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英新聞界の「伝説」編集長エバンズ氏とはどんな人だったのか ーサリドマイド報道、マードックとの対決も

小林恭子ジャーナリスト
エバンズ氏の訃報を掲載する、英ガーディアン紙(9月25日付、撮影筆者)

 英サンデー・タイムズ紙、タイムズ紙の編集長だったハロルド(通称「ハリー」)・エバンズ氏が、9月23日、亡くなった。享年92歳。

 エバンズ氏と言えば、英国の新聞界では最も著名な編集長の一人。いや、正確には「今現在、最も尊敬されている新聞の編集長を一人挙げなさい」と言われたら、「この人」というしかないぐらいの伝説的人物だった。

 「一人だけ」挙げるためには、高く評価されている新聞紙の編集長であったことや、販売部数を増やし、スクープ記事や深い調査報道記事をどんどん出した実績が必要だ。既成権力に挑戦する報道を行い、その結果法律や制度を変えることで多くの人に希望を与えるという社会的貢献度も加味される。

 それに加え、新聞界の中でどれぐらい尊敬されているか、つまり仲間内(ほかの新聞の編集長や部下として働いていた記者たちや新聞の制作チーム)からどれだけ敬意を持たれているか、愛されているかも関係する。

 そして、できれば、取材から執筆、紙面のデザインを含めての制作の全過程に通じていて、あらゆることに関心があって、「無類の新聞好き」でもあるべきだろう。

 あなたの職場に、こんな上司はいないだろうか。とにかくなんだか「熱く」って、始終一緒に仕事をしていたらそのスタミナに圧倒されてしまう人。でもつい一緒に走りたくなるような上司。エバンズ氏の自伝やほかの人の話を総合すると、エバンズ氏はそのような編集長だったようだ。

 ガーディアン紙の元編集長アラン・ラスブリジャー氏はエバンズ氏を「最善のジャーナリズムが何であるかを教えてくれた人」という見出しの記事を同紙に寄稿している(電子版9月24日付)。

英ガーディアン紙の編集会議を訪れたエバンズ氏(中央)(ガーディアン紙、紙版9月25日付、紙面撮影筆者)
英ガーディアン紙の編集会議を訪れたエバンズ氏(中央)(ガーディアン紙、紙版9月25日付、紙面撮影筆者)

 エバンズ氏の編集長としてのキャリアは2つの言葉で要約できる。「調査報道(サリドマイド事件が最も著名)」と「メディア王と言われるルパート・マードック氏との仲たがい」である。

 エバンズ氏の人生とその職業上の経歴を紹介してみたい。

鉄道員の息子、新聞界へ

 エバンズ氏は、1928年、イングランド地方北部マンチェスターで生まれた。両親は英西部ウェールズ地方出身で、父は鉄道員、母は自宅兼八百屋を営んでいた。

 子供の頃からジャーナリズムに関心を寄せ、速記を学んだ後で16歳で地方紙「アシュトンアンダーライン・レポーター」の見習いとなった。1944年のことである。面接では、紙を渡され、「アスパラガス」という指示を出されて困ってしまう。「パラグラフ(段落)ごとに、タイプしなさい」という意味だった(自伝「マイペーパーチェイス」より)。速記を習得していたこともあって、就職が決まった。新聞界の最初の一歩だった。

 しかし、同紙での経験は長く続かなかった。当時、第2次世界大戦が続いており、徴兵制の下で英空軍の事務員となった。除隊後、イングランド地方北東部にあるダラム大学で勉強。学生新聞の編集に携わった。大学在学中に出会った女性と結婚している。

 卒業後はマンチェスター・イブニングニュース紙に籍を置きながら、インドで新聞製作技術を学習し、研究奨励制度「ハークマン・フェローシップ」の研究生となって米国でジャーナリズムを学んだ。同紙で副編集長まで上り詰めたが、1961年、北部ダーリントンで発行される地方紙「ノーザン・エコー」に転職。今度は編集長である。32歳。

キャンペーン・ジャーナリズムを始める

 エバンズ氏はノーザン・エコー紙で「キャンペーン・ジャーナリズム」を開始する。世の中の不正義に怒りを覚え、公的な目的を達成するために新聞を使ってキャンペーンを行うようになったのである。

 その具体例が英国の女性に子宮がんの検診を義務化させる報道(現在、英国の子宮がん検診は無料。私自身もその恩恵に授かっている)や、死刑廃止につながった冤罪解明報道(「ティモシー・エバンズ事件」。「エバンズ」という名前は同じだが、エバンズ編集長とは無関係)など数多い。

 特に力を入れたのが調査報道で、サンデータイムズ紙(1966年、副編集長、1967-81年、編集長)では「インサイト」という調査報道チームを立ち上げている。

 最も著名な報道は、エバンズ氏の代名詞ともなるサリドマイド事件だ。

 公益財団法人いしずえ(サリドマイド福祉センター)のウェブサイトによると、サリドマイド剤は、欧州では1957年10月1日に発売され、1961年11月27日に発売が停止(日本では1958年 1月から発売、1962年9月18日に販売停止)。

 当初は睡眠薬として紹介され、副作用が少なく安全な薬と宣伝されたことから、世界各国の妊婦がつわりや不妊症の解消のために服用した。

 しかし、数か月服用した妊婦から重症の四肢の欠損症や耳の障害などを生じた子供が生まれるようになった。

 英国の慈善団体でサリドマイド児を支援する「サリドマイド・トラスト」によると、被害者総数は世界中で推定約1万人。英国内でトラストの支援を受けるサリドマイド児は、現在461人である。「児」と言っても、60歳前後に達している。

 エバンズ氏がサリドマイド問題に目を向けるようになったのは、1962年。ノーザン・エコー紙の編集長だった時だ。サリドマイド児の写真を掲載したところ、「家族が読む新聞に載せるべきではない」と抗議が殺到した。

 サンデー・タイムズ紙の編集長となっていた1967年、サリドマイド児には何の補償金の支払いもなかった。家族たちが英国でこの薬を製造したディステラーズ社に損害賠償を求めて提訴していたが、メディアは事実上、これを詳細に報道する道を阻まれていた。英国の法廷侮辱法の下では、裁判が行われている案件の報道には厳しい制限がつく。司法審理への介入と見なされないような報道をする必要があった。

 サンデー・タイムズ紙の調査報道チーム「インサイト」は、ディステラーズ社が十分な安全性のテストを行っていなかったこと、薬を開発したドイツのグリュネンタール社が安全性の根拠としていた米医師による記事が実体のないものであることを突き止めた。

 1960年代末までにディステラーズ社と家族側は補償金の支払いで合意するが、被害者側からすると不当に低い金額だった。1971年、新たに賠償裁判を起こした家族側に対し、ディステラーズ社は前回の合意金額の3分の1に相当する額の提供を申し出た。

 これに大いに義憤を感じたエバンズ氏は、侮辱罪の適用覚悟で、サリドマイド報道を1972年9月から開始した。サリドマイドの販売によってディステラーズ社が過失行為を行ったとする報道はできず、サリドマイド児の扱いはもっと良いものであるべき、という道徳的見地からの報道となった。

 一連の記事は読者からの支持を得て、小切手を送ってくる読者もいたという。しかし、メディア界や司法界からは批判された。著名な歴史家A・J・P・テイラー氏はサンデー・タイムズの報道を「まるで悪魔狩りだ」と表現した。

 しかし、報道が続く中で下院でも補償問題が取り上げられるようになり、十分な補償を出さないことで会社の評判に傷がつくことを恐れるディステラーズ社の株主の意向もあって、1973年1月、同社は家族側が求めていた補償金の支払いに応じた。最終的に、ディステラーズ社からは2700万ポンド(現在のレートでは約36億円)、英政府から500万ポンドが支給されることになった。

 1976年、欧州人権裁判所は、サリドマイド被害の原因を検証する記事への差止め令は「表現の自由の権利に違反する」という判断を示した。これでようやく全容の報道が可能になった。 

 しかし、薬害についての情報をサンデー・タイムズ紙は内部告発者から高額で買うことになり、ジャーナリズムの本道からは逸脱する「小切手ジャーナリズム」になった部分もあった。

 当時の報道チームの1人だったフィリップ・ナイトリー記者は著作「新聞記者の進化」の中で、サンデー・タイムズを含む新聞メディアの初動が遅かったこと、「8000人近くの児童を救えなかったこと」の無念さを記している。

 このほか、「ケンブリッジスパイ」の1人キム・フィルビーの正体暴露などの著名な調査報道のいくつかについては、筆者の著作「英国メディア史」(2011年、中公選書)に記しているので、ご関心がある方はご覧いただきたい。筆者は本を書く過程でエバンズ氏のことを初めて知った。

マードック氏と衝突、米国へ

 1970年代と80年代、英新聞界では労組のストが多発するようになった。いくつかの新聞は一時的に発行を停止せざるを得なくなった。

 エバンズ氏が編集長だったサンデー・タイムズ紙も例外ではなかった。

 サンデー・タイムズと平日紙タイムズはカナダのメディア王と言われるトムソン家が所有してきていたが、1980年頃には当時の所有者ケネス・トムソン氏は亡くなった父が14年前に買った両新聞の売却を考えるようになった。

 1981年1月、買収したのはルパート・マードック氏だった。

 この時、マードック氏はすでに大衆紙サンと日曜大衆紙ニューズ・オブ・ザ・ワールドを所有していた。さらに全国紙を所有すれば、公正取引法に引っかかる可能性があった。独占・合併委員会が審査に乗りだすことになる。

 しかし、該当する事業が利益を出していない場合、独占・合併委員会による審査は必要とされない。

 売却直前の時点でタイムズは損失を出していたものの、サンデー・タイムズでは利益が出ていた。しかし、審査は行われず、当時の通産大臣は売却を認可した。

 独占・合併委員会による審査が行われなかったのはマードック派のサッチャー首相の意向があったから、というのがメディア界のもっぱらの見方だ。

 マードック氏はエバンズ氏をタイムズの編集長に就任させた。売り上げは伸びたが、両者は編集方針や経営に関して意見が衝突。エバンズ氏は1年ほどで編集長を辞職した。

 その後、エバンズ氏は2番目の妻ティナ・ブラウン氏とともに米国に渡る。ブラウン氏自身がジャーナリストで、米雑誌「ヴァニティ・フェア」や「ニューヨーカー」の編集長、ニュースサイト「デイリー・ビースト」の立ち上げで知られている。ダイアナ妃の伝記も執筆している。

 エバンズ氏自身はコンデナスト社の雑誌「トラベラーズ」の創刊、複数の媒体の編集長、1990年代には大手出版社「ランダムハウス」の社長兼出版人となった。サンデータイムズ、タイムズ時代の経験を書いた「グッドタイムズ、バッドタイムズ」(1983年)、米国の歴史を綴った「アメリカン・センチュリー」(1998年)、自伝「マイペーパーチェイス」(2009年)などの著作を次々と出した。

 サンデー・タイムズの編集長だった1970年代には、新聞制作についての著作も数冊書いており、新聞ジャーナリズムにかかわる人にとってのバイブルとなった。

 

 ジャーナリズムについて発言することも多く、2011年にマードック氏が所有する新聞で大規模な電話盗聴事件が発生すると、メディア規制の必要性を説く論客の一人となった。

 サンデー・タイムズ時代のエバンズ氏をよく知るジャーナリスト、ハンター・デービス氏は同紙の9月27日付の記事の中で、エバンズ氏が「一時も、じっとしていない編集長だった」と書く。「廊下や編集部内を写真を片手に急ぎ足で駆け回っていた」、「話しかけられるのは、2-3分は立ち止まるトイレの中だけ」。

 エバンズ氏は「仕事を、人生を、行動を、そのすべてのエネルギーを愛した。常に、今にも『1面を開けろ』と叫びだしそうだった」。

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 2014年に公開された、エバンズ氏によるサリドマイド被害についてのドキュメンタリーはネットフリックスで視聴できる

ネットフリックスの番組「デビルを攻撃する」(ネットフリックスの画面より)
ネットフリックスの番組「デビルを攻撃する」(ネットフリックスの画面より)

 

 

ジャーナリスト

英国を中心に欧州各国の社会・経済・政治事情を執筆。最新刊は中公新書ラクレ「英国公文書の世界史 -一次資料の宝石箱」。本のフェイスブック・ページは:https://www.facebook.com/eikokukobunsho/ 連載「英国メディアを読み解く」(「英国ニュースダイジェスト」)、「欧州事情」(「メディア展望」)、「最新メディア事情」(「GALAC])ほか多数。著書『フィナンシャル・タイムズの実力』(洋泉社)、『英国メディア史』(中央公論新社)、『日本人が知らないウィキリークス』(洋泉社)、共訳書『チャーチル・ファクター』(プレジデント社)。

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