつあった――。

記者席にて
記者席にて

 その夜、人生のベストゲームに、どうにかありついた。

 あれから2年、やはりアドレルからの大移動を一番良く覚えている。おかげでベルギー戦の感慨もひとしおで、お互いが紐づいている。取材は紙一重で、だからこそ、楽しい。

 コロナ禍で現場に行けない中で、なおさら思う。そもそも、現場がなかったら、取材は成立しない。そこには、物語が生まれないのだ。

画像

(本文内の写真は、すべて筆者撮影)

スポーツライター・小説家

1972年、横浜生まれ。大学卒業後にスペインのバルセロナに渡り、スポーツライターに。語学力を駆使して五輪、W杯を現地取材後、06年に帰国。競技者と心を通わすインタビューに定評がある。著書は20冊以上で『導かれし者』(角川文庫)『アンチ・ドロップアウト』(集英社)。『ラストシュート 絆を忘れない』(角川文庫)で小説家デビューし、2020年12月には『氷上のフェニックス』(角川文庫)を刊行。他にTBS『情熱大陸』テレビ東京『フットブレイン』TOKYO FM『Athelete Beat』『クロノス』NHK『スポーツ大陸』『サンデースポーツ』で特集企画、出演。「JFA100周年感謝表彰」を受賞。

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