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英国で死刑について考える 賛成?反対?議論の糸口を探る

小林恭子ジャーナリスト
2022年の死刑執行国(アムネスティのサイトからキャプチャー)

(ウェブサイト「論座」が7月末で閉鎖されることになり、筆者の寄稿記事を補足の上、転載しています。)  

 2018年7月、オウム真理教の元教祖や幹部13人に対し、死刑が執行された。欧州連合(EU)が執行を非難する声明を出したが、日本国内では「内政干渉」として反発する意見がネット上で散見された。

 最近も、死刑制度の是非について議論が続いているようだ。

(社説)日本国憲法と死刑 今こそ意見を交わすときだ(朝日新聞5月4日付)

 108カ国が廃止した死刑をなぜ日本は続けるのか?「世界死刑廃止デー」に刑罰の本質から考える(東京新聞2022年10月10日付)

 英国での死刑制度廃止までの過程を振り返りながら、維持派と反対派の理由、今後の議論の糸口を考えてみたい。

英国での最後の死刑執行

 筆者が住む英国で最後に死刑が執行されたのは、1964年。半世紀以上にわたって死刑という選択肢を持たない国にいると、同じく先進国の1つである日本での死刑執行は衝撃以外の何物でもない。新たな死によって、一体何が達成できるのかと問いたい思いがある。

 先のオウム真理教の話では、死刑執行から間もなくして日本に住む母に電話をすると、母は「そうしないと、遺族の気持ちの収まりがつかない」という。意見を求めたわけではないのだが、すぐに思い浮かんだのが遺族のことだったのだろう。

 「遺族や犠牲者の感情に報いる」ために死刑という形での懲罰が下ることに対し筆者は違和感を持つが、改めて死刑制度の賛成・反対の両者の意見を整理し、考えてみたいと思った。

 以下では、戦争での殺害行為は対象とせず、罪を犯した者に死刑という形で極刑を与える行為を取り上げる。

死刑制度のこれまでと廃止に向けた世界的な流れ

 犯罪者に対し、死に至る極刑を下す行為は大昔から行われてきたと言ってよいだろう。

 英国・イングランド地方では、16世紀ごろまでは国家反逆罪、殺人、強盗、レイプ、放火などの「重大犯罪」を犯した者に死刑が科せられたが、1720年代以降、死刑に当たる犯罪の種類が大幅に拡大され、貨幣の偽造、横領、教会への攻撃を含む200前後の罪名を含むようになった。

 死刑研究家リチャード・クラーク氏が運営するウェブサイト「極刑UK」によると、欧州で死刑制度改革への継続した動きが始まるのは、1700年代後半だ。

 イタリアの法学者チェーゼレ・ベッカリーア、フランスの哲学者ボルテール(フランソワ=マリー・アルエ)、英国では哲学者ジェレミ・ベンサム、司法改革者サミュエル・ロミリーなどが先頭に立ち、「死刑は不必要に残酷、その犯罪抑止効果は過大評価されている、時として取り返しのつかない間違いが犯される」などを理由に死刑制度の改革を訴えた。

 死刑の代わりに、推奨したのは終身刑である。クエーカー教徒やほかの社会改革運動家、時の新聞も死刑反対の声を上げた。

 こうした動きを受けて、19世紀に死刑を停止する国が出てきた。

 例えば、ベネズエラでは1863年に憲法で完全廃止とし、ポルトガルも1867年に廃止。米国で殺人罪で有罪となった人への死刑が廃止されたのはミシガン州が最初であった(1847年)。

 英国では、1950年代に発生した冤罪事件をきっかけとして国民的議論が高まり、誤審の危険性と死刑の不可逆性が問題視されるようになった。1965年、5年間の死刑執行停止が議会で決定され、これが延長されてきた。スパイ罪、国家反逆罪、軍内部の犯罪については死刑が規定されていたが、実際に執行はされず、1998年に死刑は全面的に廃止となった。

 国際社会に目をやると、1966年、基本的人権の尊重を定めた国連の国際人権規約が採択され、89年に国連総会で死刑廃止条約が採択の運びとなった(91年に発効)。現在は、死刑廃止国が大半となっている。

 国際人権団体「アムネスティ・インターナショナル」によると、2022年末、死刑全廃の国は112カ国になり、通常犯罪にのみ死刑を廃止した国は9カ国となった。

 2022年は死刑廃止に向けた顕著な進展があった。6カ国が、全面的あるいは部分的に死刑を廃止した。世界が死刑制度から決別する方向に動いているのは、間違いない。死刑という刑罰を積極的に使う国はごくわずかで、こうした国々は世界からますます孤立している。

 欧州連合(EU)の全28加盟国の中で、死刑制度が維持されている国はない。EU基本条約には「何人も死刑に処されてはならない」という規定があり、死刑廃止はEUの加盟条件となっている。EUは世界中で死刑制度が廃止されるよう、活動を続けている。

死刑制度に賛成か、反対か

 死刑制度の賛成派、反対派がそれぞれの立場をとる理由・根拠については様々な分析があるが、ここでは大まかな理由を挙げてみる。筆者は司法専門家ではないため、簡略なまとめになることをお許し願いたい。

「死刑があるべき」とする人の根拠は:

-殺害によって他人の命を奪った人の人権は喪失している(このため、処刑を行うことは正当化される)

-懲罰は犯罪に見合ったものであるべき。殺人を犯した場合、実行者も死刑にされるべき

-犯罪の抑止効果がある(処刑された人はこれ以上の罪を犯すことができない、また、ほかの人にも死刑という極刑の存在を知らしめることで極悪な犯罪の発生を予防する)

-囚人を拘束する費用が浮く

-遺族の応報感情を満たす(刑罰は過去の犯罪行為に対する応報として犯人に苦痛を与えるものだとする考え方=「応報刑論」に基づく)

死刑反対派の根拠は:

-死刑は、生命権という人の最も基本的な人権に反する

-執行方法(薬物の注射、電気椅子での処刑、絞首刑など)が囚人に痛みを与える

-死刑によって殺害のような犯罪を予防したという調査結果はない

-冤罪の可能性がある(無実の人が処刑されてしまう)

-復讐としての処刑になり、さらに犯罪を発生させてしまう。殺害者に死刑執行をしながら、殺人が間違っていると教えることはできない

 など。

 日本で死刑制度を維持するままにするのか、あるいは廃止するのかについて活発な議論が行われるよう、筆者は望んでいる。

 「EUが非難しているから」ではなく、必ずしも「世界の潮流が死刑廃止の方向に流れているから」でもない。

 例えどのような卑劣な罪を犯していたとしても、その犯罪の実行者の命を国家による処刑という形で奪うのかどうかについては、慎重であるべきと思うからだ。

 本当に「死刑執行」というやり方でいいのかどうかを何度でも問う機会があった方がよいと筆者は思う。

 死刑制度の是非を議論する際に、いくつか留意しておきたい要素を挙げてみる。

 まず、外国人・組織だけが死刑廃止を訴えているのではない、という点だ。

 日本弁護士連合会(日弁連)が死刑廃止を訴えて来たことをご存じだろうか。2014年には「死刑廃止についてもっと議論してみましょう」というパンフレットを発行し、なぜ廃止を提唱しているのかを説明している。

 パンフレットの中で、日弁連は死刑は「かけがえのない生命を奪う非人道的な刑罰」とし、絞首刑で命を落とす死刑囚の様子をイラスト付きで伝えている。

「死刑制度の存続は世論調査で国民の圧倒的な支持を受けている」という理由で制度の存続を支持したり、「世論には逆らえない」、「仕方ない」という人もいたりするのだが、例えば英国では1960年代の半ばに死刑執行が停止したけれども、その時、世論調査で国民の大部分は死刑制度存続を支持していた。

 「世論調査がこうだから・・・」は、ある政策を維持するための決定的な理由にはならない。

遺族の感情と量刑

 死刑執行は「遺族の応報感情を満たす」ので意義があるという考え方についてだが、実際に遺族が執行を望んでいるのかどうかというと、実は複雑な面が見えてくる。

 この点を考察するには、NHKニュースがオウム事件の死刑執行についてまとめた記事が参考になる。執行事件全体をカバーしながら、被害者・遺族の方の声を入れているからだ。

▽「オウム真理教事件 死刑執行

 息子一家を失った坂本さちよさんは、(教祖の)「麻原は死刑になるべき人だとは思うけれど、他方では、死刑ということであっても人の命を奪うことは嫌だなあという気持ち」を吐露する。

 夫を亡くした高橋シズエさんは「一つの区切り」としながらも、「事件が終わったという感覚はない」と述べる。

 何人かの遺族は真相が分からないままに死刑が執行されたことの無念さを語っている。

 実際に遺族の方々にあった記者はもっといろいろな表情や思いを目にしたかもしれない。

 関連で、英語圏の2つの事例に注目したい。

 2014年、米国人記者ジェームズ・フォーリー氏は過激集団「イスラム国」(IS)のメンバーによって、斬首された。その動画がネット上に公開されたことを多くの方が覚えていることだろう。

 容疑者となった男性らに「死刑が執行されることを望まない」とフォーリー氏の母親ダイアンさんは述べている(英イブニング・スタンダード紙、2018年7月23日付)。死刑が執行されることで男性たちが「殉教者として奉られることを望まない」からだ。男性たちにとって「死刑は簡単な逃げ道になってしまう」、「終身刑となって、死ぬまで投獄されているべき」。

 また、1970年代以降、英領北アイルランドではキリスト教の異なる宗派の住民同士が互いにテロやほかの暴力行為に走り、約3000人が命を落とした。その後、遺族の中で実行犯を赦すと表明し、面会する機会を作る人々が出てきた。

 遺族が何を望むのかは一様ではない。

 また、「遺族の感情を量刑に反映されること=当然」、としていいのだろうか。むしろ、亡くなった家族は取り戻せないが、どのようにすれば「正義が行われた」と感じて次に進むことができるのかという観点から、考えてみてもよいのではないだろうか。

もっと情報公開を

 最後に、日本の死刑制度の情報公開についても一考が必要だ。

 日弁連の先の資料によると、社会の中で死刑制度について議論をするときに必要となる死刑に関する情報を「法務当局が独占している」という。

 毎日新聞の小倉孝保氏(現論説委員)は、2011年に「ゆれる死刑」と題する本を出している(岩波書店)。ニューヨーク支局長であった時に米国で死刑執行の現場に立ち会い、関係者に取材しながら米国と日本の死刑制度を比較した本だ。

 小倉氏は日米の死刑に対する情報公開の度合いの違いに驚く。

 米国では死刑執行日が事前に公開されている。家族、被害者遺族、ジャーナリストらが執行に立ち会える。日本では、「死刑確定囚になれば、接見は家族・親族らに限定される」。死刑執行は事前には本人にも弁護士にも知らされず、執行の立ち合いは検察官や建設事務次官、拘置所長に限られる。家族、遺族、ジャーナリストは立ち会うことができず、執行の検証は不可能だ。「日本の死刑は閉じられた形で執行されているのだ」。

 「閉じられた形」であることで隠されてしまうことの1つが、日本で行われている死刑の執行方法、つまり、絞首刑の残酷さだ。米国では薬物注射による執行が一般的だが、それでも死刑囚が亡くなるまでに時間がかかることがあり、苦しみをいかに軽減できるかの議論が起きている。

 筆者は日本の死刑囚に対する絞首刑の詳細をこの本や先の日弁連の資料で、初めて知った。

 日弁連の資料によると、床に立った死刑囚は目隠しをされ、首にはロープがかけられる。足の下の部分にある踏み板が開き、落下する。床の下は空間になっている。「自分の体重がかかり、ロープで首が絞められることで呼吸ができず、脳に血が流れなくなり、死に至る」。場合によっては、踏み板が落下してから15分以上も苦しみ続ける事例があるという。

 小倉氏は、米国で死刑を決める裁判官、執行を行う刑務所で働く人々、死刑囚の懺悔を聞く牧師などをインタビューし、それぞれが悩みながら「最後の場面」にかかわってゆく様子を「ゆれる死刑」でつづっている。

 今のままの日本の死刑制度でいいのかどうか、少なくとももっと情報公開をするべきではないかなど、話し合ってみてはどうだろうか。

 2022年7月26日に行われた、法務大臣の臨時会見の概要もご参考に。

 引用:

 法務大臣:国民的議論ということですが、死刑の在り方については、我が国の刑事司法制度の根幹に関わる問題です。議論をいただくとした場合に、法務省が主導するというのではなく、多くの国民の皆様が、その必要性を感じて自ら議論に参加するというような形で、幅広い観点から議論がなされることが適切であろうと考えています。そのような国民的な議論の動向については、当然、私としても関心を持って注視していきたいと考えています。

ジャーナリスト

英国を中心に欧州各国の社会・経済・政治事情を執筆。最新刊は中公新書ラクレ「英国公文書の世界史 -一次資料の宝石箱」。本のフェイスブック・ページは:https://www.facebook.com/eikokukobunsho/ 連載「英国メディアを読み解く」(「英国ニュースダイジェスト」)、「欧州事情」(「メディア展望」)、「最新メディア事情」(「GALAC])ほか多数。著書『フィナンシャル・タイムズの実力』(洋泉社)、『英国メディア史』(中央公論新社)、『日本人が知らないウィキリークス』(洋泉社)、共訳書『チャーチル・ファクター』(プレジデント社)。

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