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令和・日本の『ロッキー』か?映画『アンダードッグ』が今の日本人を鼓舞する理由

清藤秀人映画ライター/コメンテーター

 去る10月31日、WBAスーパー&IBF世界バンタム級王者の井上尚弥が、同級上位ランカーのジェイソン・モロニーを7回KOで撃破した。井上は見事王座防衛とラスベガス・デビューを果たしたわけだが、会場のMGMグランドガーデンはコロナ禍のために無観客。リングを取り巻く人々の熱狂は遂に聞こえてこなかった。井上自身もホテルでの隔離を余儀なくされる。それでも王者は、「これからが第二章の始まり。まだまだ高みを目指します」と、力強い言葉でファンをさらに歓喜させた。

今こそボクシング映画を観るべき時

 井上vsモロニー戦は稀な例で、今、ボクシング中継はパンデミックの影響で再放送が主流になっている。そのため、海外のボクシング・メディアからは「今こそボクシング映画を観よう」という声が上がっていると聞く。つまり、生がダメならせめて映画のリングサイドに張りつこうという提案だ。

 そんな中、絶妙のタイミングで近日公開されるのが、一昨日閉幕した第33回東京国際映画祭のオープニングと「TOKYO プレミア2020」で上映された『アンダードッグ』だ。今から6年前、32歳の冴えない女性がボクシングに目覚めたことで再生していく『百円の恋』(14)で多くの映画賞に輝いた武正晴監督以下、脚本(足立紳)、プロデューサー(佐藤現&平体雄二)、撮影(西村博光)、照明(常谷良男)、音楽(海田庄吾)と、主なスタッフが再集結した渾身の最新作である。

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 まず、この映画、構成がいい。過去の栄光が忘れられず、たとえスター候補選手たちの練習台に成り果てても、ボクサーとしての本能に従って、最後のリングに上がろうとするベテランボクサーの晃、痛ましい過去を引き摺る若き天才ボクサーの龍太、そして、父親の七光に助けられて笑えないギャグを連発し続ける芸人ボクサーの宮木。以上、惨めさでは引けを取らない3人の男たちが、再起を誓ってリングに上がる2つの試合(晃vs宮木、晃vs龍太)が前後編(131分、145分)として描かれ、観客は贅沢にもカタルシスを2度味わうことができるのだ。

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 トータルで4時間36分は長く感じない。なぜなら、ボクサーたち各々のストーリーにそこはかとない哀愁と絶望と、強い説得力があるからだ。晃には息子に夢を託す借金まみれの年老いた父親と、ボクシングが止められない夫に愛想を尽かした妻と、そんな晃の再起を信じる息子がいる。そして、晃が日銭稼ぎのため車で送迎するシングルマザーのデリヘル嬢にも、彼女なりの切実な事情がある。ボクシング未経験の宮木はTV局の指示により、芸能界引退をかけて晃とのエキシビション・マッチに臨むことになる。そして、龍太は半グレとして荒れ果てた生活を送っていた過去があり、それがボクサーとしての成功に影を落とすことになる。映画のテーマはボクシングだが、細部に底辺で生きる人々の切実な事情と声にならない怒りが隠れているのだ。

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 俳優たちの役作りにも圧倒される。脚本完成前に出演オファーを受け、快諾したという晃役の森山未來は、スパーリング、本物のボクサーが実践する筋力の持続力を付けるためのトレーニングと食事療法を積極的に取り入れ、『百円の恋』にも参加した俳優兼ボクシング指導者の松浦慎一郎をして、「僕が要求する以上の結果を出してくるので、逆に心配になった」と言わしめたほど。何よりも、晃の荒みきった心を冷めた目の表情と低い声で表現して、人物の背景を一瞬にして説明してしまう俳優・森山未來の凄さには、本当に圧倒される。それは、俳優としてのエゴを封印して、役柄に身を捧げることに集中する一流のプロの仕事なのではないだろうか。龍太役の北村匠海と宮木役の勝地涼も、ベンチプレスを主にボクサーとしての体型づくりに励み、リングに上がったことは言うまでもない。

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 ほぼ半年間に渡り、トレーニングを積んで撮影に臨んだ俳優たちの顔と体が、リングの上で弾け飛び、汗と鮮血に染まる様子をとらえるスタッフは、前記の『百円の恋』チーム。特に、後編のクライマックスで展開する晃vs 龍太戦は、日本がコロナ禍に突入する直前の今年2月、ボクシングの聖地、後楽園ホールを貸し切り、1000人のエキストラを入れて撮影されている。両者のボディが当てたふりとは言え、パンチを食らってブルブル震えるのを、3台のカメラが至近距離で映し出すシーンは、まさに映画で味わうボクシングのカタルシス。今こそ観るべき作品だと実感させる。

 プロのボクシングトレーナーとして、2010年にボクシング界に貢献したトレーナーに贈呈されるエディ・ダウンゼント賞を授与されている松浦慎一郎は、劇中で龍太のセコンドを演じている。そして、宮木のセコンドを演じているのは、宮木と同じく、バラエティ番組の企画でプロボクサーのライセンスを取得し、後楽園ホールで行われた試合で”ロバート山本”のリングネームでデビューしたお笑いトリオ、ロバートの山本博だ。彼もまた、2015年にトレーナー・ライセンスを取得している。だからだろうか、俳優たちの熱演や巧みな演出以上に、ラウンドが終わる度に選手の側に駆けつけ、現況の分析や次の作戦について伝授するセコンドたちか妙にリアルで、観客の臨戦状態に拍車をかけるのは。

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 晃の今の状態に絶望しながらも、最終決戦でセコンドを買って出るジムの会長を演じる俳優、芦川誠のうらぶれた存在感にも味わいがある。かつて『HANA-BI』(98)等、北野武作品でキャリアを積んだ彼にとって、本作は代表作の一つになるのではないだろうか。

 アンダードッグ(噛ませ犬)とは本来、闘犬において調教する犬に自信をつけさせるために当てがわれる弱い犬のこと。それが、格闘技で華々しい勝利を観客に見せつけるために、意図的に組まされる格下の対戦相手の通称として使われるようになった。映画に登場した噛ませ犬の代表は、『ロッキー』(77)でシルベスター・スタローンが演じた3流ボクサーのロッキー・バルボアだろうか。しかし、『アンダードッグ』の晃と、彼に与えられた勝つためのモチベーションと、ラストに訪れる感涙の度合いは、伝説のハリウッド映画に勝るとも劣らない。打ちひしがれた人々に希望をもたらすという意味で、これを令和・日本の『ロッキー』と呼んで差し支えないと思う。

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『アンダードッグ』

11月27日(金)よりホワイトシネクイント他にて[前・後編]同日公開

(C) 2020「アンダードッグ」製作委員会

配給:東映ビデオ

映画ライター/コメンテーター

アパレル業界から映画ライターに転身。1987年、オードリー・ヘプバーンにインタビューする機会に恵まれる。著書に「オードリーに学ぶおしゃれ練習帳」(近代映画社・刊)ほか。また、監修として「オードリー・ヘプバーンという生き方」「オードリー・ヘプバーン永遠の言葉120」(共に宝島社・刊)。映画.com、文春オンライン、CINEMORE、MOVIE WALKER PRESS、劇場用パンフレット等にレビューを執筆、Safari オンラインにファッション・コラムを執筆。

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