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世界サッカー史上、最も善良で美しかったMF。イニエスタも愛したプレー

小宮良之スポーツライター・小説家
ゴール後、笑顔を見せるファン・カルロス・バレロン(写真:ロイター/アフロ)

「善人は、プロサッカー界で成功しない」

 それは一つの定説として存在する。

 サッカーは、その基本が「だまし合い」のスポーツである。いかにずる賢く戦えるか。相手が傷を負い、血を流したら、そこに塩を塗り込む狂気がなければいけない。言うまでもないが、それは比喩である。相手が臆した時、そこに付け込む容赦のなさや、ライバルが不振に陥った時、それを潮目に自分が成り上がる。その競争心や野心を示している。

 人の良さは、出し抜かれる要素なのだ。

 しかし善良な性格で、世界一美しいサッカーを見せた男がいた。

―あなたはなぜ、いつも笑顔でいられるのですか?

 単刀直入に聞いた。

「僕はピッチで楽しみたいだけさ」

 元スペイン代表MFファン・カルロス・バレロンは、そう言って笑顔を振りまいた――。

試合に負けても悔しくない

 スペイン本土から1000キロ以上も離れ、むしろモロッコに近いカナリア諸島、ラス・パルマス島のアルギネギンという小さな町で、バレロンは1975年に生を受けている。

「あの子は、ボール遊びだけは熱心だったわ」

 バレロンの母が、良く似た風貌で答えてくれた。

「庭でボールを蹴って、すぐに植木をダメにしちゃうから、よく叱ったものです。他は悪いことしないのに、ボール遊びだけは直りませんでした。兄たちもサッカーをしていたから、それに混ざってね。でも試合に出るようになって、負けて帰ってきても平然としているから、『悔しくないの?』って聞いたんです。そしたら、『神様に誓って悪いことはしていないから平気』ってニコニコしていました」

 勝負よりも、楽しむことに価値を見出したのか。敬虔なカトリック一家だった。神に祈る。穏やかな日々を好んだ。

 しかしながら、その子供時代は順風満帆ではない。15歳の時、父親がバイク事故で命を落とし、続けて長男もバイク事故で亡くなっている。その悲しみはバレロンを深く突き刺したが、気丈に言ったという。

「心配しないで、ママ。僕がそばにいるから」

 バレロンは、それが口癖になったという。

 しかし、悲劇はこれだけに収まらない。

相次ぐ悲劇

 バレロンのもう一人の兄も、ラス・パルマスのレギュラーで有望な選手だった。しかし、バルサの選手の危険なタックルでひざの靱帯を切って、選手生命を絶たれてしまう。バレロンはそれを目の当たりにしている。命は奪われなかったが、命に近いものを奪われる。それは、あまりに酷な仕打ちだった。運命を呪って、誰かをうらやみ、怒りや憎しみを抱き、世界に背を向けても不思議ではない。

 しかしバレロンは明るく振る舞い、笑顔を捨てなかった。

 地元のラス・パルマスでユースからトップデビューを飾ると、本土から注目を浴びる。1997-98シーズンにはマジョルカに移籍し、インスピレーションのままにドリブルする姿が、あのディエゴ・マラドーナと比較される。1998-99シーズンにはアトレティコ・マドリードに移籍し、2シーズンに渡ってプレーした。

「スペインのジダン」

 優雅なプレーで、その異名を取った。名付けたのは、当時アトレティコを率いていた名将、アリゴ・サッキだ。

 そしてハイライトが、2000-01シーズンから所属したデポルティボ・ラ・コルーニャでの戦いだろう。2001-02シーズンにスペイン国王杯決勝でレアル・マドリードを撃破し、優勝に導いた。欧州カップ戦では、アーセナル、バイエルン・ミュンヘン、マンチェスター・ユナイテッドなどトップクラブを次々に打ち破っている。2003-04シーズンには欧州チャンピオンズリーグ準々決勝で、ACミランにアウエーで4-1と敗れながら、ホームで4-0と勝利し、大逆転勝利。準決勝でジョゼ・モウリーニョが率いるFCポルトに敗れたが、ミラン戦の無双ぶりは語り草だ。

「バレロンのプレーは、チケットを買って見に行く価値がある」

 当時、バルサの若手MFだったアンドレス・イニエスタが手放しで絶賛している。

決して人を悪く言わず

 バレロンはスペイン代表のプレーメーカーとして、EURO2000,2004、さらに2002年の日韓ワールドカップにも出場している。背番号21は彼の代名詞。スーパースターの一人だが、決して謙虚さを失わなかった。

 どんな質問にも、笑顔を見せた。「いつも笑っている」。そう揶揄われる対象になっても、誰にでも愛情と敬意をもって接し、善良であり続けた。

 ライバル選手との比較も嫌っている。「誰かを悪く言うのは良くない。やめてほしいんだ」。そう必死に訴えた。

「もっと敵愾心を持ち、挑む姿勢を見せたら、世界最高の選手になるはずなのに」

 関係者はあまりの善人ぶりに身もだえしたが、本人は肩をすくめるだけだった。

 お金のやりとりに、人の良さは顕著に出る。年俸交渉は、常に一発サイン。金額を確認したことは生涯なかった。そして故郷ラス・パルマスのサッカー育成には、多額の寄付。あまつさえ、子供たちが無償でプレーできるサッカースクールを、自らの資金で開校している。

 その優しさは、脆さではない。

二度のひざ前十字靭帯ケガ

 2006年1月、バレロンは左ひざ前十字靭帯を断裂の重傷を負っている。当時、サッカー選手がひざにメスを入れることは賭けだった。夏には復帰したが、早すぎたのか。今度は半月板も痛めてしまい、治ったはずの靱帯を再び痛めてしまった。治療を施したが、経過は思わしくなく、2007年3月には再び手術を受けた。そこからは慎重に治療、リハビリを行い、2008年1月にようやくピッチに戻ってきた。

 約2年、サッカー選手にとっては牢獄で過ごしたに近い。

 しかし、バレロンは笑顔でこう言ったのだ。

「復帰した時はびっくりしちゃったよ!俺、こんな中でプレーしていたんだって。みんなボール回しも動きも速くてね。それがすごく楽しかった。ただただ、ボールを蹴りたかったから」

 バレロンは、悲劇を悲劇にしない強さを持っていたのだ。

世界中の母親がバレロンのような息子を

 バレロンはキャリアの最後、2013-14シーズンに年俸を大幅に下げ、デポルから2部のラス・パルマスに戻っている。「いつか、故郷に帰る」。その約束を守った。律義さか、責任感か。

 そして1年目で昇格プレーオフへ進んだが、手にしていた昇格をアディショナルタイムで逃してしまう。再び1シーズンを戦うのは精神的にも体力的にも辛く、引退が囁かれた。しかし2年目も投げ出さずに挑戦し、見事に昇格をもたらした。それはクラブ史に残る快挙だった。そして2015-16シーズン、クラブを1部に定着させ、40歳でスパイクを脱いだのである。

「サッカーのことは分かりません。人間として、立派になってくれました。世界中の母親が、あの子のような息子を持ちたいって思うはずだわ」

 息子に贈られた家に住む母は、にこやかに笑っていた。

 現在のバレロンは、カナリア諸島の育成全体の底上げに関わっている。はたして、彼の人間性を受け継いだ選手は生まれるのか。監督ライセンスも取得し、チームを率いるビジョンも持っているという。

「自分は導かれるようにプレーしてきた。出会いに感謝しているよ。だから少しでも、ピッチで恩を返したいと思ってきただけなんだ」

 バレロンはほほ笑む。苦しさを隠し、楽しさだけを、そこに滲ませて。優しさは、とびきりの強さだ。

スポーツライター・小説家

1972年、横浜生まれ。大学卒業後にスペインのバルセロナに渡り、スポーツライターに。語学力を駆使して五輪、W杯を現地取材後、06年に帰国。競技者と心を通わすインタビューに定評がある。著書は20冊以上で『導かれし者』(角川文庫)『アンチ・ドロップアウト』(集英社)。『ラストシュート 絆を忘れない』(角川文庫)で小説家デビューし、2020年12月には『氷上のフェニックス』(角川文庫)を刊行。他にTBS『情熱大陸』テレビ東京『フットブレイン』TOKYO FM『Athelete Beat』『クロノス』NHK『スポーツ大陸』『サンデースポーツ』で特集企画、出演。「JFA100周年感謝表彰」を受賞。

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